丘の教会(約4万字)

歩いてきた帰り道

 歩きはじめてからしばらくして、馬が首を振って足を止めた。

 馬の背にちょこんと乗せられたネウが、身をよじったのだ。大きな荷物に挟まれ座り心地が悪いらしい。その度に馬が歩みを止めるのだ。これで五度目である。

 馬の手綱を握って歩くヴァリスは、都度、引き直すことになる。

 ため息をついて馬上の人を見上げた。


「ネウ、あんまり動かないでよ。馬が怖がって歩くのをやめちゃうんだよ」

「すっすいません!」


 何かにつけてビクビクと怯えるネウに、ヴァリスは、内心、気を使っていた。窘める度に、胸の奥に、小さな棘が刺さるような痛みを感じる。左肩の矢傷の方が、気を張れば耐えられる分、まだマシだ。

 槍を杖代わりに歩いていたヘルカが、振り帰った。盾は馬の荷物になっている。

 ヘルカは目を細め、左手で眉を触るような仕草をした。

 そんなに怖い顔をしていだろうか、とヴァリスは思った。首を後ろに振った。少し震えた気配があり、馬の歩調が弱まった。

 ヴァリスは手綱を引き、優しく聞こえるように、静かに声を出した。


「別に怒ってるわけじゃないんだ。なにがそんなに怖いの?」

「……すいません」


 馬の蹄の音にすら負けてしまいそうな細い声が返ってきた。

 答えにはなっていない。


「君は丘の教会からサルヴェンまで、歩いて来たんだろう?」

「……はい」

「だったら、大丈夫だったんじゃないか。今はこんなに人がいるんだし、怯える必要なんかないんだよ。僕らがいれば、反逆者が出たって大丈夫さ」

「……はい」


 ネウの声は、暗いままだった。

 ヴァリスは空を見上げた。浮かんだ雲が、ゆっくりと流れていた。


「お前の言い方が悪いんじゃないか?」


 イーロイのからかうような声がした。

 ヴァリスは肩越しに、もう一頭の馬の背に乗る、イーロイを見た。微笑している。少し腹立たしかった。しかし、彼の言う通り、急ぎ過ぎているのかもしれない。

 昔の自分は、どうだっただろうか。と、ヴァリスは思った。

 目を閉じ、風の匂いを嗅いだ。獣の気配はない。


「いい? ネウ。ここは怯えるような道じゃない。狼だって、この辺りを歩いちゃいないし、野犬だってこれだけ人がいたら、近寄って来ないはずだ」

「いやぁ、反逆者が相手だったら、三人じゃあ無理だぜ?」


 イグニスが嫌味ったらしく言った。冷笑を浮かべ、肩越しにネウの様子を窺った。

 ネウがうつむき、手綱がまたしても揺れた。

 こんな調子が続くなら、二日はかかってしまう。急ぎすぎるのも禁物だが、遅くなればなるほど、取れる手は少なくなる。

 ヴァリスは、イグニスを睨みつけた。


「あんたに言えって言ったわけじゃないよ。ネウもいちいちビクビクしすぎだよ。君が来た道を帰るだけなんだ。なにをそんなに怯えることがあるっていうのさ」


 イーロイが感心したように、首を縦に振った。


「言うようになったじゃないか。お前だって街に来てすぐのときは、ヘルカにピッタリ張りつく怯えた子供だったじゃないか。なぁヘルカ?」

「さぁて……どうだったかねぇ。でもまぁ、私の知ってる限り、ヴァリスはいつだって怯えてるさ」

「ヘルカ!」


 屈託なく笑うヘルカは、ヴァリスの引く馬の背の上に、自信に満ちた目を向けた。


「ネウ。あんたが怯えることはないんだよ。そういうのは、ヴァリスが代わりにやってくれる。この道は、ヴァリスにとっての恐怖の道だからね。そして、ヴァリスは怖がってる時の方が強いくらいだ。猫みたいにね。つまり、絶対安全だ」


 ヘルカはそう言って、ヴァリスに片眼を瞑ってみせた。


「どういう冗談なのか、良く分からないよ」


 荒れた道を進みながら、ヴァリスは教会から逃げ出してきた夜を思い返した。

 特にきっかけがあって逃げ出したわけではない。ただ、ある日突然、教会に居続けたくない、と思っただけだ。その日から、動物の解体をする度に、少しずつ革を隠してため込んで、継ぎはぎの鞄を作った。肉の切れ端を乾かし、食料を貯めた。

 雨の日に教会を出た。

 雨天を選んだのは、獣がうろつかないと思っていたからだった。現実はそう甘いものでもなかったし、雨の中で走る道は、酷く走り難かった。

 教会から誰かが追ってくると、思い込んでもいた。

 ヴァリスが教会から盗み出した物、特に、手帳と火打ち箱が怖かった。銀食器の類はどうせ安物だ。盗み出したことを気付かれるのにも時間がかかる。しかし、手帳と火打ち箱だけは別だと、思っていた。

 実際には、教会がしたことは、食器代とこれまでの養育費を払え、と言ってきただけだった。自警団に入りしばらくしてからのことだ。そのとき、なぜか少し悲しくなったのを覚えている。


「……リス……ヴァリス! 聞こえてないのかい?」

「えっ?」


 随分とぼうっとして歩いていたらしい。ヘルカが顔を覗き込んでいることに、今、気付いた。


「ごめん。聞いてなかった。なに?」

「なに? じゃないよ。大丈夫かい? 辺りを見てみな。もう、日が暮れはじめてる。そろそろ野営をするのか、夜も歩き続けるのか決めないとね」

「ヘルカが決めてよ。僕は――」

「ヴァリスが決めるんだよ。丘の教会までの道のり、良く知ってるんだろう?」


 ヘルカは悪戯っぽい目をして、薄く笑った。

 教会までの道は一本しかないのだから、難癖をつけられているだけだ。けれど、一度こういうことを言い始めたときのヘルカは、決して引かない。


「分かったよ……」


 仕方なく返事を返して、ヴァリスは道の先の空を見つめた。

 夕日によって草原は赤く染まり、草葉の先は黄金色に輝いていた。遥か彼方に見える丘の教会は、こぼれ落ちたインクの点ほどの大きさでしかない。夜通し歩いたとしても、まだたどり着きはしないだろう。

 影となった遠方の丘陵は黒く、淡い紫色をした空に、薄青の雲が浮かんでいた。遠くに浮かぶ厚い雲は、おそらく雨雲だろう。ここで足を止めておかねば、闇夜の行軍に雨が加わる、ということだ。そうなれば、ヴァリスたちはともかく、ネウが落ち着いていられるかどうか。


「多分、明日には雨が降るよ。ここで一旦止まった方が良いと思う」

「思うってなぁ、なんだよ、隊長さん」


 ヴァリスは、言葉尻をとって嗤うイグニスを、睨みつけた。ただ言い返しただけでは、湧き出てきた感情を殺せそうになかった。


「察しの悪い部下を持つと大変だ、そう団長はよく言ってるよ」

「てめぇ……」


 夕日とは異なる赤で顔を染めたイグニスに、イーロイが笑いかけた。


「勘弁してやれよ、イグニス。お前が先にからかったんだ。お互い様ってやつだろ」

「賛成だ。良い返しだよ、ヴァリス。さすが私の相棒だ。なぁ、ネウ?」


 突然水を向けられたネウは、手を軽く握り、ヴァリスとイグニスを見比べていた。


「私は……ヴァリスさんはもっと、優しくなるべきだと思います」

「ネウ? 僕がいつだって――」

「ご、ごめんなさい! でも、ヴァリスさんが怯えるなって!」


 色を失い始めた草原に、ヘルカの朗らかな笑い声が響いた。

 ちぎれた雲が、頭の上まで流れてきている。

 日が落ち、道が闇に呑まれていく。

 草原の夜は、昼の柔らかな装いとは、まったく様相を変える。

 ひどく寒々しく、見通せぬ闇の色は、反逆者の穴のような目を思い起こさせる。

 人がいない草原に、反逆者がいるわけがない。しかし草原の静寂は、吹くそよ風はそれの吐息に思え、葉擦れの音をそれの足音に変える。爆ぜる焚き木は、どこまでも張りつめた心に障ってくる。人の想像力が、異形の者の気配を作りだすのだ。

 あの夜もそうだった。

 ネウは早々に自らの想像力に負けたらしく、膝を抱えていた。理由こそ違うが、眠れないのは、ヴァリスも同じだった。

 丘の教会で自分を何が待っているのか。

 司祭からの罵倒や軽蔑か。あるいはネウに訪ねさせたという事は、許され、笑いかけてくるのか。想像はつきない。しかし、どれだけ考えても不安が募るだけで、答えが出るわけでもなかった。

 ネウが焚き火に、木っ端を投げ入れた。焚火が乾いた音を立て、羽虫が舞うように火の粉が飛び、消えた。

 膝を抱えたまま、ネウが呟いた。


「ヴァリスさんは、一人でこの道を歩いて来たんですね」

「……ネウは一人で来たんじゃないの?」

「私は、手紙を届けてくれた方達に、同行させてもらったんです。みなさん教会に泊まっていかれたので、お願いをして」

「それでも丸一日は歩いたんだろうから、同じだよ」

「同じじゃないですよ!」


 突然の大声に、ヴァリスは思わず躰を起こした。ネウの目は大きく開かれ、焚き火の光を返し、赤く光っていた。


「ネウ、声が大きいよ」

「私は、一人で来ることもできなかったんです。それなのに、私、なんてことを頼もうと――」

「ネウ」


 ヴァリスはネウの言葉を遮り、眠っているイーロイとイグニスに目線を滑らせた。

 幸い二人は、寝息を立て続けていた。二人には依頼の事を言っていない。医者はともかく自警団の人間であれば、暗殺の依頼なぞ放っておくはずがない。


「ネウ。僕のことは『ヴァリス』とだけ呼べばいいよ。他には何もいらない」

「ヴァリスさ……ヴァリス。その、ごめんなさい」

「謝ることじゃないって。何度でも言うよ。僕は別に怒ってるわけじゃないんだよ。ただ、いつだって、こう……こうなんだよ」


 なんと言えばいいのか、ヴァリスには分からなかった。ネウの怯える様が、過去の自分と重なるからと言って、どうなる。ましてや、そのせいでどうにも言葉が強くなるなど、言えるわけもなかった。


「そうだね。いつだってヴァリスはそんなさ」


 寝ていたはずのヘルカが、躰を起こしていた。


「まぁ、少しは女の子に優しくできるように、なってきたみたいだけどね」

「ヘルカ。まだ寝てていいよ。もう少し僕は起きているから」

「起きている、じゃなくて、寝れないんだろう? それなら、無理にでも寝ないといけないね。じゃないと――」

「覚えてるよ。自分で決めたわけじゃないから、眠気に負けるんでしょ? もう分かってるよ。僕だって、もう子供じゃないんだ」

「分かってるなら、話は早い。さ、横になりな」

「ヘルカ……もういい。分かった。僕は寝るよ」


 ふてくされたヴァリスは、横になり、毛布を頭から被った。薄く、解れの目立つ毛布だった。ヘルカが起きていると分かっていれば、きっと眠れるはずだ。

 目を瞑り、肌寒い夜を過ごす。

 微かにヘルカとネウの、話し声が聞こえる。耳を澄ませた。


「そう。ヴァリスは、あんな感じで、丸まって寝るんだ。よく似てるよ、ネウとね」

「に、似てますか……? 私、あんなに怖いですか?」

「まさか。ネウもヴァリスも、可愛いもんさ。それに……」


 それ以上、聞いてなどいられなかった。睡魔が押し寄せてきたのだ。

 聞きたくなかったから、なのかもしれない。

 いずれにしても、薄い毛布越しに聞こえる音は、徐々に遠くなっていった。

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