雷が降り落ちる夜

 教会の外は、雲が形を留めているのが不思議なほどの雨脚だった。雷鳴もさることながら、轟々と降り注ぐ雨音もあって、すぐ横に立っていても会話すら難しかった。

 ヴァリスは実雨粒に目を瞬かせて、実に二年ぶりに孤児院と呼称される建物を見上げた。上空で稲光が横に走り、うらぶれた家屋の姿が露わになった。教会自体と比べるのは酷とは思うが、ほとんど馬小屋も同然の、風が吹けば揺れるような朽ち方をしている。

 ヴァリスは背後のヘルカに目配せし、扉を押し開け、中に足を踏み入れた。

 暮らしていた頃と変っていないはずだ、とのネウの言説は正しかった。むしろあまりに変化がなさすぎて、ヴァリスが目をそむけたくなるほどだった。

 屋根の雨漏りもそのままらしい。ヘルカの鎧に水滴がぶつかり、小さく鳴った。


「なるほど? どうやら、私の寝床を馬鹿にする権利は、ヴァリスにはなさそうだね」


「それは違うよ。いまはここで寝てるわけじゃないし。やっぱりサルヴェンの宿の方が、屯所よりずっと綺麗なのは変わらないしね」


 ヘルカは軽く鼻を鳴らして、ヴァリスを小突いた。


「宿の方を出してくるのはズルくないかい? それに、少なくとも、育ったところは最悪ってところだろうさ」

 ――たしかに、酷い。


 ヴァリスは変わらぬ室内を見渡した。

 申し訳程度に置かれた家具には、数多の傷跡が残っている。毛布は腐って崩れ落ちかけ、置かれた本には黴が生え、風化しかけている。

 かつてはここに、ヴァリスも含めて一〇人ほどの子供がいた。孤児となった理由は様々で、ヴァリスのように、単純に教会の前に捨てられたのなら、幸せな方だった。

 大半の子供は、換金のためにつれてこられたのだ。

 子供たちは、どこからともなく運ばれてきて、王都や周辺都市、あるいは行商人達に、身請けと称して買われていった。用途はまったく分からない。一〇歳を超えているような子供はほとんどいなかったのだから、まさか労働力としてではあるまい。

 運営しているのが教会であるだけに、誰も人を売り買いしているなどとは思いもしない。神の教えの下で不幸な子供を救う。でっち上げにしか思えない名目は、しかし効果は絶大だったようだ。幼い日のヴァリスは、子を連れてくる人々の顔に、後ろめたさを見て取ることはできなかったのだから。

 ヴァリスは、置きっぱなしの椅子の上に、かつての自分の姿を幻視し、首を振った。


「とにかく、鎧を脱いじゃおうか。ここに座って」

「……その椅子、鎧を着たまま座って、壊れたりしないだろうね?」


 椅子に目を落とすと、たしかに古ぼけ、足が細く、いま見ると頼りない。接ぎ目は湿気と乾燥を繰り返して緩み、床に置けば、高さが合わずにガタガタ揺れる。

 が、しかし。


「これは僕が子供の頃に作った椅子なんだ。乱暴に扱っても壊れないよ」

「ほんとかね。まさか、そいつで他の子の頭を叩いたりしてないだろうね?」

「子供相手に、そんなことするわけない。僕は短剣を持ってたし」


 ヘルカは目を手で隠し、肩を揺らした。


「ほかに丈夫そうな椅子はあるかい? できれば大人の頭も叩いてないやつがいい」

「そういう意味で行ったんじゃないんだけどな。それに――」

「それに?」

「ヘルカは、そんなに重くないんでしょ? 前に屯所でそんなこと言ってなかった?」

「なるほどねぇ。そう来たか。挑発したのはそっちだよ?」


 ヘルカは、カッカッと踵を鳴らして歩み寄り、よく見ておけよと言わんばかりに、勢いよく腰を下ろした。椅子は少し軋んだだけで、無事だった。


「ほらみろ。私は鎧を着てても、子供のつくった椅子に座れる程度には、軽いのさ」

「そりゃそうだよ」


 ヴァリスは、ヘルカの鎧を止める革ベルトに手をかけ、一つ外した。


「人の頭を思い切り叩いても壊れなかったんだから」


 ヘルカは、諦めたように首を振り、苦笑した。少し失敗したかもしれない。ただの冗談で、実際に叩いたことはないのだが、分かりにくかったのだろうか。

 革ベルトを外しながら、ヴァリスは椅子の記憶を思い返した。もちろん叩いた記憶などではなく、椅子に座っていた思い出である。

 少し年長になってから、他の子を椅子に座らせ髪を切ったのだ。

 まだ子供の頃は、司祭に切ってもらっていた。言われるままに長く髪を伸ばし、女のような容姿になるまで伸ばしてから、まとめて切り落とす。髪を売るためだ。髪を切られる度に、ヴァリスは自分が家畜なのではないかと錯覚した。そして自分が他の子の髪を切る段になって、このまま教会に居続けたらおかしくなる、と直観した

 革ベルトを外し終えたヴァリスは、髪をきるときにしていたように、ヘルカの髪に指先で触れた。しっとりとした感触は、雨に濡れているせいだけではないだろう。


「? どうしたんだい?」

「あっ、その、なんでもないんだ。えぇと、ベルト、外れたよ」

「ん。ありがとう。……大丈夫かい?」


 首をこちらに振ったヘルカは、訝しげにヴァリスを見上げ、鎧を脱いだ。

 鎧の内側は血の侵入を防ぐため革張りされ、内側に熱を閉じ込めてしまう。さらに鎧の下には防血服として、柔らかく鞣した革の上衣を着こむのだ。返り血を防ぐ鎧と防血服は、それを着るヘルカの躰の熱をも、決して通すことはなかった。

 防血服を脱いで一息ついたヘルカは、手で火照った躰を仰いだ。ようやくシャツ一枚となった躰は、湯気が立つほどに上気していた。

 ヘルカは凝り固まった肩を回して、大きく伸びをした。


「まったく。二人で作っといて、なんだけどさ。暑いったらないよ、この鎧は」

「毎回言うよね、それ」

「しょうがないさ。暑いし、重いし、汗臭くてたまらない。汗を吸った革の臭い、嗅いでみなよ。せめて臭いだけでも、なんとかしたくなる」

「そう? 僕は気になったことなんてないけど」


 ヴァリスは、ヘルカの首筋に鼻を近づけた。彼女の言う通り、汗の臭いが混じってはいる。しかし、それは共に戦うために彼女が払っている代償だ。

 ヴァリスは、感謝することはあっても、嫌な気など一切するわけがない。それどころか、襟足から幽かに澄んだ草木の香りが匂い、思わず身震いしてしまった。


「なんだか、ちょっといい匂いがする」

「ちょっ、こら。犬じゃあるまいし、変なことしないでおくれよ」


 ヘルカは慌てて、ヴァリスの顔を、手で押しやった。


「? 気にしなくてもいいのに。少しいい香りがしたけど、なんの匂いなの?」

「あー……なんというのかな。香油だよ。魔除けに使うんだそうだ。ほら、いつも汗臭い鎧を着てるのも気分悪いだろう? だから少しだけ塗っていて――」


 ヘルカは説明しながら、汗で肌にはりついた白い薄布のシャツをはためかせた。また少しだけ、香油の香りが漂った。


「まったく、これ全部が汗なんだから、たまらない……ってこら!」


 ヘルカの手が伸び、こっそりと近づいていたヴァリスを押し戻す。


「いい匂いだよ? 別に気にするようなことじゃないと思うけど」

「ヴァリス? これでもね、私だって、女なんだよ?」

「知ってるよ。ヘルカが男だったら、もっと重い鎧を着てるはずだ」


 ヘルカは深くため息をつき、唇の片端をあげた。


「さて、せっかく雨が降ってるんだ。水浴びでも――しまった、着替えを忘れた」

「僕もだ。取ってくるよ」

「そんなことを言って、まさか覗く気じゃないだろうね?」


 ヘルカの本気とも冗談ともとれる口ぶりに、ヴァリスは顔をしかめた。


「僕はそんなことしないよ。見たければ、そう言うさ」

「ふん……男がそんなことを、直接言っちゃあダメだよ」

「都合の悪いときばっかり、男扱いだ」

「そっちが先に、都合のいいときだけ、子供になろうとしたんだよ」


 どちらからともなく、二人は笑い合った。いつも通りのはずが、随分と久しぶりに感じる。ヘルカにとっても、同じだろう。

 ヴァリスは小さく手を挙げてみせ、着替えと毛布を取りに教会に戻った。

 相変わらず雷雲が唸ってはいる。しかし草木を揺らす風は、少し弱まっていた。

 礼拝堂に舞い戻ると、鎧を脱いだイグニス一人だけが、残っていた。

 ヴァリスは、入り口近くに積まれた荷物を手に取りつつ、声を飛ばした。


「ネウとイーロイはどこに行ったの?」

「あん? なんでこっちに戻ってきたんだ?」


 虚をつかれたかのようにイグニスが振り返った。


「僕の質問、聞いてた?」

「そらこっちの台詞だ。イーロイの奴なら地下に戻った。お嬢ちゃんの方は、上に寝床があるんだとさ。まったく、俺はどこで寝ろってんだ」

「上に行けば他にも部屋があったと思うけど?」

「お嬢ちゃんがいるんじゃダメだろう。それに病人もいるし、縁起が悪い。かといって孤児院だったか? そっちに行ったらヘルカに殺されっちまうぜ」

「じゃあ、厩にいけば?」


 イグニスは両手で膝を叩き、肩越しにヴァリスを睨んだ。


「クソガキめ。誰が馬の糞と一緒に寝るかってんだ。ここで寝るよ。絶世の美女が見守ってくれるってもんだぜ」

「そう。じゃあこれ、使いなよ。ここは、夜になると冷えるんだ」


 ヴァリスは紐でくくった毛布の一つを、イグニスの方へと投げた。毛布はくぐもった音を立て、赤いボロ絨毯の上に転がった。

 イグニスは天井を見上げ、ぶつぶつと文句を言って、立ち上がった。


「礼は言わねぇからな。こっちもボロだが、そっちよりゃマシなんだ。明日の朝にゃ建物ごと潰れててくれることを祈るぜ。俺はな」


 文句を言いながらも毛布を拾いに来たイグニスを見て、ヴァリスは、言われっぱなしも癪だし、冗談を言ってやるのもよさそうだ、と思った。

 継ぎはぎの鞄を肩にかけ、ヘルカの荷物を手に取って、ヴァリスは言った。


「その像はグルーズだから、リモーヴァの祈りは届かないよ」

「どうだかな。グルーズ様ならリモーヴァの子を殺したいんじゃねぇか?」

「それともう一つ」

「なんだよ。まだなんか言いたいのか? 俺はもう寝たいんだがな」

「この礼拝堂で寝るなら、気を付けてね。夜は特に危ないから」


 それだけ言って、ヴァリスは踵を返した。


「あ? 気をつけろ? なにをだ? おい! ヴァリス! おい!」


 イグニスの怯えたような声が、空しく礼拝堂に響いた。

 水たまりを蹴りつけ孤児院に戻ったヴァリスは、寝室に荷物を置いた。寝る場所は決まったようなものだが、まともに使えそうなベッドは、一つしかなかった。

 ヴァリスはヘルカの荷物をベッドの上に置き、床に毛布を敷いた。


 ――あとは、乾いた布がいるかな? 


 しかし、乾いた布は血拭い布くらいしかもってきていない。仕方なく、数枚を取り出して、これでいいか、とヘルカに聞くことにして、寝室をでた。

 ばたり、と、寝室の扉の音と、入り口の扉とが、重なった。

 孤児院の入り口には、濡れそぼったヘルカが、立っていた。

 二人は動きを止め、見合った。

 雷光が室内を真昼のように照らした。

 ヘルカの服は雨水をたっぷりと吸い込み貼り付いて、白い肌が透かしてみせた。

 古い切傷の跡が残る顔と異なり、躰は鎧に守られ、怪我を負ったことはない。普段は鎧の下にある肌は、日に当たることもない。そして時には肌に香油を塗るという。

 そうして磨き上げられたヘルカの肌は、朝陽を受ける白漆喰の壁よりも温かみのある白を返し、ヴァリスには、神像なぞより、よほど大事なものに思えた。

 見合った二人の間を長い長い時が流れ、再び白い閃光が窓から飛び込んできた。


「っ……!」


 ヘルカは素早く両手を使い、透ける肌を隠した。その様を見て、ヴァリスは弾かれたように背を向けた。

 しかし、彼の網膜には、すでにヘルカの艶姿が焼き付けられていた。透けた上服と下着、それにブーツしか身に纏っていない姿。そして、ただ驚いているだけという珍しい色の瞳。なにより、躰を隠す仕草が普段の調子とはまるで別物で、ヴァリスはこらえきれず唾を、ごくり、と飲み込んだ。

 同時にヘルカの笑い声が、雷鳴に隠れて聞こえてきた。


「あんまり気持ちのいい雨だから、まったく油断してたみたいだね」

「ご、ごめん。悪気はなかったんだけど、乾いた布を、持って行こうかと思って」

「うん。ありがとう。そこに置いておいてくれるかい?」

「わ、分かった。じゃあ、その、ここに、置いておくから」


 ヴァリスは手探りで机を探し当て、後ろ手に血拭い布を置いた。


「僕は寝室にいるから! ほ、ほんとにごめん!」

「ちょいと待ちなよ!」


 部屋に飛び込もうとしたヴァリスはしかし、ヘルカの声に、足を止められた。


「な、なに?」

「着替えだよ、着替え。まさか、この恰好で私が入ってくるのを、ベッドに座って眺めていようって――」

「ち、違うよ!」


 ヴァリスは首を振って、抗議の声をあげた。そう。首を振った。

 ヘルカの顔が引きつった。彼女は、いつもの調子で冗談を言っていたのだろう。肌を隠していた両手を、左右に開いていた。稲光こそなかったものの、蝋燭の淡い光で照らされた姿は、閃光の下で見るのとはまた違う艶めかしさをみせていた。


「ご、ごめんね!」


 今度こそ、ヴァリスは部屋に飛び込んだ。

 いつもなら聞こえてくるであろうヘルカの笑い声は、今日に限って聞こえなかった。

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