出立
屯所の大部屋に残る者たちは常よりも数少く、また疲労の色は皆、一段と色濃くなっていた。おそらくは小瓶を探すために、イグニスが追い立てたのだろう。
大部屋に残っていた男の一人が、ヘルカに、力ない声で言った。
「よう。面倒なことになってるらしいじゃねぇか。お前らは行かなくていいのか?」
「その面倒なことの原因を探りに戻って来たのさ。あんたらも気を抜いてる場合じゃないよ。もしかしたら、これからどんどん反逆者が出るかもしれないんだからさ」
「お得意の冗談であってほしいもんだ。俺らはもう昨日の今日で限界だよ。お前らもイグニスも、なんでそんな元気なんだ?」
ヴァリスは左肩に目を向け、肩をすくませた。引き攣り、痛みが走った。しかし、決して顔には出さなかった。
「見ればわかるでしょ? 僕だって元気なわけじゃないよ。みんなと違って、いちいち同情してほしいとは思わないだけだ」
「……やっぱお前、ムカつくガキだな。俺らだって好きで――」
「やめときなね。先に言われたんだよ? それ以上続けたってみじめになるだけさ」
たしなめるようにヘルカはそう言って足早に階段へと向かった。男たちは気まずそうに舌打ちをして、口をつぐんでしまった。
後に続いて階段を降りると、ヘルカは自分の部屋に入るというのに、わざわざノックをしていた。
ヴァリスもヘルカに倣い、待つ。返答はない。ネウは部屋にいないのか。
ヘルカがもう一度ノックをし、腰に手を当て、俯いた。
煩わしさを感じたヴァリスは、
「入るよ、ネウ」
と一応断りを入れて、ヘルカを押しのけ扉を開けた。
ネウは部屋の中にいた。ただ、ベッドの上で横になり小さな寝息を立てていたが。
波打つ毛布の上で、膝を小さな手で抱え丸まっている。まるで猫のような寝姿だ。
ヘルカはヴァリスに叩くような仕草をした。
「ヴァリス。家主より先に入ってしまうのは感心しないよ。ましてや女の……おや」
眠るネウに気付いたのか、ヘルカの冗談は途中で止まった。少し、ほんの少しだけ腹が立った。ついさっきまで反逆者と戦っていたからか、冗談が最後まで聞けなかったからなのか、判別はつかない。
しかしヴァリスは、湧いてきた感情を殺す気もなかった。
「この子。ちょっと図々しくない?」
「そんなこと言ったら、かわいそうだろう? 遠くから来て、きっと疲れてたのさ」
ヘルカは、微かに、しかし規則正しく上下するネウの肩を、優しくゆすった。
ネウはゆっくりと目を開いたは躰を起こし、霞の向こうを見通すような眼をして、しばらく呆けていた。
しぱしぱと長い睫毛を瞬かせ、急に目を見開いた。すごい勢いで後ずさる。
「痛っ!」
壁に後ろ頭をぶつけた。何をやっているのだろうか。
ヴァリスは首を回して骨を鳴らした。苛立たしさは収まりはしなかった。
傍らではヘルカが笑い声を押し殺している。手で頭を押さえてベッドにうずくまるネウの姿がよほど面白いらしく、躰を震わせている。
仕方なく、ヴァリスはヘルカに代わり、ネウに声をかけた。
「ネウ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど。いいかな?」
「……ちょっとだけ待って下さい……」
ヴァリスはネウの言葉を無視して、部屋の隅に置いてある丸椅子をベッドの前まで運んで座った。そして懐から布で包んだ球体を取り出し、ネウに差しだした。
「これなんだけど」
「ちょっと待って下さいと……」
不満げな声を出して顔をあげたネウは、ヴァリスの手の上を見て、動きを止めた。
「なんですか、その、気持ち悪い……なに?」
ようやく笑いをかみ殺したヘルカが、ヴァリスの言葉を継いだ。
「ちょいと変わった反逆者が出てね。そいつのはらわたの中にあったらしい」
「は、はら――!?」
叫んだネウは跳ねるように後ろに下がり、再び後頭を壁にぶつけ、うずくまった。どうやら、彼女は何も知らないようだ。
部屋にはヘルカの笑い声だけが響いた。
ヴァリスは再び球体を布で包み、懐にしまいこんだ。
「もしかしたらゼリの話と関係あるかもと思ったんだけど、違うみたいだね」
「す、すいません。お力になれなくて……」
ネウは両手で後ろ頭を押さえたまま、涙目でヴァリスを見上げた。
「それで、あの、依頼は――」
「悪いんだけど、いまはその話より、こっちの方が大変なんだ。とりあえず丘の教会までは送ってあげようと思うけど、ちょっと待ってもらえる?」
「そう、ですか……」
ネウは俯いてしまった。
同情でもしたのか、ヘルカがネウの肩に手を置いた。
彼女の目は複雑な色をたたえてヴァリスに向けられていた。どうやら彼の返答が予想の外にあったらしい。ヘルカ自身が提案しっというのに、受け入れられるとは思っていなかった、とでも言うかのようだ。
ヴァリスは膝の上で手を組み、ネウに、諭すように言った。
「……依頼を受けるかどうかはともかく、小瓶のことが何か分かったら、キミの事を丘の教会まで連れていくよ。このまま街に居続けるよりは、その方がずっといい」
ネウは手で顔を覆ったまま、小さくうなづいた。
ヴァリスは胸に微かな痛みを感じた。やはり、どうしても街に来た頃の自を重ねて見てしまう。
鈍い打音が、部屋に響いた。扉の向こうから、男の低い声が聞こえた。
「小瓶とやらが見つかったぞ。団長もこっちにくるらしい」
「分かった。いま行くよ」
ヘルカは窓付きの兜を脱ぎ、頭を振った。少し癖がついた短い金髪が揺れた。長時間兜を被っていたせいで、髪は湿り気を帯びていた。
「ネウ、ついておいで。ヴァリスの言うことは間違っちゃいない。この街に残っていてもなにも変わりはしないし、身が危ないよ。それに、丘の教会が酷い目に会う前に逃げるってのは、そんなに悪い選択じゃあないはずさ」
ネウは鼻をすすって、顔をあげた。目が真っ赤になっていた。小さく、力なく、細い顎を縦に振った。その姿に責める気配が感じられない分だけ、余計に胸が痛む。
ヴァリスは唇を湿らせ、ネウに目を併せないようにして、重い腰をあげた。
大部屋には、いつもよりも多くの人がいた。男達は落ち着きを失い、そこかしこで勝手な推論を言い合っている。議論は男たちが取り囲む机の上にあるものについてらしい。
「ちょいと通してもらうよ」
ヘルカが男達の背で作られた壁を押し開く。ヴァリスとネウの手を引き、開いた空間に躰を滑り込ませた。
テーブルの上に、真っ赤な小瓶が置かれていた。ちょうどヴァリスの手首から中指の先くらいの大きさだ。胴は、角の立った三本の螺旋を描く。先の尖った擦り合わせの蓋には蝋が付着している。中身がこぼれださないように、蜜蝋を流し込んで固めていたのだろう。
「赤いガラス瓶なんて、見たことある?」
「……ないね。私が見たことある赤いガラスなんて、教会のステンドグラスくらいのもんだよ」
小瓶は、見続けていると思わず背筋を震わせてしまうような、寒気を感じる怪しい赤色を放っていた。うねり立つような意匠も、人の手で作られたとは思えないほど精巧なものだ。
まさしくその小瓶は、そうあるべくして、その形を取っていた。
「……私、これと同じものを、丘の教会で見たことがあります」
ネウの、力無い、無感情な声がした。
部屋の中の空気が一瞬にして張り詰める。男達のみならず、ネウを挟むように並び立つヘルカとヴァリスも息を潜めた。
呆然としたネウの声が続く。
「王都の教会からは、手紙以外にも、一緒に送られてきたものがあったんです。そのなかに、よく似た形の、小瓶も入っていました」
「つまり、ゼリに絡むもの、ってことだねぇ」
「ゼリが小瓶を持たせて、この街に送りこんだってこと?」
「さてね。ただ、ゼリは本気で、この街で選民とやらをする気なんだろうさ」
「その話、俺にも聞かせてもらおうか?」
太く快闊な声がし、自警団員の輪が割かれた。
男が一人、鋲が打たれた靴で石床を爆ぜ割るかのように歩いてくる。風を引き連れ現れた背の高い男は、リモーヴァの信徒であることを示す、くすんだ青い外套をまとっていた。サルヴェン自警団の団長だ。
団長は黒革の手袋を外し、油で固めた髪を後ろに撫でつけた。
太い顎を覆うように蓄えられた鬚が、唇に合わせて動く。
「あの田舎国王様がなんだってんだ? そしてその小瓶は? ヘルカ、ヴァリス。お前ら二人とも、ちゃんと説明できるんだろうな?」
「まぁ、一部だったらね。まず、この子のことにしようか?」
ヘルカがネウの背中を軽く押し、一歩前に押し出した。
「この子が丘の教会から、私らに警告に来てくれたのさ」
ヘルカは、昨日ネウから聞いた話を始めた。その声色は可能な限り淡白にしようと努められていた。おそらく、自警団員が騒ぎ立てないようにするためだろう。もっとも。それでもなお、ゼリの謀略の話は、皆に怯えをもたらすのには十分だった。
団長は渋い顔をして、顎鬚を撫でた。
「それで、なんで昨日の内に俺に報告がなかったんだ?」
「昨日いなかったのは団長の方さ。それに、昨日言ったとして、信じたかい? 私だってこの小瓶を見るまで、半信半疑ってやつさ。教会から来ました、ってねぇ。そう簡単に信じるわけにもいかないしさ」
「信じるかどうかは俺が決める。お前が決めることじゃねぇ。ヤバそうな話がある時はもってこいよ。お前とヴァリスはなんも言わねぇ。団結って言葉があるんだよ。そしてここは自警団って言うんだ。よく覚えとけ」
団長が小言じみた喋り方をするのはいつものことだ。それに団長の言う通り、長くここに居る割には、ヴァリスは仲間意識が薄かった。
しかしヴァリスは、団長にだけは言われたくはない、と思った。
だから、
「それなら、団長はここにいるみんなの名前、ちゃんと言える?」
冗談を言った。
部屋の空気が一瞬止まった。
一拍の間があった。そして部屋に男達の大きな笑い声が響いた。ヘルカも笑っている。ネウだけはきょとんとして辺りを見回していた。
団長は頬を緩め、髪を撫でつけた。
「おいヴァリス。最近見ない内に、お前どんどんヘルカに似てきてやがるぞ。気を付けろ? ヘルカみたいな女に似ると、いつまで経っても幸せになれなくなっちまう」
「酷い言いようだねぇ。ヴァリスは私といるだけで幸せさ。なぁ?」
ヴァリスは薄く笑い、ヘルカを見上げた。
「どうかな。厄介事は増えるばっかりだけど」
ヘルカが肩をすくめて男たちを見回すと、皆失笑した。
忙しく首を振るネウの頭を、ヘルカが撫でた。
「もう大丈夫ってことさ。団長と私らで、なんとかする。まぁ、どう、なんとかするのかは分からないけどね。私らはいつだってこうだから、心配はいらないよ」
「うん。それと団長、僕はこれを見つけた」
そう言って、ヴァリスは机の上に反逆者の躰から取り出した、奇妙な塊を置いた。
部屋がざわつき、団長は眉を跳ね上げた。
もちろん、それが何なのかは誰も知らなかった。この街の住人の中で最も博学な人物の一人であるイーロイが知らなかったのだ。無学な者が多い自警団においては、当然でもある。
団長は置かれた球体を、鞘に納めたナイフで、気味悪そうにつついた。
「良く分からんが、恐らく小瓶と合わせて一揃いなんだろうなぁ。そうなると、そのネウだかネルだかって子に分からなくても、丘の教会の司祭なら、こいつのことを知ってるかもしれないってことだ。つまり……誰か行くしかねぇってことだわなぁ」
男の中の誰かが言った。
「街の反逆者はどうすんですか。まだ出てくるかもしれねぇでしょう」
「分かってるよ、んなこたぁよ」
「団長、ゼリがこっちに兵隊送ってきたら、俺達だけじゃ無理ですよ」
また別の男の声。
「分かってるってんだろうが! ちょっと考えさせろ!」
雷鳴のような怒号を飛ばし、団長は目頭を押さえた。
ひとしきり唸って、目を開いたかと思うと、寒気がするほど冷たい声で言った。
「とりあえず防衛できる方向で話をもってって、裏を取るのが最善だろうなぁ。いくらゼリがなんかやろうったって、兵士だって人間だ。反逆者にゃなりたくねぇだろうから、そこまで無茶なことにゃならねぇだろう。問題は反逆者の方だわな」
ヘルカが左手を小さく挙げて、ネウを顎で指し示した。
「ネウは私とヴァリスが丘の教会に連れて行くよ。元々、ネウはヴァリスを訪ねてきたお客さまなんだ。それが道理ってもんだろう?」
団長は伸ばした指を揺らし、同意を示した。
「まぁ、違いねぇな。お前ら抜きで反逆者狩りってのはゾッとしねぇが、しょうがない。だが他に一人連れてけ。お前ら二人だけだと、黙って余計なことしやがる」
ヘルカがおどけたように男達を見回した。ヴァリスも目を滑らせてみたが、誰ひとりとしてついて行きたいという顔は、していなかった。
無理もない。
自警団にはサルヴェンで生まれた者も多く、そうでなくてもが居心地がいいから入団している。命令でもなければ街の防衛を優先するだろう、とヴァリスは思った。
しかし、その予想に反して男達が割れ、意外な人物が手を上げた。
「俺が行くぜ。俺はヴァリスにゃ、随分迷惑させられてるんだ。監視役ってぇのなら、俺が一番向いてるってもんだ」
イグニスだ。
団長は鼻で笑って答えた。
「心配ンなってついて行きてぇだけだろう。お前は。なら最初っからそう言え。お前はもっと素直にならねぇと、いつまで経っても独りモンのままだぞ?」
「うるせぇよ! 俺は独りの方が気楽だからそうしてんだ!」
「なんだい。素直にしてるんなら、ちょっとは優しくしてやろうかと思ったのにさ」
唇の片端を上げて笑ったヘルカの言葉に応えるように、男達は哄笑した。間髪入れずにイグニスの照れたような怒声が飛ぶ。あまり好ましい同行者とは思えないが、断ったところで団長命令だと言われるだけだろう。
ヴァリスは、はやる気持ちを抑えきれず、口を開いた。
「じゃあ今すぐ行こう」
団長は鼻の頭を掻いた。
「今すぐってお前なぁ。今日一戦やって、肩怪我してるやつが言うか?」
「言うよ。なにのんびりしてるのさ。昨日に二体、今日も二体だよ? 僕が自警団に入ってから、こんなことは初めてだ。もしゼリが仕掛けてきたことなら、知らない内に反逆者になるための誰かが、この街に入ってきてるってことじゃないの?」
部屋の空気が重く、冷たくなっていく。さっきのヘルカのように、ときには緊張を抑えるために、冗談を言うのもいい。しかし、気を緩めるために言う訳ではない。
目を細めたヘルカが、ヴァリスの言葉を継いだ。
「つまり、いまも街に反逆者になる予定の奴がいるかもしれないってわけだ」
「僕は、まだ新しく街に入ってきていると思う。まだ出るよ」
「ヴァリス。そいつは冗談にはしちゃ、ちょっと笑えない」
「冗談で言ってるわけじゃない。この二日間で四体の反逆者が出たんだ。人手は減る一方だし、余裕があるうちに動かないと、動けなくなっちゃうよ」
団長は、せっかく綺麗に整えられていた髪を、ぐしゃぐしゃに掻き乱した。
「お前にまともなこと言われる日がくるとはなぁ。これもヘルカの教育ってやつか。だがまぁ、正しい。やることやっちまおう。でもな、出せる馬なんて、一頭か二頭がいいとこだぞ?」
ヘルカは答えようとしたヴァリスを手で制し、言った。
「二頭もありゃ十分すぎるくらいさ。私とイグニスは鎧を着たままでも歩ける。丘の教会までなら、明日の夜には、なんとか着く。そうだろ?」
ヘルカはイグニスに目を向け、顎をしゃくった。
彼は不満そうに自分の鎧を撫でた。
「言ってくれるな。俺の鎧はお前のより重いんだぞ? ま、やるしかねぇんだが」
ヴァリスは机の上の奇妙な塊を布でくるみ、懐にしまいなおした。
「じゃあ決まりだ。すぐに用意してくる。あとで西門の前で落ち合おう」
「ヴァリスが張りきるなんて珍しいね。意外に故郷への凱旋に喜んでいるのかい?」
ヘルカはいつもの調子で、そう軽口を言った。しかし、その目は決して笑っていなかった。うまく隠しているつもりだろうが、含みがあるに違いない。
ヴァリスはとりあえず片手を挙げておいて、屯所を出た。確かめるのは、後でもいい。 石畳を蹴る足は、自然と回転を速めていた。
宿に駆け込み、驚く女将を尻目に二階に駆けあがり、薄い扉を押し開ける。
旅の用意といっても、丘の教会までは大した距離ではないし、もとよりヴァリスは多くの物を持たない。
まずは机の横に置きっぱなしになっていた肩かけの鞄。丘の教会を出るために、手ずから革の切れ端を集めて作ったものだ。獣の解体を任されるようになってから、時間をかけ、隠れるようにして作った。サルヴェンに住みついてからは、二度と使うはないだろうと思っていた。
ヴァリスは、その様々な動物の皮を繋ぎ合わせた鞄に、着替えと替えの血拭い布を詰め込む。くわえて革鎧の手入れに使う油を入れ、机の抽斗を開けた。
革張りの表紙の手帳が入っている。丘の教会を出るときに盗みだした逸品で、羊皮紙を小さく切り糸で綴じた、高級品である。
手帳にはヴァリスの日々の記録が、細かな字で書きこまれている。読み書きを忘れないためだ。
教会にいたころは勉強など嫌いだったが、ヘルカに最初に褒められたのは日記だった。以来、週に数行程度であっても、書き続けてきた。これだけは忘れたくない。
ヴァリスは手帳と自作の簡素な羽ペンを、丁寧に鞄に収める。そしてもう一つ、獣の骨で作ったインク瓶に固く蓋をし、放り込む。まるで街に訪れる詩人たちのように思えて、頬を緩めた。彼らと同じくらい自由であれば、どんなに良かったことか。
ヴァリスは口を固く結び、肩紐を肩にかけた。
階下に降りると、宿の女将が悲しげな目をして待っていた。
「街を出るのかい?」
「丘の教会に行って、帰ってくる。それだけだよ。多分遅くなっても五日で帰るよ」
「五日もあれば、二度と会えないかもしれないからね。気を付けるんだよ。お前はまだ何も知らないんだから。何か知るまで、死んだらダメだよ?」
「怖いこと言わないで。それだと、僕はいまでありがとうって言わなきゃならない」
ヴァリスは冗談だと示すために、笑ってみせた。しかし、冗談だけで済ませてはいけない気がして、宿を出る前に振りかえた。
女将の目は、悲しげななままだった。
「行ってくるよ」
「ちゃんと、帰ってくるんだよ」
世話にはなったが、感傷的になるほどでもないはずだ。
しかしヴァリスは、西門へと走り出していた。ヴァリスの足は、いつもより強く、石畳の感触を感じていた。
西門にはヘルカ達の他に、なぜかイーロイまで待っていた。
「悪いな、ヴァリス。俺も付いていかせてくれよ」
「何で? この街の人達はもういいの?」
イーロイは悩ましげに眉を寄せてヘルカを一瞬だけ見た。
「やっぱりヘルカと同じこと言うんだなぁ。そういう訳じゃないんだよ。お前の持ってる種を調べれば、もっと多くの人を、もっと楽に救えるかもしれないだろ?」
ヘルカが腰に手を当て、悲しそうに笑っていた。
「イーロイはバカだからねぇ。自分の命より他人の命の方が大事らしいよ。ま、どうせ放っておいても着いてきちまうだろうさ。だったら、連れていった方がまだマシさね。そうだろ?」
「ヘルカがそれでいいって言うなら、それでいいんじゃないかな」
ヘルカはの口調は、さっきの女将とよく似ている。嘘が混じっているかもしれない。だとすれば、置いていきたくないが、そう言えないのだろう。
ヴァリスは、集団の先頭に立って、門を出た。目の前に広がる光景に息を飲んだ。
広大な草原と畑の鮮やか緑が、そよ風が撫でられ色を変える。風邪は遠くに見える丘から、こちらに吹いてきているのだ。
丘の先には、一段と高い空が見えるはずだ。そしていまは見えないが、丘の向こうには教会がある。
茫然と丘を見つめ、立ちつくした。
ヘルカは、ヴァリスの顔を覗き込み、微笑した。
「どうしたんだい? ボっとしてさ」
「僕は、こっちから見たのは初めてかも」
丘の教会からサルヴェンまで来て以来、ヴァリスは街から出ようとしなかった。
最後に丘を見たのは二年前で、西門から振り返って見た丘は、闇に紛れて恐ろしく見えた。
――全然怖くないや。
ヴァリスは心中で呟き、傍らのヘルカを見上げた。
「行こう」
ヘルカが頷き返したのを見て、細く、荒れた土の道に、足を乗せた。
血振りの道よりもずっと柔らかい土を踏みしめて、ヴァリスたちは、丘の教会を目指した。
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