第580話 魔神降臨

 酒場の看板娘であるリジスはその日も沈んだ表情でテーブルを拭いていた。

 酒場の客も、彼女の笑顔がないとどこか物足りない気分になってしまう。その原因であるクファルは、いまだ戻っていない。

 彼女がクファルに心を寄せているのは、酒場の主人や客たち全員の共通認識である。

 気が付いていないのは、当の本人たちだけ。いや、老成した雰囲気を持つクファルなら気付いているかもしれないが、どうやらそれを知って無視している様子だった。


「はぁ……」

「まだ戻ってこねぇよなぁ、あの坊主」

「クファルくんですか? 確かに長くなるとは言ってましたけど、ここまでかかるなんて思いませんでした」


 話しかけてきた酔客にやや愚痴混じりの言葉を返し、テーブルの上を片付けていく。

 落ち込みながらも仕事の手を休めない彼女を見て、『良い嫁になるだろうに、もったいない』としみじみと思う客たち。

 冒険者というのは、基本的に根無し草である。いつ命を落としてもおかしくないし、将来の補償すらない。

 そんな冒険者に心を寄せる彼女の想いを、しかし否定してやることもできず、ただ見守るしかない。

 若い二人の初々しいやり取りは、見ている客たちにとっても癒しだったのだから。

 そんな時、酒場のドアベルが騒々しく鳴り、一人の冒険者が来店した。


「あ、いらっしゃ……クファル君!?」

「やあ、リジスさん。ただいま、少し長くなっちゃった」

「もう、心配したんだから! 連絡くらい寄越しなさいよ」

「いろいろ忙しくてね。ああ、これお土産。世界樹の樹液を詰めた小瓶だって」

「世界樹って、ひょっとして迷宮に入ってきたの?」


 薄汚れたたび装束のままのクファルは、懐から小瓶を取り出し、リジスに渡す。

 世界樹の導管に潜り込んだクファルは、その樹液をたっぷりと体内に取り込んでいた。その一部を土産として瓶に詰め、リジスに渡したのである。


「うん、ヤボ用があってね。それよりいま時間は空いてるかな?」

「え、うん、もちろん空いてるけど……」


 ちらりと酒場の主人……彼女の父の方に視線を飛ばすリジス。もちろん客がいる今の時間で、時間が空いていようはずもない。

 しかし娘だけが家族の彼女の父は、そんな娘の想いを察し、重々しく頷くだけにとどめていた。


「かまわん。だが早く帰れ」

「やった! お許しが出たから行こ、クファル君」

「すみませんね。娘さんはすぐお返ししますので」

「責任を取るなら、明日の朝でも構わん」

「もう、お父さんったら、冗談はやめてよね!」


 拳を振り上げ怒った仕草を見せるリジスを、笑って送り出す父親と宿の客たち。

 そんな連中を置いてリジスはエプロンを取り、クファルの後を追って宿を出たのだった。



「ねえ、クファルくん。町を出ちゃって大丈夫なの?」


 クファルの先導のまま歩くリジスは、そのまま町の外まで連れ出されていた。

 この近辺も、他の町の例に漏れず、柵の外は危険地帯である。それでも彼女が付いてきたのは、クファルが腕の良い冒険者という肩書きを持っていたからだ。

 それでもやはり、心配は消えない。


「大丈夫だよ。君のことはきっちり護るから」

「え、そ、そう? うれしい、かな?」


 クファルとしては生贄候補の彼女に傷一つ付けたくないから、そういっただけだ。しかしリジスの方はそうと受け取っていなかった。

 顔を赤くして、胸の前で手を組み、指をせわしなく動かしている。それが彼女の緊張を伝えていた。

 もっともその緊張が伝わる相手は、この場にはクファルしかいないわけだが。


 そんな彼女を連れ、クファルは町の外にある、小さな岩山の上に辿り着いていた。

 何度かリジスの手を取り、引っ張り上げてようやくたどり着いた場所である。

 岩山の向こうは町まで遮るものはなく、少し高い場所から町を見下ろすことができる。


「うわぁ、町が一望できるよ。クファル君、ここの景色を見せたかったの?」

「うん、まだ準備段階だけどね。この辺でいいかな。面白い物を見せてあげようと思ってね」

「面白い物? 何かな、ちょっとドキドキしちゃう」

「興奮することは間違いないね。それじゃ魔法を使うから、少し離れて。うん、そこで大人しくしててね」


 リジスは、クファルの指示で数歩後ろに下がり、丸いが描かれた場所に立たされる。

 そしてクファルは、彼女が聞いたことのない言葉で呪文を唱えると、町の方角から目も眩むような光が発せられた。


「な、なに!? 町が!」

「凄いだろ。町全体を囲む召喚陣だよ。これで街の人たち全てを、魔神の贄にすることができる」

「魔神って……まさか……」


 リジスとて、北部に住む人間として、魔神の恐怖は身に染みて理解している。

 特に二十五年前のレイドの死に関わった魔神の存在は、もはや禁忌と言っていいレベルで忌避されていた。

 その贄に、町の人たちを捧げると言っている。それがにわかには信じられない。


「何を、言ってるのよ、クファル君……あそこにはお父さんもいるのよ! 冗談なら早くやめて!?」

「冗談? それこそ冗談だろう? あれだけの人間を捧げたんだから、かなりの数の魔神を召喚できるはずだ。それに暴れてもらうことが目的だから、主人を設定する必要すらない」

「やめてよ! お願いだから……やめてって言ってるでしょ、この人でなし!」


 クファルに詰め寄ろうとしたリジスだが、その足は一歩たりとも円の外へ踏み出すことはできなかった。

 まるで見えない壁がそこに存在しているかのように、彼女の歩みを妨げている。


「出してよ、お願いだから!」

「人でなし……か。凄いね、リジスさん。よく見抜いたね」

「なにを、言って――」


 リジスの言葉が終わるのを待たず、クファルは身体をどろりと溶かす。いや、スライムとしての本来の姿に戻った。

 そこには赤黒い、不定形のゼラチンの塊があるだけ。それが震えてクファルの声で話しかける。


「リジスさん、君、勘がいいね?」

「ヒッ、ス、スライム……うそ、でしょ?」

「ウソじゃないよ、これが僕の姿」

「そんな……まさか、クファル君を食べて姿を奪ったんじゃ……!」


 ブロブと呼ばれるスライムの一種には、食った獲物の姿を奪う種もいると聞いたことがあった。

 目の前の変化を信じられなかったリジスは、とっさにその話を思い出していた。

 しかしそれを聞いたクファルは、不定形の体を揺らして笑い声をあげる。


「グファファファファ、それは面白い発想だ。でも残念、僕は最初からこの姿さ、忌まわしいことにね!」

「なんで……どうして……」

「どうだい、スライムに想いを寄せていた気分は? 絶望したかい? 安心していいよ、もうすぐみんなの場所に送ってあげるから。ほら、見てごらん」


 クファルが触腕を伸ばし、町を指し示す。

 光に包まれていた一際まばゆい光を発し、やがてなにも消えてなくなった荒野だけが残されていた。

 家も、人も、柵も、何もかもが消えて……代わりにがいた。


「嘘、ウソ、うそ……おとうさん、やだ、おとうさん、いやあああああああああああああ!?」

「いいね、その叫び。現れたのは……おっと、彼らか。これも因縁ってやつかな?」


 リジスの血を吐くような絶叫を背に、クファルは荒野に現れた魔神を確認する。そこには百を超える双剣の魔神の群れが存在していた。

 ただ一人でレイドと互角に戦った魔神、それが百以上。もはや絶望しか感じられぬ光景。

 それを見て、満足げに体を震わせるクファル。

 そして背後では力なく蹲ったリジスの姿があった。


「さぁ、次は君の番だよ」

「ころして、ころし……ころ、してやる……クファル、クファルうぅぅぅぅぅぅぅ!」


 気が狂ったように見えない壁を叩くリジス。その力に指は折れ、血が飛び散るが、彼女は一切気にしていない


「いいね、その狂気、殺意、憎悪! いいよ、もっと憎め、そうすればするほどに強い魔神が呼び出される!!」


 クファルもまた、絶叫しながら召喚の呪文を起動する。彼女の足元にあったものは魔神の召喚円。獲物を逃がさないように閉じ込める特別製。

 そうしてリジスは光に包まれ……は現れたのだった。



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