司祭

 元より年老いていたとはいえ、最後に見た司祭は、まだ矍鑠としていた。しかし、いま床に伏せている老人の顔には、死相すら見て取れる。元々痩身の男だったが、頬骨を浮かせ、首に筋が浮く程ではなかった。

 屍のようになった司祭が、乾きひび割れた唇を、動かした。


「ネウが、連れてきてくれたのか。……大きくなった」


 酷くしゃがれ、力の無い声だった。

 いたたまれない。

 落ちくぼんだ瞳をみているだけで、いますぐにでも部屋から出ていきたくなる。

 ヴァリスは瞼を強く閉じ、精いっぱいの虚勢を張った。


「僕は、あんたに会いたくて来たわけじゃない。勘違いしないで」

「……しばらく見ない内に、随分と生意気な口を聞くようになったな」

「そっちは死にかけになった。それに、なに? リモーヴァの子って。そっちは初めて聞いたよ」

「それは、お前がこの教会に来たとき――」


 司祭は激しく咳き込み、言葉はそこで途切れた。病の臭いが漂うような咳は収まる気配はなく、苦るしそうに身をよじっていた。

 イーロイが司祭の床に寄り添い、司祭の胸に手を置いた。


「私は医者ですよ、司祭様。咳はいつからしておいでで?」


 胸を擦るイーロイの手を握った司祭は、苦しそうに息をついた。


「……医者か。医者に直せると病では、ない」

「診てみなければ分かりませんよ。躰は、起こせますか?」


 躰を起こさせようとするイーロイの手を押さえ、司祭はヴァリスを見据えた。


「ヴァリス。リモーヴァの子よ……受けてくれるか?」


 答えられなかった。

 断った次の瞬間には息を引き取りそうで、ヴァリスは動揺していた。

 冗談じゃない。司祭が死んだところで、別に悲しむこともない。たしかにここで育ちはした。けれど楽しくもない生活だったし、感謝したことなどなかったはずだ。

 なにを、恐れているというのか。そう思いはしても、答えることはできなかった。

 イーロイは、訝しげな目を、ヴァリスに向けた。


「受ける? どんな仕事だ?」

「ゼリを暗殺しろって、頼まれたのさ」


 ヘルカがあっさりと答えたことに驚き、ヴァリスは思わず首を振った。

 口の端をあげて笑ったヘルカは、あごをしゃくってみせた。その視線の先では、イーロイが、驚きもせずに、なにかに納得するような頷きを、繰り返していた。


「ヴァリス、司祭様に、あの『種』をお見せしろよ」

「あれを? なんで?」


 イーロイは分かりきっているとでも言いたげに、肩をすくめた。


「仕事を頼んだのが司祭様なら、何か知ってるってことだろ?」


 ヴァリスはその言葉に従い、胸元からあの奇妙な塊を取り出した。くるんでいた布が、赤黒く染まっている。布を開くと、塊は、一瞬、鼓動したかのようにみえた。

 ヴァリスは薄気味悪さに顔をしかめ、司祭に塊をみせた。


「これ、知ってる? 反逆者になった奴の躰から出てきたんだ」


 手の上で粘りつくような光を返す種を見た瞬間、司祭の目が見開かられた。乾いた唇が、無為に開閉を繰り返す。

 司祭の喉から絞り出された声は、震えていた。


「それは、リモーヴァの、反逆の種、だ」

「反逆の種?」

「本当に、あったのか……。いや、作ったのか。どちらにせよ……あぁ……!」


 司祭は力無く頭をベッドに押しつけ、瞼を閉じた。祈りの言葉を呟いている。

 枯れた声は呪詛のように重く、粘りつく不穏を含んでいた。

 イーロイは司祭の額に手を置き、小刻みに震える枯れ枝のような躰を、落ち着かせようとしていた。

 ヴァリスは司祭から唇を軽く噛み、顔を背けた。ネウが不安げな顔をしていた。


「……大丈夫だよ。イーロイがいるんだ、死にはしないよ。すぐにはね」


 ヴァリスは、付け足してしまった言葉に、すぐに後悔した。

 ネウの眉が悲しそうに寄り、瞳に怯えの色が乗った。

 司祭はイーロイの手を止めさせて躰を起こし、ヴァリスに虚ろな瞳を向けた。


「……ヴァリス、ネウ、こちらへ」


 呼ばれた二人は顔を見合わせ、ベッドの脇に立った。

 司祭は首に下げた黒い鍵を取り出し、細い紐を引きちぎり、ネウに手渡した。


「ネウ。地下室の鍵だ。ヴァリスを連れて行きなさい」


 ヴァリスは無視されたことに腹を立て、食って掛かった。


「ちょっと待ってよ。それだけ? 僕に他に何か言うことはないの?」

「……行けば分かる。赤子のお前がここに来たのも、お前が反逆の種を持ってきたのも、きっと、全て、神が御望みになったことだ……」


 司祭の声は、徐々に力を失っていく。話を終えた司祭はベッドに横たわり、上がり始めた息を整えるように、細い息を吐きだした。これ以上、なにかを問うのは無理だろう。

 ヴァリスは、いつもの冗談どころか、気の利いた文句の一つすら、思いつかなかった。司祭を心配そうに見つめるネウを促し、部屋を出た。

 階段を下り、ついて来たヘルカとともに、地下の扉の前に立つ。一度も開いたところを見たことがない扉だ。それどころか、近づくことすら許されなかった。

 それはネウにとっても同じだったようで、黒色の鉄鍵を差し込むときには、手が震えていた。鍵が差しこまれ、回る。

 ごとり、と重い鉄の錠が外れた音が聞こえた。

 手を伸ばし、押し開いていく。錆びついた蝶番が、金切り声をあげた。

 扉の先には闇の奥へと階段が続いていた。差し込む光だけでは、階段がどこまで続いているのかも分からない。

 踏み込めないでいるネウに代わり、ヴァリスが、階段を一段、下った。瞬間、壁に取り付けられた燭台に、音もなく火が灯った。

 ヴァリスは、不可思議な光景に息をのんだ。振り返ると、ネウだけでなく、ヘルカもまた顔をこわばらせていた。

 ヘルカが目を細め、舌先で唇を湿らせた。


「槍を持ってくるべきか、迷うところだ」

「教会だよ? それにアイツが出入りしてたんだ。大丈夫だよ」

「あ、あの……気を付けてくださいね?」


 ネウの問いに頷きで応えて、ヴァリスは念を押して短剣を引き抜いた。地の底に降りていくのに合わせ、赤々とした火が灯り、階段を照らしだしていく。朽ちかけている石階段は、靴底を受け止め、乾いた音を反響させた。


 ――これじゃ、反逆者の方がまだマシだ。


 近づいてはいけない、と一〇年以上に渡って言われ続けた場所だ。ヴァリスの躰は目の前で起こる光景に、恐怖を抱いていた。

 折り返し、更に下る。深い階段の先には、また扉があった。グルーズの紋章が入れられている。押し開けると、闇に埋もれた部屋が、火に照らされ明るくなった。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、膨大な量の書物だった。

 ヴァリスは山のような書物の背を眺めた。題名が読み取れないものも多いが、それらは、神話や歴史、異国の詩歌などを取りまとめたもののようだ。

 壁にかけられた干からびかけた絵には、見たこともない字と共に、神と思しき人の姿や、醜悪な獣の絵が描かれている。壁一面に貼りつけられた絵には、司祭の手による注釈が、隙間なく、びっしりと書き込まれていた。


「……なに? この部屋は」


 口には出したものの、答えを期待しているわけではない。ただ、その異様な光景に圧倒されて、思わずそう言っていた。

 後に続いて入ってきたヘルカが辺りを見回し、眉を上げた。


「これは凄いな。司祭さまは、単なるグルーズの信徒ってわけじゃないらしい」

「分かるの?」


 ヘルカは首を横に振って、一枚の絵を指さした。


「いや、ほとんど。ただ、あの絵は分かる。あれは、グルーズが血の制約を人に与えたところを描いたものだよ」


 絵に描かれているのは、人同士の戦いのようだった。血を浴びた兵士たちが狂気に染まった表情をし、苦悶の内に死んだ者の躰を、踏みつけている。兵士たちの頭上には雲が描かれ、その上に女神の姿がある。女神は、地上の凄惨な光景を見下ろし、右の目で悲嘆の涙を流し、左の目では、奇妙なことに嗤っているかのようだった。

 ネウはつま先立ちをして、ヴァリスの背中越しに顔を出した。


「ええと、そうですね。ヘルカさんの言う通りです。……右の目はグルーズ様を、左の目はリーモヴァ様を現している、と教わりました」


 ヴァリスは道を開けて、ネウを庇うようにして部屋に入った。


「教わったって、あいつに?」

「ち、違います」


 ネウはふるふると首を横に振った。


「私が教えを受けていたのは、王都の教会なんです」


 そう言って、ネウは絵の説明を続けた。

 人同時の争いに涙を流したグルーズは、二度と地上で戦争が起きないようにと、制約を課した。その制約こそが、返り血を浴びた者を反逆者に変えることだという。


「人を傷つけ、殺める者は、人にあらず、それを止めぬ者も、また人にあらず。人同士の争いを諫め、また傍観者は反逆者によって、自らも命を落とす。それが、グルーズ様が博愛を作り出すために、人に課した制約なんです」


 滔々と教会の教えを語るネウの姿は、まさしくグルーズの信徒そのものだった。ヴァリスの知る司祭の姿よりも、ずっと、らしく見えた。

 ネウは部屋の中をぐるりと見てまわり、書類机の前で、小首を傾げた。


「でも、これ……リモーヴァ様でしょうか? それに、反逆の種……?」


 司祭も口にしていた単語に、ヴァリスとヘルカは慌てて机の上を覗きこんだ。

 机の上に置いてあった古びた羊皮紙には、ヴァリスのもつ奇怪な肉の種とよく似た線画が描かれていた。司祭の手による注釈には『自由の喪失。奔放の神。リモーヴァによる付与』とある。また『伝承のみ? 実物は?』とも。

 どうやら、机の上に数多積み重ねっている資料は、どれも反逆の種にまつわるものらしい。

 ヘルカは資料の山の中にあった一通の書簡を開き、眉を寄せた。


「どうしたの? ヘルカ」

「……ゼリがリモーヴァの教団に金を出して、種を作ろうとしている、らしい」

「作る? 神様が与えた、とかって書いてあるけど?」

「私に聞かれてもね。書いてあるのは、それだけなんだよ。と――これは、王都の大教会からの手紙だ。となると、情報を掴んだのは大教会の方かもね?」


 ヘルカの問いに、ネウは手紙を受け取り確認し、首肯した。


「そのようです。探せば、他にも資料があるのかも。それに、実際にヴァリスさ……は、反逆者の躰から、反逆者の種を見つけました」

「まだ決まったわけじゃあないけどね。信ぴょう性だけは出てきた」


 ヘルカが口の端をあげるのを見て、ヴァリスはため息をついた。

 ゼリの思惑も、手に入れた種が本物なのかも、分からない。しかし、ヘルカの言うように、いまみた資料だけでも、ゼリがなにかを企てようとしていることは分かる。そして情報の確度を上げるには、部屋の資料を読み解くしかない。


「イーロイとイグニスも呼んでくるよ。調べて、それから、どうするか決めよう」


 そう言って、ヴァリスは、イーロイとイグニスを呼びに行った。先ほどの司祭の言葉が思い起こされ、胸騒ぎがしていた。

 リモーヴァの子とは、どういう意味なのだろうか。

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