丘の教会

 躰が揺れた。揺さぶられている。

 左肩に固い金属の感触があった。ほぼ同時に激痛が走った。眠気など一瞬で消え、怒りすら湧くほどの痛みだった。

 瞬間的に、ヴァリスは飛び起き、怒鳴りつけていた。


「痛いよ!」

「うぉ!」


 まだ癒えていない矢傷の残る左肩に手をかけたのは、イグニスだった。まだ空は薄暗く、雨の匂いがした。

 イグニスは頭をぼりぼりと搔いた。


「ああ……そういや、傷があったんだな。毛布被ってるから、分からなかったぜ」

「僕の事を言えないね。あんたも、人のことなんかお構いなしじゃないか」

「な、てめぇ!」

「なんだってんだい。うるさいねぇ。どうしてそう、あんたらは仲が悪いのさ。なにかにつけて騒いがないでほしいよ。目が覚めちまったじゃないのさ」


 起き出したヘルカの抗議の声は、二人に向けられたものだった。

 僕のせいじゃない、とヴァリスは思った。

 丸眼鏡をかけなおしながら、イーロイがのそのそと躰を起こした。イグニスの怒鳴り声で、目が覚めてしまったのだろう。


「まぁいいじゃないか。仲が悪くても殴り合わなきゃ、別に困りゃしない。どれ、ヴァリス、肩の傷を見せてみろ」

「でも――」

「でもはなしだ。俺は医者だし、何も遠慮することはない。それにちゃんと」


 イーロイは鞄から、革手袋を取り出した。


「用意もしてきてるんだ。迷惑だけかけるのは、ごめんだからな」

「……分かったよ。お願い」


 そう言ったヴァリスは、不承不承、左肩をイーロイに向けて座りなおした。

 草原を見ますと、一面の黒から青へと、色が薄らいでいた。しかし空には、厚い雨雲が張っている。おそらく、これ以上明るくはならないだろう。

 イーロイが、ヴァリスの左肩に巻かれた包帯を、丁寧に巻き取っていく。

 鋭い痛みがあった。

 目をやると、イーロイは、薬草と油を混ぜ合わせたものを、左肩の傷に塗りつけていた。きつく結んでおいた甲斐もあり、血は完全にとまっていた。ぽっかりと開き赤黒い穴に、茶色の柔らかい油の塊が入り込んだ。

 躰が震えるほどの痛みが、イーロイの手に合わせ、肩から流れ込んできた。ずくずくと響く痛みが、鈍麻していく。

 イーロイは傷に真新しく清潔な布を、包帯として巻き付け、強く絞った。


「うぁっ……ったいな、これ」


 刺すような痛みに、ヴァリスは思わず声をあげてしまった。恥ずかしさを誤魔化すように、最後の言葉を付け足した。

 左手を握る。まだ少し痺れている。しかし、力は戻ってきている。


「ありがとう。イーロイ」

「医者だからな。本当なら、全部の医者が俺みたいな仕事をするべきなんだ。患者が自分で手当てするなんて、どう考えたっておかしいだろう」

「おかしいのは、イーロイの方だと思う」


 ヴァリスの声に反応するように、ヘルカが声をあげて笑いだした。


「たしかに、おかしいのはイーロイだ。さぁ、さっさと立ちあがって、歩こうか」


 ヘルカは傍らで寝こけているネウの肩を揺すった。


「ネウ? 起きなね。出発だ」

「んぅ……」


 ネウは昨晩はヘルカと同じ毛布で、寝たらしい。相変わらず、丸まって寝ていた。毛布を剥ぎ取られたことで、肌寒さを感じたのだろう。微かに身を震わせた。


「もうすこしだけまってください……」


 呂律の回っていない、寝ぼけた声だった。

 日は昇り夜は開けている。しかし、空は暗いままだった。



 暗い空の下、冷たい雨の中で、一行は歩みを続けていた。

 道はぬかるみ、革鎧と外套だけのヴァリスでも、柔らかい土に足を取られる。それに合わせて、一行の歩みもまた、遅くなっていた。

 ヴァリスは振りかかる雨に目を瞬いた。

 ヘルカとイグニスは、平然と歩き続けている。長柄の武器を、杖の代わりにしているのだ。足甲に覆われたつま先が、しっかりと大地を捕まえていた。

 水を吸ってしまう外套と革鎧の方が、雨の中を歩くのは大変なのかもしれない。そう思うと、なぜか無性に可笑しかった。

 ヴァリスは口元を緩め、首を小さく横に振った。


「手ぇ貸してやろうか? ヴァリス」


 振り返ったイグニスは、手を差し出していた。からかう意図がないことは、雨に耐えるように細められた目で分かる。口に出していないだけで、今朝、誤って傷に触れたことを、気にしているのかもしれない。どこか可笑しい。


「大丈夫だよ。ありがとう」


 ヴァリスは自分の口から出た言葉に驚き、口を手で覆った。なぜ、いま礼を言ったのだろうか。普段ならヘルカのように、冗談で返していただろうに。

 緩やかに上り続ける道を、雨水が泥と混ざり、流れていく。

 動揺したヴァリスは、足を滑らせた。

 と、同時に、イグニスの手がヴァリスの手を掴み、引っ張り上げた。


「ほら、あぶねぇだろう。馬の手綱は俺がもつ。お前は先を歩け」


 返す言葉が思いつかなかった。

 ヴァリスは、黙ってイグニスに手綱を渡した。


「ヴァリス。こいつを靴に巻け」


 イーロイが、丸めた紐を二本、振り返ったヴァリスに投げ渡した。指の幅と同じ太さで、平べったい、革の組紐だった。伸ばせば、前腕一本程の長さがある。

 イーロイは手をかざして雨を避けつつ、空いた手で靴を指さした。


「そいつ靴底を通して巻き付けな。多少は、マシになるかもしれないぜ」


 うなづいたヴァリスは、靴底に紐を巻き、足の甲側で結んだ。

 組み紐を撒いた足を、一歩踏み出す。紐が緩んだ泥に、食い込んだ。たしかに先ほどに比べれば、歩きやすい。教えられてみれば、なんてことのないことではある。

 もっと早くに教えてくれれば、と思うと、やるせなかった。

 ヴァリスは、流れる雨水で川のようになっていた丘を、乗り越えた。

 雨粒で霞む空気の奥に、古ぼけた小さな教会が見えた。

 ヴァリスが育った場所であり、ネウが戻る場所だ。

 足に水を吸った泥が絡みついて、まるで鋼の足甲を付けているかのようだった。

 ようやくたどり着いた丘の教会は、二年前より、随分と朽ちたようにも見えた。

 ほんの数年の間に、あちこちささくれ立った木の壁は随分と痛んでいる。修繕をする人手が足りないのだろう。

 思い返してみれば、あの頃も手伝う大人はいなかったのだ。そのくせ金だけは、サルヴェンの街に人を寄越してまで、せびりに来た。渡した金は、教会の壁を直すくらいなら、あったはずだ。

 ヴァリスはなぜだか無性に腹立たしくなり、不格好な小石を蹴っていた。

 跳ねとんだ石は、立ち草の陰へに消えた。降ろした足が、ばしゃりと、水を跳ねた。

 ヘルカが振り返り、濡れた髪を掻き上げて薄く笑った。


「そうイラついたって仕方ないだろ? 孤児たちの食事代だってかかるんだろうさ」

 ――孤児? ありえない。


 心中で呟いたヴァリスは、首を振って、ネウに聞いた。


「いるの?」

「えっ? な、なにがですか?」

「孤児さ。まだここの孤児院は、ちゃんと子供を引き取ってるの?」


 ネウは唇を噛み、俯いた。


「あの、今は、その……人手もお金もなくて、全くいない、です……」


 消え入るような声に、ヴァリスは肩を竦めた。


「ほらね。ヘルカ、こんなもんさ。司祭さまは衣装代がかかるらしいや」

「そいつぁ違うぞ、ヴァリス」


 イグニスがしたり顔で言った。


「神にその身を捧げるために、肥え太る必要があるんだよ」

「笑えないし、司祭さまは、太っちゃいなかったよ」


 イグニスは両手を広げ、おどけるように首を傾けた。挑発しているつもり、なのだろう。ヴァリスはネウが返答することを期待した。しかし、馬上の当人は、目を伏せたままだった。言い返す言葉もないらしい。

 馬から降りたイーロイが、ヴァリスの横を通って前に出た。


「育ててもらった分を払っただけだろう? もしかしたら、赤字だったのかもしれないぜ。とにかく、中にいれてもらおう。いいんだろ?」

「あ、はい! すいません、いま行きます!」


 ネウは慌てた様子で馬から降りようとし、


「って、あ、ああっ――」


 馬具につま先を引っ掛け、べちゃり、と、ぬかるむ地面に落ちた。


「大丈夫!?」


 駆け寄ったヴァリスは、ネウを助け起こした。顔にも、服の前面も、泥で真っ黒に汚れていた。目には涙まで滲んでいる。


 ――びくびくしすぎだよ。


 ヴァリスは血拭い布を取り出し、ネウの顔を拭った。


「あ、ありがとうございます」


 ネウは顔を赤らめ、小さな声で礼を言った。ヴァリスの手を借り立ち上がる。おぼつかない足取りで歩き、表面が朽ちて毛羽だった教会の門を、押し開いた。

 ヴァリスは後に続いて、礼拝堂に足を踏み入れた。

 礼拝堂は、かび臭く、埃っぽい空気で、満たされていた。澱んだ空気は、吸っているだけで口の中に唾が溜まり、吐き捨てたくなる。懐かしい臭いだ。

 見上げた高い天井にはひびが目立ち、タイル張りの床は、ところどころ砕け、めくれあがっている。痛みの激しい長椅子の間をボロの赤絨毯が伸び、その先に女神像が置かれている。懐かしくも忌々しい、左手を頭の後ろに挙げた女神像だ。

 博愛と制約の神、グルーズの像である。表面には、青錆が浮かんでいた。

 ヴァリスは靴底に巻いた革ひもをほどき、泥土を落とした。

 思わず笑ってしまった。

 忌々しく思っているというのに、癖で土を落としたからだ。礼拝度の中を歩くときには、土を落としておくこと。そう言いつけられ、二年前まで従っていた。帰りたくも無かったはずだというのに、帰れば言いつけを通りにしてしまう。それがあまりにおかしくて、ヴァリスは笑わずにはいられなかった。

 水音が礼拝堂に木霊した。

 ネウが、ローブの裾を持ち上げ、雨水を絞り落としていた。


「どうぞみなさん、こちらへ」

「コケんなよ? お嬢ちゃん」


 イグニスの声色は、随分と明るくなっている。無事に目的地に辿りつけたことで、浮かれているらしい。そしてそれは、ヴァリスも同じだった。

 教会で暮らしていた頃には無かった音が、ついてきている。

 ガチャリガチャリと金属が擦れ、卵の殻を踏んだような音がする。脆くなったタイルが鉄の脚甲に踏まれ、砕けているのだろう。リズムが異なる、湿ったタイルの割れ音は、イーロイだろう。水を吸った革靴は、響きを滲ませる。

 前を歩くネウが、足を止めた。どうやら祭壇の横にある階段部屋には、鍵がかけられているらしい。以前は鍵などつけられていなかった。

 ヴァリスが払った養育費は、こんな鍵をつけるために、使われてしまったらしい。

 鞄を漁りだしたネウが手を止め、恐々と振り返った。


「……ちょ、ちょっと待ってて下さいね?」


 ネウを除く全員が、深くため息をついた。どうせネウのことだから、まだ時間がかかるのだろう。落ちつくように、と言い含めつつ、ヘルカとイーロイが手を貸した。

 ヴァリスは見ているだけで無性に恥ずかしくなり、首を振った。

 グルーズ神像の横顔は、随分と様変わりしていた。

 ここに居た頃に見た女神像は、美しい赤茶色の肌をしていたはずだ。いまは点々と青錆がみえる。ヴァリスがいなくなって以来、像を手入れする者もいないのだろう。

 青錆は目尻から、ふくらみのある頬の輪郭をなぞり、顎まで一つの筋を形作る。まるで泣いているようだ。子供の頃に足元から見上げたグルーズは、薄汚れ空腹に喘ぐヴァリスを、あざ笑っていた。それが今は朽ちていく躰に泣いている。


「薄汚くなったもんだね」


 誰に向けたわけでもない。自然と口から漏れた出した言葉だ。ただヴァリスの声は、思いのほか大きかったらしい。

 弱々しく、


 「ごめんなさい」


 と、ネウの謝罪が聞こえた。


 驚き、振り向くと、涙目になりながら鍵を探すネウの姿と、呆れた、と如実に物語るヘルカの視線が、待っていた。いたたまれない。


「そういうつもりじゃ――」

「こいつじゃないか?」


 イーロイが鍵を見つけてくれたことに、ヴァリスは感謝した。どんな形であれ、自分から注意が逸れてくれなければ、またイグニスにからわれてしまうところだ。


「ごめんなさい。お待たせして――」

「ネウのせいじゃないよ。盗まれるものなんてないのに、鍵をつけるのが悪いんだ」


 それになにより、自然に謝ることができる。

 しかし、ネウはきょとんとしているばかりだった。彼女は、司祭のことを、嫌っていないのかもしれない。もっとも司祭の弟子であれば、当然なのかもしれないが。 

 ヘルカが、ネウの頭を撫でた。


「さ、鍵は見つかったんだ、早く開けておくれよ」

「あ、はい! す、すいません!」


 慌てて扉に張り付いたネウが、細い鉄製の鍵を鍵穴に押し込み、回した。

 ヘルカの視線はヴァリスの方へと流れ、顎を小さくしゃくった。イーロイとイグニスが、笑いをかみ殺していた。

 ネウの手によって軋みながら、古ぼけた扉が引き開けられる。地下に続く階段には目もくれず、上へと足を運ぶ。それはすぐ後ろに続くヴァリスも同じだった。

 ヘルカの鎧の重みに、階段が心許ない悲鳴をあげた。間髪入れずにイグニスが声をかけた。


「俺はここで待ってる。階段がぶっ潰れたら、教えてくれ」

「あんたの重みじゃ、床の方も抜けるかもよ?」


 ヴァリスは意趣返しにそう言い、返事を待たずに階段を上った。

 普通の建物なら三階分の階段を上って、ネウが司祭の居室の扉をノックする。返事はない。いつもそうしているのか、ネウは何も言わずに扉を開けた。

 ヴァリスは部屋に足を踏み入れようとして、止まった。足が動かない。水や疲労のせいではない。膝が勝手に震え、歩けないのだ。

 ヘルカは、顔を強張らせているヴァリスの、背中を押した。拒否する間もなく、彼の足は部屋の床を叩いた。

 同時にヴァリスは、胸を手で押さえた。


 ――怖い。


 教会までネウを連れてきた時点で、仕事は終わっている。司祭に会う必要まではなかったはずだ。

 ヴァリスは気を落ち着けようと、深く息を吸った。病の臭気が鼻をつき、弾かれたように顔をあげた。

 独立した教会とはいえ、司祭の居室のはずだ。

 このみすぼらしい部屋は、どういうことなのか。

 敷物は黒い染みや汚れが目立ち、そこら中が解れている。箪笥は形を保っているのが不思議なほど古ぼけていて、テーブルも椅子も、全てが歪んでいる。調度品の類は乏しく、物自体も素朴で無骨そのものだ。ヴァリスが住んでいた部屋でも、ここよりは物があったかもしれない。

 払った金は、どこに消えてしまったのか。

 ヴァリスは自分が苛立ったことに困惑し、顔をしかめた。

 ヘルカはヴァリスの背中を押し、ベッドまで歩かされていく。

 酷いベッドだ。薄汚れたシーツに、その上に乗っている簡素な毛布は当て布だらけである。とても病人を寝かせておくベッドとは、ましてや教会の長が寝る場所とは思えない。しかし、膨らんだ毛布の下には、司祭が寝ているのだろう。

 ベッドの横まで押されてきたところで、ヴァリスはようやく抗議の声を上げられた。


「ヘルカ、分かったから押すのは止めてよ」

「ほんとかい? なら、ちゃんと挨拶をしなよ」


 ベッドの中には、やつれて目の下にどす黒い隈を作った、老人がいた。


「おぉ……。戻ってきたのか、血吸鳥ヴァリス……。リモーヴァの子よ……。」


 司祭だ。リモーヴァの使いとされる血吸鳥の正式な名「ヴァリス」を、孤児に与えた、グルーズの司祭である。

 別人のような姿だが、ヴァリスの名付け親に、間違いなかった。

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