ヴァリスとヘルカ

 道行く人々が、並んで歩くヴァリスとヘルカの姿を認め、その動きを止める。

 二人の歩く先から人は離れ、恐怖にも似た視線が向けられる。

 人々が二人の姿に恐怖を抱いたのは、先の反逆者騒動のせいだけではない。


 一つには、サルヴェンの自警団員として二人の名と顔が知られているからだ。少年と女という自警団員としては珍しすぎる組み合わせである。そして返り血を浴びることのないヴァリスという少年と、鐘槍を持ち窓付きの兜を被るヘルカの姿は、あまりに目立つ。


 そしてもう一つの恐怖は、ヘルカの鎧についた返り血に起因する。

 人は、他者の返り血に触れれば、すべからく反逆者に成り得るのだ。どの程度の量の血を浴びると神の怒りに触れるのかは、誰にも予測できない。しかし人の血に触れ続けていれば、いつか必ず。ましてや反逆者の返り血を浴びたとなれば、その変化は一段と早くなる。さきの自警団員の一人のように。


 だからこそ街の人々は血を恐れ、血痕から距離を置く。

 それゆえ、人々は二人、とくに返り血を鎧にこびりつかせたヘルカの歩く先を開けるのだ。そしてまた、二人には恐怖の視線が向けられるのであった。

 

 ヴァリスは細く息を吐き出し、ヘルカの赤く染まってしまっている鎧を見上げた。

 男達の着こむ鎧よりも、ずっと薄く、軽い鎧だ。全身を覆う全ての甲が、滑らかな曲線を描く。甲を重ねることで隙間を可能な限り潰し、さらに鎧の下では蝋を染み込ませた薄手の革が血の侵入を防ぐ。

 そして兜のバイザーには格子とガラスで構成された窓がついている。血の侵入を拒むために、すべて二人で考え、作りだしたものだ。

 ヴァリスの視線に気付いたのか、ヘルカが目を向け、唇の片端をあげた。


「なんだい? 改めて。見惚れたのかい?」


 ヴァリスは、ヘルカと同じように、口の端をあげた。


「冗談。街の人にこれだけ怖がられてるんだ。見惚れるなんて、絶対無理だよ」

「怖がられてるのは、あんただよ。ヴァリス。みんな、近づいたら血を撒かれるって、そう思っているのさ」


 反逆者を狩り殺した後には、ほぼ必ず行う儀式だ。これまでも幾度となく同じようなやりとりを繰り返した。ヴァリスは、この会話をすることではじめて、戦いが終わったのだ、と思えるようになる。緊張が解け、自然に笑えるようになる。

 

 二人は街の主要な道を外れ、饐えた臭いが立ち込める小道に入っていく。

 もし無遠慮に大通りを歩けば往来の人々に返り血が飛ぶ可能性があるし、滴る血が石畳の隙間に染み込んでしまう。そのため、伝統的に反逆者の討伐を終えた自警団員は街の各所に通る土の道を通ること、と定められている。何年も使われてきた土の道には饐えた血の臭いが充満し、街の人々からは『血落としの道』と呼ばれていた。


 血落としの道の先から、荷車を引いた人々が歩いてくる。

 荷車を引く人々は全身を革の鎧で包み、頭には継ぎ目のない兜を被っていた。反逆者との戦闘の跡を消すためだけに存在する、浄化隊だ。

 浄化隊の一人が、ヴァリスとヘルカに向かって疲れたように手を挙げた。


「またお前らかよ。血の海か?」


 ヘルカは彼らに同情でもしているのか、優しげな声で答えた。


「血の海ってほどじゃないさ。血の池ってところじゃないか?」

「あるいは血だまり?」

「それにしちゃ大きすぎるよ、ヴァリス」

「お前らな、掃除する方の身にもなれってんだよ」


 言葉とは裏腹に、浄化隊の男の声は、二人を気遣うかのように軽い。

 浄化隊は戦う力を持たないが、街を守るため活動していることに変わりはない。また戦う力がないゆえに、実際に戦う人々に感謝すらしているのかもしれない。

 浄化隊の引く荷車が小石を踏み、わずかに弾む。積まれた樽から、水音が鳴った。

 ヴァリスは現場へと向かう荷車を見送った。


「ヘルカは浄化隊にだけは、優しいよね。あんまり得はないと思うんだけど」

「何言ってんのさ。私はヴァリスにだって優しいじゃないか」


 ヘルカは槍を担ぎ直した。


「キツい仕事をしてるのはお互い様さ。家族みたいなもんだよ」

「家族ねぇ」


 ヴァリスは家族という表現に顔をしかめた。

 ヘルカは大きな声で笑った。


「そりゃあ、ヴァリスは血を被ることがないから、分からないかもね。まぁ、今は分からなくても、その内に分かるようになるさ。いつも、そう言ってるだろう?」


 ヴァリスはヘルカには聞こえないよう注意を払いつつ、息をついた。ヘルカがたまに子供扱いをしてくることだけは不満だ。しかし、わざわざ反論する気も起きない。

 ヘルカは、街に来る前にヴァリスが居た丘の教会の司祭と同じように、説教でもしているつもりなのだ。つまり反論しても、司祭と同じように説教が伸びるだけだ。

 ヴァリスは、道の先に見えてきた古い石造りの建物を指さした。


「じゃあ、あの小汚い屯所が、ヘルカの家ってわけ? 冗談じゃなく?」

「そうだよ、冗談じゃあ、ない。私は、あそこで寝泊まりしてんだからね」


 ヴァリスは両手を、わざとらしく広げてみせた。


「わぁ、それなら素敵な家だ」


 ヴァリスの予想に反して、ヘルカは息をついただけだった。いつもなら冗談で返してきているところだ。さすがに嫌味たらしく言い過ぎたせいで、怒ったのかもしれない。そうであるなら、誤解は解いておかなければ後々に命に関わる。

 ヴァリスにとってヘルカは、街で生き抜いていくための最重要人物である。彼女との連携が悪くなるのだけは、なんとしても避けねばならない。

 ヴァリスは慎重に言葉を選んだ。


「ごめん、ヘルカ。ちょっと嫌な言い方だった」


 ヘルカは鼻を鳴らし、見下すように見つめてきた。


「ほんとにね」


 彼女は、ヴァリスの肩を盾で小突いた。


「あそこは本当に小汚くて困るよ」


 ヴァリスは、はっとしてヘルカの顔を見上げた。彼女は、まさに、してやったり、という顔をしていた。


 ――またやられた。


 ヴァリスは自分がからかわれていたことに気付き、肩を落とした。ヘルカの心底楽しそうな笑い声だけが、人気のない屯所までの道に響いた。


 近くで見る屯所は、やはり汚く、寂しく、血生臭い。

 屯所を囲う元は美しかったであろう白漆喰の壁には、汚らしい黒々とした斑点が散っている。斑点の正体は、戦いから戻った自警団員の鎧から跳ねる血飛沫だ。何度も漆喰を重ねたからか、あるいは染み込んだのか、何度洗っても落ちない血痕もある。


 屯所の裏に広がる墓地は、何年前からあるのか誰も知らないほど古い。有名無名を問わない戦士達の墓石や慰霊碑には、臭いに惹かれて集まった血吸鳥が止まり、羽を休ませている。一応は墓地の管理も自警団の仕事の一つなのだが、あまりに陰気な空気のせいで誰もが嫌がるほどだ。


 最後に、屯所の横に併設された、一段、二段と下げられた血洗い場の臭い。何百回、何千回とここで血が洗い流されているせいで、常に饐えた臭いが漂っている。

 その饐えた臭いのする血洗い場にヘルカが降り立ち、バイザーを下ろした。


「ヴァリス、水を持ってきてくれるかい?」

「うん。ちょっと待っててね」


 そう答えながら、すでにヴァリスは裏手の井戸に向かっていた。

 ヴァリス自身は返り血で汚れることはないため、血洗い用の水を用意するのは、自然と彼の役目となっていた。


 井戸から水を汲みあげ、木桶に車輪と取っ手をつけたものに、水を注いでいく。丘の教会で過ごしていた少年時代から、水汲みが一番好きだったかもしれない。どれだけ嫌な思いをしたあとでも、単純な仕事の間は無心でいられる。 

 水汲みを終えたヴァリスは、桶の手押しを掴み血洗い場の手前まで引いていき、桶に備え付けられている長柄の柄杓を使って、水をすくった。


「それじゃあ、洗うよ? 染み込まないことを祈っててね」


 ヘルカは乾いた血の跡が残る窓付きのバイザーの奥で、自信ありげに笑っていた。


「私らが作った兜も鎧も完璧だ。心配いらないよ」


 ヘルカは鐘槍を前に傾け、穂先の鐘状の盾を掴む。


「洗ってる途中に反逆者になっちまったら、ちゃんと殺してくれるだろう?」


 手桶を受け取ったヘルカは、槍先の血を洗い流しはじめた。

 ヴァリスは柄杓を使い、ヘルカの鎧に付いた血を洗い流していく。


「そういう冗談は嫌いだよ。本当に大丈夫? 水、染み込んだりしてない?」

「……悪いね。でも、心配しすぎさ。二人で何度も試したんだよ? 大丈夫さ」


 ヘルカの言葉を信じていないわけではない。しかし、鎧の継ぎ目が血を通さずにいるかなど、水や油で何度試したところで無駄のようにも思える。血は、水や油とは違うはずだ。

 ヴァリスがかけた水によって、ヘルカの足甲と手甲の血が流れ落ち、洗い場の隅へと流れ、大地に吸いこまれていく。


 次にヘルカの兜につけられたバイザーを洗う。何度繰り返しても、バイザーを洗う時が一番緊張する。可動部分があるだけに、隙間も鎧よりも大きくなっている。

 ヘルカは眉を寄せて苦笑した。


「ほんとに心配症だね。私は大丈夫だよ。水の冷たさすら感じない。間違いなく染み込んできてないさ」

「気付いていないだけ、なんてことが、ないといいんだけどね」


 ヴァリスは兜の窓を洗っていると、いつも窓が割れた時のことを思い出す。

 ヘルカの顔にいくつもの傷が残っているのは、作り始めた当初は窓の強度が全く足りず、試すそばから何度も割れてしまったからだ。


 それだけではない。戦いの最中でも、壁に叩きつけられた拍子に、あるいは盾がぶつかった時に、何度も割れた。その度に彼女の顔には傷が増えた。そして血を浴びてしまったのではないか、とヴァリスは何度も肝を冷やした。


 実験に付き合っていただけに、ヴァリスはヘルカの顔の傷に、責任の一端を感じていた。もしもいま窓が割れて表面についた返り血ごと、ヘルカの顔に突き刺さったとしたら。それこそ、冗談ではすまされない。


 ヴァリスがヘルカの鎧を洗い終えたころ、屯所に戻ってくる別の一団があった。先ほどまで共に戦っていた男達とは違う、弓隊を伴う一団だ。

 一日の内に、しかもほぼ同時刻に反逆者が現れることなど、そうはない。今日はそのせいで人手が足りず、結果的にさらに一人の手を失ったということになる。

 男の一人が、ヘルカに声をかけた。


「よう、ヘルカ。そっちはもう終わってたのか。さすがに早いな」


 ヘルカはヴァリスから乾いた布を受け取り、バイザーの水を拭った。


「ヴァリスと一緒にいれば楽なもんさ。ま、一人反逆者にされちまったけどね」

「また一人減ったのか。団員を増やしてもらわないとなぁ。まったく、何だってこの街の人間は殺し合いなんかしたがるのかねぇ」


 男は血洗い場に足を踏み入れ、ヴァリスのそばにある木桶を指さした。


「もう洗い終えたのなら、余った水を使わせてくれるか?」

「いちいち聞かないでよ。僕は汲んできただけで、僕の水ってわけじゃない」


 ヴァリスは太ももに付けていた血拭い布を外した。


「こっちのは随分と大きかったよ。元になった奴、何人殺したんだろうね?」


 弓隊の一人が水桶を引き、不愉快極まるといった様子で、重いため息をついた。


「そんなにか。そういや、街で殺しが続いてたって話だしな。こっちのは、まだ変化して間もない奴だった。多分、そっちのが犯人だったのかもな。まったく、どいつもこいつも、始末しに行く方の身にも、なれってんだよな?」


 血洗い場から上がったヘルカは、バイザーをはね上げ、薄く笑った。


「バカだねぇ。貧しい私達のために、飯のタネになろうとしてくれたんじゃないか」

「嫌な言い方すんなよ、ヘルカ。お前、口が悪すぎるんだ。最近じゃヴァリスまでお前に似て嫌な冗談ばかり言いやがる」


 鎧の男は眉を寄せ、気持ち悪そうに口の両端を下げた。

 男の物言いにヴァリスは顔をしかめて、ヘルカの声色と身振りを真似た。


「失礼な。僕の口が悪いんじゃないよ。僕の美しさに言葉が負けちまうだけさ」

「良く似てるぜ、ヴァリス。だがヘルカが言うには、荷が重い台詞だ」


 男は気持ちのいい、豪快な笑い声をあげた。

 ヘルカは槍を取り直し、石突きで男の鎧を小突いた。


「見てなよ、バカたれ」


 石突を強く地に打ちつけたヘルカは、大げさに胸を張り、目を瞑って天を仰いだ。


「わたくしの言の葉が醜いわけではありませんわ。ただ、貴方がたの知性が、わたくしの語りに耐えられないだけなのです」


 まるで路上演劇をやる女優のような、古臭く芝居がかった言い方だ。あまりにもわざとらしく、そして仰々しい言い回しだった。それでもヘルカが演じるとなぜか様になる。ただ悲劇の台詞を暗誦するときでも、喜劇のような調子にしてしまうのだが。

 男たちの笑い声に満ちた血洗い場で、誰かが言った。


「ヘルカ。お前にゃまったく似合わないぜ、その台詞」


 彼女はさらにわざとらしく、盾を振った。


「そりゃ仕方ないさ。私が喋れば、どんな美辞麗句も陰っちまうよ」


 ヴァリスは肩を揺らして笑いをこらえた。

 苛立たしげな足音が聞こえた。イグニスたちの足音だ。彼は笑い声が気に入らないのか、ヴァリス達を睨みつけた。一気に空気が冷たくなる。いまにも、また諍いがおきそうだ。

 口を開きかけたイグニスをみて、ヘルカがヴァリスの肩を叩いた。


「さぁ戻って食事だ。いい加減、こいつを脱ぎたいし、腹、減ったろ?」

「……そうだね。そうしよう」


 ヴァリスは、自分を睨みつけるイグニスの目を無視した。彼とやり合うよりも、ヘルカと話している方が何倍も面白い。それに、たしかに空腹でもあった。

 二人は連れ立って血洗い場を後にした。

 屯所を囲う門を潜くぐり、住居も兼ねた建物の分厚い木扉を押し開ける。

 中には大小様々なテーブルが置かれており、戦士達が一様に疲れた顔をして席について、食事をとっていた。

 ヘルカはさっさと奥の階段へと歩き出していた。


「ヴァリス、先に食べてていいよ。私は鎧を脱いでから、また来るからさ」


 ヘルカの提案に、ヴァリスは大部屋にいる戦士達を隠れ見た。

 苛立たしげな視線を向けてくる奴が多い。おおかた、血を被らない奴は楽でいいよな、そんな目だ。つまり自分に比べてお前は楽だ、と言いたいのだろう。

 ヴァリスは足早にヘルカの後を追った。一人では、ここにいたくない。


「僕が手伝った方が早いよ。それに、食事をするなら誰かと一所に食べる方が美味しいって言ったのは、ヘルカだ」


 ヘルカは困ったような顔をして振り向いた。


「たしかに言った。自分の言葉の責任は取らないとね」階段を降りながら続ける。「それじゃあ、面倒な鎧脱ぎを手伝ってもらおうか」


 ヴァリスは息をついた。これでいつも通りだ。

 あとは鎧を脱ぐのを手伝って、今日の仕事は終いになる。そうしたら上に戻って大して美味しくもない食事を食べるはずだ。

 きっと食事を取っていると誰かがヘルカにちょっかいをかけ、彼女がそれを軽くあしらい、皆を笑わせるのだろう。

 それがヴァリスとヘルカの日常だった。

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