決断

  礼拝堂のグルーズ神像を前にして始まった話し合いは、取れる手段が少ないこともあり、ほとんど結論ありきだった。戦うのが不利だとわかっている以上、逃げる算段が優先される。そうイグニスは主張した。

 そしてヘルカもまた、街に戻り対策を立てるという案に、同調した。


「王を殺せば止まるとは言ってもね、いまからサルヴェンに戻って手勢を集めて舞い戻る、なんて、無茶どころの話じゃない。ネウだって、まだ死にたくはないだろ?」


 話を向けられたネウは、思いつめた顔をして、錆びたグルーズ像を見つめていた。

 今朝から降り続いていた雨は激しさを増し、外では雷鳴が轟いていた。時おり吹きつける風で、教会全体が軋んでいるような圧迫感がある。

 ふいに稲光が走り、一瞬だけ、燭台の赤い光が、青白い光で塗りつぶされた。

 朽ちかけの長椅子に座っていたネウは、雨音で消えそうなほど小さな声で言った。


「私は、王都に行って、大教会を頼ってみようかと思います」

「ネウ、バカなことを言うもんじゃないよ。大教会でどうにもならなかったから、ヴァリスを呼ぶ算段になったんだろう? 戻って、なにができるのさ」


 ヘルカは、諭すような調子で、ネウに詰め寄った。


「私には、祈ることくらいしかできないかもしれません。でも、私は行きます」

「私がネウをここに連れ戻してきたのは、死にに行かせるためじゃない。司祭様と一緒に、逃げてもらうためさ。それでも王都に行くっていうなら、私はなんのために連れてきたのか、わからなくなっちまうよ」


 腕組をしたヘルカは、詰問にも似た雰囲気で、ネウの顔を覗き込んだ。

 ネウは胸に手を当てて、儚げに微笑した。


「王都で失敗した暗殺計画も、大教会が立てたものです。ヴァリスさんを呼べば暗殺できると考えたのなら、まだ力は残っているはずです。ついて来てほしいとは言いません。私はまだ子供かもしれませんが、子供だからこそ、ゼリも油断してくれるかもしれない。大教会と協力して謁見の機会が得られれば、刺し違えてでも、私が」

「ハッ! 刺し違えるだぁ!?」


 イグニスが鼻を鳴らし、ネウを睨みつけた。


「お嬢ちゃん。あんた、槍一本どころか、ヴァリスの短剣だってマトモにもてねぇだろうが。なにが刺し違えるだよ。戦争なんて大それたことを考えてる奴が、ガキだからって油断するわけねぇだろ」


 説得というよりも、威圧だ。それも道中で何度も見せた、怒りや苛立ちからしているのではない。これまでなら、どやしつけられたネウは、黙って従っていただろう。

 しかし、今度ばかりは、彼女は、そうしなかった。グルーズ神像のように、顔を凍りつかせて、ただ微笑んでいた。


 ――やっぱりネウは、僕と同じなんだ。


 思いを胸の裡だけに留めて、ヴァリスは、窓の外にある家に目をやった

 降り注ぐ雨と質の悪いガラス窓のせいだろう。時おり稲光で照らし出される孤児院と名付けられた家屋は、奇妙に歪んで見えた。あの歪な家に住まわされていた頃のヴァリスは、つい先日までのネウと同じだ。

 しかし、教会を出ると決めたときのヴァリスは、ネウが、いまそうしているように、恐怖を無理やりに押し込め、覚悟を決めたフリをした。

 そして今は、ヘルカがしてくらように、誰かに手を差し伸べることだってできる。

 ヴァリスは皮手袋を外して、冷たくなった窓ガラスを指先でなぞった。


「刺し違えることになるなら、それは僕の仕事だよ」

「はぁ!?」「ヴァリス!?」


 イグニスとヘルカが、ほぼ同時に叫んだ。ありえない、とでも言いたいのだろう。

 しかし、すでにヴァリスは、ネウを助けることに、決めていた。


「ネウは、あいつに頼まれて僕のところにきた。無茶な仕事だとは思うけど、僕ならできる。できると思う」

「ヴァリス! お前、勘違いするんじゃないよ!? 相手は反逆者じゃない!」


 叫ぶように言ったヘルカに、ヴァリスは頷き返した。


「知ってるよ。でも僕には、したいことがあるんだ」

「したいこと?」

「僕は、ヘルカにしてもらったことを、ネウにしてあげたい」

「私が、したこと……?」


 ヘルカは、目を見開いて、眉間に深い皺を作った。意味が分かった。そういう顔だ。

 彼女は湧き出る怒りを殺すかのように、両の拳を力いっぱいに握りしめていた。


「……本気で言ってんのか? お前。まずどう考えても、お前、死ぬぞ?」


 イグニスは、珍しくからかうような調子ではなく、真剣な顔をして、そう言った。

 ようやく、以前にヘルカが言っていた言葉の意味が、少し分かった。自警団は家族みたいなもの、というのは、イグニスにとっても同じなのだろう。どれだけ嫌っていようとも、彼にとって、ヴァリスは家族で、必要なら守るべきものなのだろう。

 理解できるようになったとはいえ、従うわけにもいかないのだが。


「僕は本気だよ。ネウは、街についたころの僕と同じだ。すごく困ってる。困ってるけど、自分だけでなんとかしようとしてるし、できると思ってる。だけど、一人じゃ絶対に無理だ」


 ネウが、ぴくりと、躰を震わせた。

 ヴァリスは、構うことなく、言葉を継いだ。


「無理なんだよ、そんなこと。誰かが手を貸してやらなきゃ、できるわけがないんだよ。でも、ネウの困っていることは、イグニスにも、ヘルカにも手伝えない。だけど僕なら手伝える。だったら、僕がやらないと、可哀想だ」


 言い切ったヴァリスは、ようやくにして霞がかった心が、晴れた気がした。

 ずっと引っかかっていた。初めて姿をみたときから、教会まで連れ帰ってくる道中でも、常に過去の自分の姿を重ねていた。

 気にし続けていた。ヘルカにかけてもらった恩を、どうやって返せばいいのか、この二年の間、悩んでいた。借りは増えるばかりで、一向に返せなかった。自分を生かしてくれた世界に、借りを返すなら、いま以上の好機はない。

 ヴァリスは腰をかがめて、ネウと視線を合わせた。


「僕は、依頼を受けるよ。僕がゼリを殺す。刺し違えてでも、僕が殺すよ」

「……ありがとうございます」


 心の荷が少しは軽くなったのか、ネウは儚げな笑顔を浮かべ、深々と頭を下げた。


「お願いします、ヴァリスさん。……いえ、ヴァリス」

「……っ! 冗談じゃない! 冗談じゃないよ! ヴァリス!」


 ヘルカが、猛然と抗議の声をあげた。


「私はそんなことをさせるために、拾ったんじゃないよ! 私は、私は――」

「自分の死んだ弟に重ねたんだろ?」


 イーロイが冷たい声で言った。ヘルカの顔が、醜く歪む。

 弾かれたように首を振り、イーロイを睨みつけた。


「私は、そこまで女々しくはないよ――」

「知らないって。俺はな」


 イーロイは長椅子の背もたれを一撫でして躰を預け、腕を頭の後ろで組んだ。


「お前が俺にする話といえば、ヴァリスの話だけだろう? ヴァリスがどうした、こうした。いつだってそうだ。俺は仕事柄、いろんな連中の話を聞く。だからよく分かるんだよ。お前がヴァリスの話をするときはな、いなくなった家族の話をする患者たちと、一緒なんだよ」


 ヘルカは瞼を固く閉じた。目を開くと、ヴァリスを一瞥し、窓の外に目をやった。ガラス窓に反射して映るヘルカの顔は、涙をこらえているように見えた。組んだ腕が微かに震え、触れ合った籠手と鎧が、幽かに鳴った。

 ガツリ、と鈍い音がした。

 とうとつに、イグニスが、床を蹴りつけたのだ。


「落ち着け、なんて言えるガラじゃねえのは、自分でも分かってるつもりだぜ。だけど敢えて言わせてもらう。落ち着けよ。お前の相棒が決めたことなんだろ?」

「……そうだね、たしかに、私の相棒が決めたことだ」


 俯いたヘルカは、呟くようにそう言い、薄笑いを顔に張り付けた。


「イーロイ、あんたはどうする? ヴァリスについていくのかい?」

「いきなりだな。まぁいいさ。俺はここに残る」


 イーロイの宣言に驚いたのは、ヴァリスだった。


「なんで? ここに残ってどうするのさ」

「地下室だよ、ヴァリス。俺はお前の持ってる、反逆の種とやらに興味があったからついてきたんだ。膨大な数の人を救えると思ったからな。でもそれは、地下に置いてある資料でも大丈夫そうだ。それに――」


 イーロイは人差し指を立てて、天井に向けた。


「お前の親父は動かせない。馬に乗せて運ぶのだって、無理だろうな。だが俺がここに居れば別だ。完璧に直してやる、とは言えないさ。それでも、あっちこっち動かすよりは、長生きさせてみせるよ。これでも、医者だからな」


 イーロイは自信ありげに返答にした。一度決めた以上、もう彼は決断を覆したりはしない。それに地下の資料を読み解けるのは、イーロイか司祭くらいだろう。そして信仰を持たない分だけ、司祭より客観帝に理解できるのも事実だ。

 くわえて、ヴァリスにとっては重要なことがあった。


「あいつは父親なんかじゃない。でも、僕が行って帰ってくるまで、もたせておいて」

 

 司祭には、聞きたいことが山ほどあるのだ。

 イーロイは眉をひそめて、丸眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。

 

「酷いこと言うなよ。まぁいいさ。帰ってくる頃までには、そこらを走り回れるようにしといてやるよ」

 冗談めかした言い回しに苦笑しつつ、ヴァリスは、イグニスへと目を滑らせた。

 視線に気づいたイグニスは、舌打ちをして、大げさに息をついた。

「俺はサルヴェンに戻るさ。当たり前だろ? 俺はあの街の自警団員で、お前らのお目付け役でここまで来たんだ。……だがまぁ、俺はお前のことが大嫌いだからな。お前がどうなろうと、知ったこっちゃねぇよ」

 そう言って、イグニスは頭を激しく掻き乱した。自分の言ったことが恥ずかしいのか、唸り声を上げながら、グルーズの像を眺め出した。

 ――酷い芝居だ。 

 胸の裡だけでそう呟き、ヴァリスは、ヘルカを見上げた。

「僕はネウに手を貸すよ。運命がどうとかは知らない。だけどこれは、僕が一番うまくやれるかもしれない。だったら、僕がやろうと思うんだ」

「……ネウと二人だけで王都に行って、なにができる? 人を殺せるのかい?」

「ごめんね、ヘルカ。僕は、ヘルカにお礼をしたくても、全然足りないんだ。一緒に居ても、この二年間で借りばっかり作ってる。だから、ネウの持ってきてくれた仕事は、チャンスなんだと思う。直接のお礼じゃないから悪いとは――」

「答えになってない。私は貸し借りなんて考えたこともない。ただ――」

 ヘルカは言葉に詰まり、歯噛みした。

 稲光が光り、雷鳴だけが礼拝堂にこだました。

 高い破裂音がした。

 手を叩いて皆の視線を集めたイーロイは、静かに言った。

「とにかくだ。御覧のとおり、外は雷までなってやがる。いまから王都まで歩いていきますってわけにはいかないだろ? ヘルカも、ヴァリスも、二人で、じっくり考えてみろよ。一晩経ってもかみ合わないなら、そこで終いにしたらどうだ?」

 ヘルカは髪を掻き上げ、細く、長く、息を吐きだした。

「……ちょっと熱くなりすぎたかもね。ヴァリス、悪いけどさ、鎧を脱ぎたいんだ。手伝ってくれるかい?」

 ヘルカは泣きそうな顔をしていた。二人で組んでから、初めてみせた表情だ。

 ――こういう時には、冗談を言う。

 ヴァリスは騒ぎ続ける胸を無視して、口角をあげた。

「もちろん。外は雨が降ってるし、ついでだから、頭を冷やすといいよ」

「……生意気になったね」

 ヘルカは鼻を鳴らし、唇の片端をあげた。

「でもまぁ、それも私のせいかもね。だとしたら、責任は私がとらないと、だ」

 冗談に、いつもの軽い調子がない。これでは、悲劇が悲劇のままになってしまう。あきらかに無理をしていて、却って落ち着かない。

 ふいに、興味深げにグルーズ像を眺めていたイグニスが、おどけるように言った。

「なんで女神像ってのは、こう艶めかしく作るんだかな。なぁ? ヴァリス」

「僕に聞かないでよ」

 そう口にしつつ、ヴァリスは、内心でイグニスに感謝した。

 それはヘルカも同じだったようで、彼女は鼻を鳴らして、イグニスの鎧に包まれた背を、ガチン、と叩いた。

「嫌だねぇ。本物の美女がこんな近くに居るってのに、像なんかに夢中になってさ」

「バカなこと言ってんじゃねぇよ。お前にゃ色気と、淑やかさってものが足りねぇ」

「よく言うよ。そんなんだから、あんたは未だに独りなんだ」

「うるせぇ! ほっとけ!」

 ヘルカは首を左右に振り、背中越しに、親指でイグニスを指さした。

「ここじゃ、あのエロ親父に覗かれる。どこかいい場所はあるかい?」

「すぐそこに、みんなが孤児院って呼んでいたところがあるよ」

 ヘルカの背後で、イグニスが憮然としていた。

 それを横目にヴァリスは、椅子の背もたれに手をつき、立ち上がった。

「ネウ。あそこには、まだベッドとかは残ってるの?」

 ネウは、膝の上に組んだ手を、じっと見つめていた。揺れる燭台の日に照らされた顔はまだ強張っていて、心ここにあらずと言った様子だ。

「ネウ? 孤児院には、まだベッドとか残ってる?」

「えっ? あっ、ご、ごめんなさい! 大丈夫です! 捨てたりとかは、一切してません! 多分ですけど、ヴァリスさんが、ここを出たときのままだと――」

「ありがとう」

 さらりと礼を言い、ヴァリスは手袋を外してネウの頭の上に手を置き、撫でた。細く柔らかい髪の毛の感触は、どことなく猫に似ていた。

 きょとんとしてヴァリスを見上げていたネウは、ふっくらとした紅色に染めた。しかし手を払うことはなく、目を伏せ、されるがままにしていた。

 ――誰かに撫でてもらうと、落ち着くよね。

 ヴァリスは口元を緩め、ヘルカを手招きした。

「ついてきて。案内するよ。僕の育ったところを」

「育ったところ、か。ようやく、故郷を案内してもらえるってわけだね?」

「故郷なんて、そんな大したものじゃないけどね」

「いいや。誰がなんと言おうと、ここはヴァリスのテリトリーだ。強気になってる」

 ヘルカはそう言って微笑んだ。まだ納得がいっていないようではある。それでもずっと気を張っていられるのは、どうにも落ち着かない。やはりヘルカには、いつもの不敵さが似合っている。

 ヴァリスは安堵の息をつき、礼拝堂の扉を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る