鎧の医者
ヘルカは時おりふらつくヴァリスの躰を支えつつ、診療所の外から中の様子を窺う自警団員に、声をかけた。
「中の様子はどうなってる? まだイーロイは無事かい?」
若い自警団員はヘルカの姿を認め、背筋を伸ばした。
「は、はい! って、ヴァ、ヴァリスくん!? やられたのかい!?」
「くんはやめてほしいな。大した怪我じゃないんだ。ヘルカが心配性でね」
ヴァリスは鼻で息をつき、叩き斬った矢が刺さったままの左肩を見せた。
矢傷に目を向けた若い自警団員の顔が、恐怖に歪む。
「と、ええと。ご、ごめんね、ヴァリス、くん」
――また子ども扱いだ!
ましてや、ただ滴る程度の出血を見て怯えるような新米に言われるなど。
ヴァリスは若い自警団員を睨みつけた。
「くんは――」
怒気の込められた言葉を遮るように、ヘルカがヴァリスの顔を覗き込んだ。
「悪いね。私のために。相棒が戦えないとあったら、気が気じゃなくってさ」
そう言って、ヘルカは片目を瞑り、薄く笑った。言外に、いちいち怒るから子供なのさ、と言われているかのようだ。
気まずさもあり、ヴァリスは唇を噛み、診療所に目を向けた。
白い壁に残る真新しい血痕から、傍目にも分かる。いま、中は酷い有様だろう。
イーロイの診療所は、平時では彼の人柄の良さと陽気な笑顔によって、むしろ人々が好んで集まっている場所だ。しかし、それも怪我人が出てしまえば別となる。
一度反逆者にまつわる騒動が起きれば、診療所に自分の手ではどうにもできない流血患者が集まる。治療時の出血ですら脅威であるため、自然と有事には街でもっとも危険な施設となってしまうのだ。それゆえ有事には、新米の自警団員が監視することになっていた。
かつて街で膝を抱えていたヴァリスがヘルカに拾われた頃、自警団に入団して最初にあてがわれたのも、診療所の監視と警護だった。
ヴァリスはヘルカに付き添われ、診療所の中を覗き込んだ。
いままさに、反逆者に変えられるという神の怒りへの恐怖が、渦を巻いていた。
騒動で傷を負い血を止められないでいる人々がひしめいている。焼灼による怒号が飛び、痛苦に悶絶する声が漏れ聞こえる。皆、懸命に、血と戦っていた。
イーロイはその地獄の中で、怪我人の手当てをしていた。『鎧の医者』の名に違わず、油で鞣した薄革の
血飛沫が躰につけば素早く拭ぐい、剥がれた油を塗り直す。そしてまた一心不乱に手を動す。彼は、まるで怪我人の間を泳いでいるかのようだった。
ヘルカは病院に片足を踏み込み、呼びかけた。
「イーロイ! ヴァリスが矢傷を負った! すぐ診てやってくれ!」
彼は治療の手を止めることなく、顔も向けずに返事をした。
「見れば分かるだろ! いま忙しいんだよ! 怪我人だらけだ!」
「イーロイ! 反逆者がまた出たらどうする? まず戦える人間だろう」
イーロイはヘルカとヴァリスを一瞥し、舌打ちした。しかし、すぐに診ていた患者の傷口に油を含ませた布を押し当て、患者自身の手で押さえさせる。続けて細い麻紐で傷の上部を固く結んだ。
処置を終えて立ち上がったイーロイは、周囲を見渡し、小さくうなづいた。
「いいぞ! お前は外で鎧の血を落としてこい!」
「よし、ヴァリス。私は外で血を洗ってくるからね」
ヘルカはそう言うと、唇の片端をあげた。
「……痛くっても、泣くんじゃないよ?」
「冗談にしてはくだらな過ぎない? ヘルカ」
ヴァリスはヘルカに笑顔で見送られ、肩を落とした。
「さぁ、
椅子に座ったヴァリスは、イーロイが持つ黒鉄の
返しのついた鏃を抜くには、矢床で力任せに引き抜くしかない。ようやく痛みが鈍くなってきたところだったというのに、次に襲い掛かってくるのは、これまでの比ではない苦痛だろう。しかし、嘆いていても仕方がない。
ヴァリスは柔らかい革が巻かれた小さなな木片を受け取り、天井を見上げた。
白く塗られた天井には、かつての患者達が噴きあげたであろう血飛沫の跡が、点々と残っていた。天井まで吹いたということは、おそらく患者は生きていない。
ヴァリスは身震いし、強く息を吐きだした。
「抜くとき、何か合図をしてほしいな。ちょっとは覚悟がしたい」
「もちろんだ。さぁ、そいつを噛んでくれ。噛んでおかなきゃ、歯が砕けるかもしれないぞ?」
ヴァリスは革の巻かれた木片を口に挟み、目を瞑った。左肩の痺れるような感覚に意識を集中する。肩の中に感じる異物が引っ張られ、新たな痛みを発する。そこに埋まる鏃に、矢床が触れたのだろう。合図があれば、激痛が訪れる。
目を開いたヴァリス、イーロイの目を見た。今日だけでかなりの数の患者を診たのだろう。油の塗られた顔からは血の気が引き、表情が失われていた。
視線に気づいたイーロイは、自分を奮い立たせるためか、あるいはヴァリスを安心させようとしたのか、笑顔を貼り付けてみせた。しかし丸眼鏡越しに見える目は、決して笑ってはいなかった。
「いいか? いくぞ? 気を張れよ?」
ヴァリスは革を撒いた木片を口に咥え、小さくうなづいた。
焼けつくような痛みというのは大した痛みじゃないと、そのとき初めて知った。
それは焼けつくというより、気が遠くなる痛みだった。
矢床が鏃を挟み、捻じり、肉ごと引っ張られる。痛みに全身の筋肉が硬直し、口に咥えこんでいた木片が、ぎしり、と軋んだ。握りしめた手はすぐに感覚を失った。
イーロイが、ぐりぐりと鏃をこじり、叫んだ。
「ヴァリス! 肩の力を抜け! 鏃が抜けない!」
無理だ。木片は潰れ、歯が軋む。息が詰まる。握った拳を開くことすらできない。
イーロイが鏃を捻じり、抜こうとする度に、身体が震える。痙攣を抑えることも、漏れ出る声もままならない。
ヴァリスは激痛に耐えかねて傷に目を向けた。
片から飛び出し、鋏につままれた鏃の根が見えた。肌の下で、二つの突起が、表皮を押し上げていた。返しが引っ掛っている。抜けないわけだ。
イーロイは切り傷、刺し傷の治療の経験はあっても、矢傷、とくに躰に残る鏃を抜く経験など無いのかもしれない。
左肩に手を伸ばしたヴァリスは、矢尻を掴む矢床の先を握った。
強く歯を食いしばる。歯を通じて、みりみりと木片が潰れていくのが分かる。鼻で息を思いきり吸い、止める。
ヴァリスは、力任せに引き抜いた。
ぶちぶちと肉が引きちぎれ、鏃が抜けたことを、文字通り肌で感じた。全身から力が抜けていく。口から木片が滑り落ちた。声も出ない。肩に感じる熱が、痛みのせいなのか、溢れ出る血のせいなのか、分からない。
刺すような痛みが加わった。
イーロイが薬草と油を練って塗布した布を、傷口に押し当てていた。
「良く耐えたな。ヴァリス」
「イーロイ! 抜くなら一気に抜いてよ!」
痛みに耐えた興奮は怒りにすり替わり、口から吐き出された。耐えがたい痛みと膨れ続ける怒りは、ヴァリスにイーロイを睨みつけさせた。
イーロイの丸眼鏡は、左肩から噴き出した血で、真っ赤に汚れていた。
「さっさと顔の血を拭きなよ!」
感情を殺しきれない。
イーロイは手を離さず、ヴァリスの傷に布を押し当て続けていた。
ヴァリスはその手を避けるようにして強く布を押さえ、自分の肩を抱いた。痛みよりも、怒りに任せ声を荒げてしまったことが情けなかった。
ヴァリスは自警団に入ってすぐの頃、ヘルカによく怒られたことを思い出した。
どんなに嫌なことをされたとしても、相手に悪意が無いなら、怒鳴ってはいけない。相手に悪意がないなら、嫌だ、と、ただそう言えば済むことだ、と言われていた。そしてそれが、上手く生き残るコツだとも。
「なんて顔してるのさ、ヴァリス。やっぱり痛くて泣いたのかい?」
微苦笑をしたヘルカが、ヴァリスを見下ろしていた。
「痛いせいじゃない」
「痛みのせいじゃない、ってことなら、他に原因があるわけだ?」
ヘルカはその場でしゃがみ、ヴァリスの顔を覗きこんだ。
「で、その顔からすると、どうすればいいか、自分でも知ってる。違うかい?」
謝れ、ということなのは、言われなくても分かる。しかし言われなければ、自分からは謝れなかったかもしれない。
顔をあげたヴァリスは、すでに他の感謝を診ていたイーロイの背に、声をかけた。
「悪かったよ、イーロイ。それと、ありがとう。おかげで助かった」
イーロイは気にしていないとでもいうように笑顔で手を上げ、治療に戻った。たしかに彼の笑顔は、人を元気づけるらしい。
立ち上がったヘルカは手甲を外し、満足げにヴァリスの頭を撫でた。
ヴァリスは柔らかいとは言えないが、頼もしい手の感触に口元を緩めた。
――でも、また子供と同じ扱いだ。
ヴァリスはそっとヘルカの手をどかした。
「僕は子供じゃあないよ、ヘルカ」
「だろうね。ヴァリスが子供だったら、頭を撫でやしない。子供が相手だったら、私は叱りつけてるところさ」
「また何かの冗談?」
「いや。今のは本当。昨日を思い出してみな。大人ってのは、存外、謝れないもんなんだ。私だって、そう簡単には謝らない。だから、本当に、私の相棒は凄い奴だ、そう思ったのさ」
そう言って、ヘルカは乱れたヴァリスの髪の毛を、指先で梳いた。
昨日というのは、イグニス達のことだろう。ヘルカは彼らも悪いことを言ったと思っているはずだ、と言いたいのだろうか。
あるいは、まさかネウの事を言っているのだろうか。
――あの後どうしたんだろう。
見上げると、ヘルカは悪戯っぽく、唇の片端をあげていた。
「あの子のことだろ?」
見透かされていた。あるいは誘導されたのかもしれない。
聞きたいけれど、聞けばまたからかいの種にされてしまいそうな気がした。しかしすぐに聞いても聞かなくても、どうせからかわれるのだろうと思い至った。
ヴァリスは、目を瞑った。ヘルカのしたり顔を見るのは癪だった。
「ネウはあの後、どうしたの?」
「宿がないって話だったからね。私の部屋に泊めてやったよ。まぁ金もほとんど持ってないみたいだから、しばらく私の部屋に置いといて、それから考えるさ」
「考えるって、何をさ」
「丘の教会から来たって話だからね。連れ帰る方法に決まってじゃないか」
ヘルカはいぶかしげに眉を寄せたかと思うと、急に真剣な顔をした。
「まさか、あの依頼を受けるつもりになったとか、そういう話かい?」
「どうかな。正直ちょっと、分からない。受けてもできる気はしないし。でも――」
「でも、なんだっていうんだい?」
「あの子の様子、見たでしょ? まるで街に来た頃の僕と同じだ。ヘルカと会う前のね」
「……そうかもね」
苦い顔をしたヘルカは銀色の籠手に手を通し、ベルトを止め直した。ヴァリスの答えに不満があるのかもしれない。
国王の暗殺など、不可能に近い。そんなことはヘルカもよく分かっているはず。
不満があるとすれば、ヴァリスがネウに自分を重ねてみていることということか。
――でも、同じだ。
ヴァリスは首を振り、手で押さえている軟膏付きの布に目を向けた。さすがにまだ血は止まっていないだろうが、いつまでもこうしているわけにもいかない。かといっていますぐ血を止めるとなれば、焼灼するしかないだろう。
鏃をこじる激痛を思い出し、躰が強張った。
ヴァリスは辺りを見回し、棚の上に置いてあった細い紐を取り、布の上から腕にくくりつけた。紐の片端を口に咥えて、強く縛りあげる。鋭い痛みが走った。
それでも、傷を焼くよりは、ずっとマシだ。そうヴァリスは思った。
診療所の入り口から、ガチャガチャと鎧の音がした。聞きなれた音だからか、あるいは嫌いだからか、すぐに分った。イグニスだ。
息を切らせて走り込んできたイグニスが、イーロイを呼んだ。
「イーロイ、ちょっと来てくれ。反逆者になった奴の死体が、変なんだよ」
彼が答えるより早く、ヘルカが答えた。
「変? 変って何さ。何があったって言うんだい?」
「ああ? なんだよ、ヘルカ、お前もここにきてたのか。それに……ヴァリスもいるじゃねぇか。丁度いい、お前らも来てくれ」
血の雨降らしと呼ぼうとしてやめたのは、どういう心境の変化なのだろう。まさか本当に、ヘルカの言うとおりに後悔していた、とでもいうのか。
ヴァリスは短く息を吐き出し立ちあがった。
「いいよ、行くよ。でも、僕は肩をやられているから、助けになれないかもよ?」
「構わねぇさ。昨日はこっちが助けられたようなもんだ」
イグニスはイーロイの方に顔を向けた。
「おい、イーロイ! 頼むよ、反逆者化した奴に詳しいのは、あんたくらいなんだ」
「聞こえてるよ。あとは縛るだけなんだ、少し待てよ」
そう言ったイーロイは、診ていた患者の腕に軟膏を塗布し、包帯を巻いていた。
一通り診察を終えると、確認するように辺りを一度ぐるりと見回した。
「よし。とりあえず大丈夫そうだ。それじゃあ、行こうか?」
「だとさ。大丈夫なら、私らも行こうか」
ヘルカは呆れたようにそう言い、ヴァリスに手を差し出した。
「うん。行こう。まだちょっと痛いけど、もう動けるし」
ヴァリスはヘルカの手甲に覆われた手を握った。
鉄の冷たい肌触りの奥に、たしかに頼もしさがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます