第603話 逃亡者たち
◇◆◇◆◇
主を失ったメトセラ領は、しかし想像していたほどの混乱は起こらなかった。
そもそもレメク公爵家自体が、領地の治安には無関心であったし、危険な薬物の流通という悪事に手を貸していた。
市民からすれば、それは暴君が統治していたに等しい。
その暴君が排され、代わりに訪れた代理の統治者は愛嬌があってそこそこ有能だったのだから、荒れようがない。
その日、代理統治を引き受けた者は、自領からメトセラ領へ移動している最中だった。
「ドノバンの旦那、もうすぐメトセラ領でさぁ」
「うむ、ご苦労だった。だがまだ到着したわけではない。気を抜くな」
「へぃへぃ」
馬車の窓から顔を出して、傲慢に言い放ったのはドノバン=ストラ・サルワ。ストラ領の領主であり、ニコルを信奉する少年だ。
メトセラ領に近く、侯爵に匹敵する辺境伯の地位を持つ彼は、メトセラ領の代理統治を国王から命ぜられていた。
傲慢な性格は鳴りを潜めつつあるが、高飛車な口調はいまだ治らない。
しかしそれが彼に、新たな愛嬌としての魅力を与えていた。
市民の祭りなどでは、代表者として登壇し、開催の挨拶など行うくらいだ。
最初はその高慢な口調に腰が引けていた市民だったが、手短なあいさつを終えて降壇する際、足を滑らせて顔面からすっ転び、鼻血をぶちまけたことでその警戒心は一気に霧散した。
以来彼は、ドジなお坊ちゃんとして市民から認識され、『まったく坊ちゃんはしようがないな』という感想のもと、進んで市民の協力を得られる立場となっていた。
これは謀らずもエリゴールのカリスマと同類のものであった。そしてニコルとも。
「待ってくだせぇ。御者の人は馬車を止めろ!」
雇っていた冒険者は三人。彼らは装飾の施されている貴族用の馬車には乗れない。
そこで馬車を囲むように隊形を組み、周囲を警戒しながらここまでの道のりを踏破してきた。二頭立ての馬車は相応に大きく、三人でフォローするのはかなり難しい。
その三人――セバスチャン、フランシス、アンドリューの三人は一斉に足を止め、警戒の体勢を取った。
かつてニコルに挑み、そして敗北し、今では姐さんと慕う三人。その経緯はどことなくドノバンに似ている。
そんな縁もあって、ギルドからこの依頼を回された三人は、堅実に冒険者としての実績を積み上げつつあった。
しかし装備は一般的なものに新調され、顔にあった奇妙なペイントなどもぬぐい取った彼らは、少々怖い顔の冒険者という風情になっている。
そんな彼らが、いかつい顔をさらに厳つくしかめ、足を止めていた。
「な、何事だ?」
御者に指示を出すための小窓から顔を出したドノバンが、三人に事態の説明を要求するが、三人は周囲を警戒し、それどころではない。
ドノバンもその緊張感に当てられたのか、それ以上の言葉を発することなく事態を見守っていた。
やがて三人のリーダー格、セバスチャンがポツリと言葉を漏らす。
「虫の声が、しなくなった」
些細な指摘。無能な上司なら笑い飛ばして先を急がせた情報。しかしドノバンは、それがどれほど重要か、理解していた。
この街道も、ラウムの大半の例に漏れず、森に囲まれている。
そして周辺の茂みには、例外なく虫や獣の声が満ち溢れていた。それはラウムの豊富な自然の象徴でもある。
その鳴き声が、急に止まる。セバスチャンが指摘した通り、それは間違いなく異常事態の接近を意味していた。
突如、森の木々を斬り飛ばし彼らの前に姿を現す存在。
三メートルを超える巨体と、両手に剣を携え、羊の頭を持った異貌。
いうまでもなく、この北部を荒らしまわっている双剣の魔神の一体だ。
「敵襲!」
「言うまでもねぇよ!?」
「見りゃわかんだろォ!!」
セバスチャンの警報に、フランシスとアンドリューが答える。
そんな彼らに向け、魔神は威嚇の咆哮を放つ。
魔神の雄叫びは彼ら三人とドノバンと御者、更には馬車を
怯えたのは、わずか数秒。しかしその数秒は魔神の接近を許すに充分な時間となる。
「くそ、お前らは逃げろ! フランシス、アンドリュー、足止めするぞ!」
「ば、バカを言うな! お前たちで敵うわけがないだろう!?」
「うっせーな、これが護衛の仕事なんだよ!」
剣と盾を引き抜き、強引に自分を奮い立たせ、魔神の前に立ちふさがるセバスチャン。
しかし魔神の猛威は、一目見ただけで理解できるほど明確だ。
彼らでは敵わないことは、戦闘とは縁遠いドノバンでも理解できる。
いや、ドノバンとて魔術学院で好成績を残した優等生である。ある程度の実力は持っていた。
だからこそ、状況が絶望的だと理解できてしまう。このままでは彼らも、自分も、無駄死にだ、と。
「うるさい、護衛なら依頼人の言うことを聞け。ここは逃げろ、死ぬ気で走れ!」
ドノバンの指示を受け、御者は勢いよく馬に鞭を入れる。
馬もその刺激を受けて、尻に帆をかけたように走り出す。馬車がこの場を離れたことを受けて、セバスチャンたちも逃走に移ろうとした。
とはいえ、すでに魔神の接近を許しているため、離脱はそう簡単なことではない。
しかし彼らも、無駄に経験を積んだわけではなかった。
ここまでの経験で、自分たちがそれほど強くないことは、身をもって知っている。
ならば生き延びるための手段を選んでなどいられない。そのための準備の大切さも、ニコルたちの冒険で学んでいた。
「くらえ!」
魔神の威圧を受けて即座に行動に移せたのは、セバスチャンにとって奇跡にも近い僥倖だった。
ポーチから取り出した小袋を、魔神の顔に向けて投げつける。
それを魔神はまるでハエを払うかのように容易く斬り捨てた。それをまともに受けるほど、魔神も甘くない。
しかしそれはセバスチャンにとっても計算の内。
斬り飛ばした小袋の中身がその場に舞う。それを受けて、魔神は思わず顔を抑えて悲鳴を上げた。
中身はトウガラシや胡椒を混ぜ合わせた目潰し。奇しくもラウムでエレンが使ったものと同じものだった。
実力のない彼らが生き延びるための、時間稼ぎの道具。卑怯と呼びたければ呼べ、と開き直った彼らの奥の手の一つだった。
「行くぞ! 確かここは北部の関所に近かったはずだ」
「おう!」
セバスチャンの指示に従い、フランシスとアンドリューも逃亡を開始していた。
関所に行けば、正規の訓練を受けた兵士もいるし、砦もある。
そこまで逃げ延びれれば、生き延びる可能性も跳ね上がるはずだ。
彼らの生き延びるための追走劇が、ここに始まったのだった。
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