異常な反逆者
ヴァリスは、心地よい朝日ではなく、悲鳴で目を覚ますハメになった。
寝床から飛び起き、すぐに革鎧を身に纏いはじめる。
ただの喧嘩や窃盗であっても、血が流れれば反逆者が出るかもしれない。
短剣を後ろ腰の鞘に納め、まだ眠気の残る頭を奮い立たせて、部屋を飛び出した。
階下にいた宿の女将が緊張した面持ちで振り向いた。
「ヴァリス。南の方みたいだよ。他の子たちは鎧を取りに。気を付けるんだよ」
「分かってる。いちいち言わなくても、いいよ」
宿の女将は親切で言ってくれているのだとは思う。しかし他の団員のことなど、言われなくても分かっている。
この宿で寝起きしているのは、自警団員だけなのだから。
宿を出たヴァリスは、南を目指して駆けだした。
逃げてくる人々の流れに逆行していくと、微かに悲鳴が聞こえてきた。大通りに出てしまえば、進むのが難しくなるかもしれない。
昨日と同じように、路地裏から回り込み、人々が逃げてきた方へと走り続ける。地面を通じて足に振動を感じたヴァリスは、路地から大通りを覗きこんだ。
異形があった。またしても巨大な、今度は蜘蛛のようにもみえる形だ。
足元には死体がいくつか転がっている。
なぜ反逆者にしてしまわないのだろう、とヴァリスは思った。
通常、反逆者はただ人を殺しまわるだけではなく、反逆者を増やそうとする。到着が遅れた際には、数体は新たに生まれていても、おかしくはないのだ。
また反逆者の姿も異形に過ぎる。
人の体躯を腹側から突き破った肋骨が逆さに反り返り、高足の蜘蛛のように石畳を踏んでいる。左右一〇対の骨の脚だ。
膨れ上がった肉体は仰向けにぶら下がり、胸骨は肉体の上に逆立ち、前後にゆらゆらと揺れている。まるで蠍の毒針のようでもあり、槍のように扱うのかもしれない。
奥に人の形を残した下半身が垂れ下がっているのも見える。正面には人の形を残した腕も形を残している。
この二年の間に様々な形の反逆者を見てきたヴァリスだが、ここまでの異形はこれまでにも見たことがない。通常であれば、ここまで変化する前に始末されるはずだ。
民家を破壊し、さらに血を浴びる前に始末しなければならない。
辺りを見回してみても、まだ他の自警団員は来ていない。
しばらくの間はヴァリスが囮になり、時間を稼ぐしかなさそうだった。
舌打ちをしたヴァリスは路地から躰を出して、反逆者に自分の姿を見つけさせた。
反逆者の垂れさがった肉塊が割れ、暗い穴が開いていく。
不快な咆哮が通りに響く。
昨日の七つ腕の反逆者よりも大きな咆哮は、ヴァリスの耳から入り足先まで貫くように抜けていった。脳が揺さぶられ、視界が狭まる。
顔をゆがめたヴァリスは、反逆者の、頭部と思しき肉塊を睨みつけた。
反逆者は骨の足で石畳を割砕きながら、ヴァリスに向かって突進を仕掛けた。
ヴァリスは血返しの短剣を引き抜き、駆けだした。
吹きかけられた黒く濁った血が眼前で散った。
反逆者の骨の脚の間に滑り込み、ヴァリスは、短剣で頭上の人の躰を突き上げた。
そのまま人の躰の背を切り開きながら、躰の下を駆け抜けていく。
割り割かれた背から、赤黒い血が、どっ、と溢れた。
反逆者は咆哮をあげながら骨の脚を石畳に突き刺し、躰の下をくぐりぬけようとするヴァリスを追った。
ヴァリスが反逆者の身体の下を抜けようかというとき。
反逆者の二対の骨の足が、彼の躰を左右から挟み込むように蠢いた。
姿勢を下げたヴァリスは石畳の上を滑り、骨足を躱した。
汚らしい肉塊が消えると視線の先には曇った空が見え、背後で石畳が割り砕かれる音が聞こえた。
腰を落としたまま振り向くと、醜く太った人型の肉足が、伸びてきていた。
今から後ろへ飛んだとしても間に合わないだろう。
ヴァリスは屈みこんでいた脚に力を込め、息を吐き出し、止める。
跳ねる。
ヴァリスの足元で、石畳が爆ぜるように散った。
伸びてきた脚に手をかけ、跳ねた勢いに重ねて一気に躰を引き上げる。
反逆者の脚が閉じられたとき、すでにヴァリスの小さな躰は通り抜けていた。
閉じられた足の上に乗ったヴァリスは民家を避けて右に跳ね跳び、転がりながら降り立った。
きわどいタイミングだった。
頬を冷や汗が伝い、落ちる。
反逆者の足音はまだ続いている。
こちらに振り向いた反逆者の骨の脚は、蜈蚣のように滑らかに動き続けている。
切り開いた人の背からは暗い色の血が滴っているが、量があまりに少ない。短い刀身が恨めしい。
ヴァリスは深く息を吸いこみ、短く吐き出した。
そうしなければ、恐怖に負けてしまいそうだった。もし怯えて背を見せれば、あっさりと地に転がることになる。
あとどれだけの時間を、この薄気味悪い蜘蛛から、奪い続けられるだろうか。
ヴァリスは血返しの短剣を逆手に持ちなおし、両手を前へ突き出した。敵の膂力は強く、刃先を横薙ぎに打たれれば手から取り落としかねない。また革の手甲では防ぎようもない。それゆえの選択だった。
反逆者が雄叫びをあげ、突進してくる。
息を深く吸い込んだヴァリスは、膝の力を緩め、腰を低く落とし待ち受けた。
一体どれだけの時間を稼いだのだろうか。
ヴァリスの息はとうの昔にあがっていた。それでもなお動き続けられるのは、どれだけ待つことになろうと、ヘルカが必ず来る、と、信じていたからだった。
もはや周りの建物への被害など構う余裕はなかった。
窓から飛び込み、家屋を隠れ蓑にして反逆者の躰に切りつける。
幾太刀も浴びせたはずだが、反逆者の足は一向に止まらない。
傷の深さが圧倒的に足りないのだ。
逃げ場を失うことを恐れたヴァリスは、破壊された家屋の外壁と反逆者の躰の隙間から外に飛び出た。
反逆者は煉瓦の壁を崩しながら向きを変え、ヴァリスを嘲笑うかのように吼えた。
その口のような穴から、糸を引いて粘液が滴り落ちた。
未だ応援は来ない。ヴァリスは焦りを感じ始めていた。すでに限界は超えている。しかしまだ、ヘルカが来ない。
助けに来ないということは、ヘルカの方が、ヴァリスを待っている可能性もある。
昨日も反逆者は二体がほぼ同時に現れた。もし、今日もそうだとすれば、いまごろヘルカも苦戦しているかもしれない。最悪、死んでいる可能性すらある。
――冗談じゃない。
焦燥感がヴァリスの脚に絡みつき、重くなっていく。息を、維持できない。
「……ッ!」
耐えられず、余計な一息を吸ってしまった。
一気に胸が窮屈になり、脚に無駄な力が入っていく。口から入った息を吐き出さねば、次は吸えない。しかし吐き出すことを躰が許さない。息苦しさに、負けていく。
眼前に、反逆者の、蠍の毒針と化した胸骨が、迫っていた。
飛ばなければならない。しかし、脚は後ろに転がる力すら失っていた。
何条もの白い線が飛来した。
矢だ。
矢は反逆者の骨足に阻まれ多くが弾かれていく。しかし動きを止めてくれた。
ヴァリスは膝の力を抜き、腰を落とした。頭上を反逆者の骨の針が、かすめていった。そのまま転がり、石畳を短剣の柄尻で叩き、立ち上がる。
「まだやれる。やってみせる」
自分に言い聞かせるように呟いたヴァリスは、再び短剣を構えた。
矢の飛んできた方を一瞥すると、数人の弓兵が新たに矢を番えたところで、固まっていた。ヴァリスと反逆者の距離が近すぎるために、射るのを躊躇しているのだろう。しかし、距離を取る力までは残っていない。
ヴァリスはなけなしの息を吐きだし、叫んだ。
「いいから射って!」
弓兵たちは叫びに応えるように、即座に矢を放った。
ヴァリスは頭を左腕で庇った。左肩に衝撃があった。矢が刺さったのだろう。
痛みを感じている暇もなかった。反逆者が弓隊へ、頭を向けたからだ。
いまなら反逆者の首の付け根が狙える。
ヴァリスは最後の力を振り絞り、動かぬ足を無視して前方へ体を投げだした。
自然と、脚が前に出る。
右腕を限界まで伸ばして、ヴァリスは反逆者の首元に切っ先を叩きこんだ。絶叫とともに血が噴き上がった。
――やってやった。
一矢は報いた。
首から血しぶきをあげた反逆者は、ヴァリスを振り払うように躰を振った。
短剣から手を離さぬように強く握っていたヴァリスは、勢いに負けて短剣ごと振り捨てられた。
背中に硬い衝撃。ぶつかったのではない。受け止められた。
目の前に盾を握る手甲が見え、盾に矢がぶつかりガラガラと地に転がった。
ヴァリスが顔をあげると、血を拭った形跡の残る窓付きのバイザーがあった。
「遅いよ、ヘルカ」
「いい女は男を待たせるもんさ、ヴァリス」
バイザーの奥に見えるヘルカの目は、笑っていた。
ヴァリスは身体に力が戻るのを感じた。短剣を握り直し、左肩に突き刺さっていた矢を叩き斬る。
「もう少しなんだ。やろう、ヘルカ」
「今日は朝から散々だね。夜は眠れない、相棒は来ない。知らない内に無茶してる」
「ヘルカ?」
「なんでもないよ。私の後ろに。私と弓隊で奴を止める。奴の首、落としちまおう」
ヘルカは、背を向けていた反逆者に向かって、吼えた。
「こっちを向きな! 不細工な奴め!」
通りに響いたヘルカの声に、反逆者は絶叫しながら振り向いた。その背に矢が射かけられ、突き刺さっていく。
ヘルカはヴァリスを背に隠し、盾を突き出して前進した。
噴きかけられた粘液が盾にぶつかり、波打ち、広がる。
反逆者が突進し、骨針を突き出した。
ヘルカは盾を使って捌く。
不快な金属音を響かせ、骨針は彼女の躰の左へと流れていった。
反逆者の頭をめがけ、ヘルカは鐘槍を突き出した。
槍は肉塊に突き刺さり、鐘が盃となり血しぶきを受ける。
それでも反逆者の足は止まらない。
ヘルカは槍を引くことなく、石突を地に向けた。
石畳と反逆者の体躯に挟まれた槍の穂先が、肉塊と化した頭にねじ込まれていく。
石突が平石を粉砕し、槍が折れそうなほどに軋み、とうとう反逆者が止まった。
「ヴァリス!」
ヘルカの合図を信じ、ヴァリスは飛びだした。
反逆者の頭へ向かって斜めにかかる槍の橋を駆けあがり、跳ぶ。
両手で柄を握りしめ、ヴァリスは渾身の力を込めて、振った。
短剣は反逆者の肉を切り裂き、血はヴァリスの前で飛沫を散らせる。
――死ね。
呪うように心中で呟いたヴァリスは、刃を捻り傷口を大きく開いた。
一拍の間の後、骨の脚を崩した反逆者は、地に落ちた。
ヴァリスは、詰めに詰めていた息を、一気に吐き出した。息が荒いなんてものではない。立っているのがやっとだった。どんなに早く、どんなに深く呼吸を繰り返しても、足りる気がしない。目の前が、白く色褪せてていく。
ふらついたヴァリスの躰を、ヘルカが支えた。
「よくこらえたね、ヴァリス」
「……そっちも、大変だったみたいだね」
ヘルカの鎧は、返り血で真っ赤に染まっていた。予想通り、もう一体の別の反逆者と戦ってから、こちらに来たのだろう。
「ヴァリス程じゃあ、ないかもしれないね。こっちは味方も多かった。一人で抑え続けていたんだ。よくやったよ」
ヘルカは、ヴァリスの左肩の矢傷を見て口を固く結び、手甲を外そうとした。
ヴァリスはすばやくその手首を掴み、止めた。手甲についていた返り血は、彼の手を避けるように流れて落ちていく。
「ダメだよ、ヘルカ。イーロイの真似なんかしたら」
「別に真似しようってんじゃないさ。それなら、イーロイのところに行こうか。その矢を刺しっぱなしってのは、まずいからね」
「彼が反逆者になってもいいの? 血を被ることになるかもしれないよ?」
「あいつは大丈夫さ。鎧の医者だと自分で名乗ってるような奴だよ? 心配したってしょうがない」
「どうだかね。じゃあ、他に反逆者が出ていないなら、イーロイのところに行こう」
ヴァリスは痛む肩に顔をしかめながら躰を起こし、歩こうとした。しかし、足が上手く動かない。どうやら随分無茶な戦い方だったようだ。
ヘルカはヴァリスの右腕を取り、引き起こす。
「自分の足で歩けるかい? 私が背負ってやろうか?」
バイザーの窓越しに見たヘルカは、からかうような笑顔を浮かべていた。
ヴァリスは頬を緩め、自分を支える腕を払った。こういうときには、冗談を言う。
「……どうせ背負ってもらうなら、もっと柔らかそうな人にお願いするよ」
「余裕ありそうじゃないか。さすがだね」
そう言ってヘルカはヴァリスの背中を軽く叩いた。
ヘルカが冗談で返してこなかったので、ヴァリスは次に何を言えばいいのか、分からなくなってしまった
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