第534話 ある日の淑女の決断
その日も、レティーナはストラールの街に向かおうとしていた。
しかし折悪しくマクスウェルの用事があったため、転移魔法を使用してもらうことができなかった。
そういうわけでストラール行きは中止になり、レティーナは暇を持て余すことになってしまっていた。
首都ラウムの魔術学院高等部に通う身の上のレティーナだが、すでに一流レベルの実力を持つことは知れ渡っているため、彼女の出席は事実上個人の自由とされている。
教員としても、自身よりも熟達した生徒に物を教えるというのは、非常に微妙な感情を逆なでることになるので、そこは黙認……というか、歓迎されていた。
「暇ですわ」
今日も今日とてマクスウェルの屋敷に押し掛けていたレティーナは、留守を預かっているマテウスの給仕を受けながら、居間のテーブルの上に伸びていた。いや、たれていた。
苦々しい表情で、それを眺めるマテウス。彼の中にある淑女のイメージが、音を立てて崩れていくのを感じていたからだ。
「お嬢、さすがに行儀が悪いんでないかい?」
「誰も見てないじゃありませんの」
「俺は人数外ですかい?」
「使用人は人として数えるな、というのが貴族の考え方ですわ」
「お嬢でもそういう考え方、するんですねぇ?」
「時と場合によりますの」
テーブルの上でゴロンゴロンと身体を左右に揺するレティーナ。そのすぐそばにティーカップが置いてあるので、マテウスはそっと回収してトレイに乗せておく。
「しょうがないでしょ、公爵位が丸々一つごっそり抜けちまったんだから。その穴埋めに結構仕事を振られたようですよ?」
「私のためにご迷惑をおかけしてしまいましたわ。このお礼は、身を粉にして返さねば!」
「あの旦那は、そんなこと気にしないと思いますけどね。良くも悪くも、マイペースな人だし?」
「だからと言って甘えるだけとはいきませんわ。そうだ、狩りに行って精の付く物でもお食事に出すのはどうでしょう?」
「それ、誰が狩りに行くんで?」
「もちろん私が!」
「却下で」
珍しく断言口調でマテウスは答えた。
レティーナは一応、マクスウェルの婚約者である。その身に危険が及びかねない行為は、絶対に止めなくてはならない。
いかにレティーナが一流の魔術師とはいえ、森の中では何が起きるかわからない。
ニコルやミシェルという心強い仲間もいない今、単独で街の外に出すなど、マテウスにはとても容認できなかった。
「なら、あなたがついてきてくれればいいじゃない?」
「『ついて』って、お嬢が行くことは確定事項なんですかい?」
「私の手で獲物をしとめないと、私が狩ったことにはなりませんもの」
「できれば大人しくしてほしいんですけどねぇ。俺一人じゃ、守り切れないかもしれませんし?」
「なら、そうですわね……サリヴァンも一緒に連れて行きましょう!」
「ハァ!?」
ヨーウィ侯爵家の密偵、サリヴァンのことはレティーナの耳にも届いていた。
戦闘能力は低いが、その機敏な動きと状況に応じた判断力は、フィニアも評価しているらしいと。
レティーナはその噂を聞きつけ、彼のことを盛大に、かつ過大に評価していた。
同時に、マテウスのことは過少に評価してもいる。それは子供の頃にニコルに敗北したという実績を持つからだ。
いかにニコルが規格外と知っていても、子供に負けるようではマクスウェルの家人を勤められるのかと、疑問に思ってもいた。
「確かにあなた一人では心細いですからね。それに私もあまり魔術を使わないでいたら、錆びついてしまいますもの」
「錆びた方がいいと思うんですけどねぇ? 狩りなんて貴族の奥方がやるもんじゃないでしょ?」
そもそも、貴族の男でもあまり狩りは行わない。趣味の一環として行うことはあるし、貧乏な貴族なら自身で獲物を捕りに行くことも有るが、侯爵ともなるとさすがにその数は少なくなる。
獣を狩ることが娯楽の一つ、と考えている貴族もいるが、それはやはり一般的とは言えなかった。
レティーナは幼少から、一流のハンターであるニコルやミシェルと一緒に組んでいたので、その辺の常識が薄くなっているようだ。
「そうと決まれば、善は急げですわ」
「決まってねぇし?」
「決めましたの、今! なう!」
「あー、そう……?」
この勢いはもう止められない。そう判断したマテウスはトレイを持ったまま、器用に肩を竦めてみせた。
しかしレティーナはそんなマテウスには目もくれず、居間を飛び出していった。
「あの……なんで俺、ここに呼び出されたんで?」
「それを俺に聞くのかい? お前さんの飼い主に聞けよ?」
屋敷に待機していたサリヴァンがレティーナによって拉致……もとい、連れ出されたのは、それから三十分もしないうちだった。
戦闘力は低いが、それなりに実戦経験があるサリヴァンは、レティーナの横に立つマテウスの実力を易々と見抜いていた。
マテウスもまた、その実力を隠そうとはしていない。これはあえて晒すことで、レティーナに悪い虫が近付くのを牽制している節もある。
その威圧感は、引っ張り出されたサリヴァンにも通用していた。
「なんか俺、すっげー場違いな感じがするんですけど。戦闘とか全然得意じゃないし」
「お嬢が言いだしたら聞かないのは、アンタもよくわかってるだろ。諦めな?」
「トホホ……」
愛用の剣を二本、腰に差したマテウスと、一見武装をしていないようにも見えるサリヴァン。
その二人を、同じく愛用の魔術師用の杖を手にしたレティーナが先導する。
目指すは通い慣れた郊外の森。かつては野牛すら狩ったその場所なら、心配するほどのことは起こらないと考えていた。
ズンズンと先を行くレティーナを、放っておくわけにもいかず、かといって強引に引き留めることもできない二人は、慌ててその後を追っていく。
こうみえてもレティーナは成人した貴族の女性である。迂闊にその身体に触れることはできない。
特に使用人の男性ともなれば、主の娘に迂闊な噂を立てるわけにもいかないので、極力接触を避けるようになる。
そんなどこかチグハグな三人が勢い込んで街を出ていく様子を、門番は何も言わずに見送っていた。
こちらも同じく、成人貴族のレティーナの行動に、迂闊に口出しするわけにいかないからだ。
その後ろを、マテウスがサリヴァンの首根っこを引っ掴んで追っかけていく。
これは放置すると、サリヴァンが逃げ出すのではないかと危惧したからだ。
その様子はまるで、嫌がる犬を施療院に連れて行く飼い主のようにも見え、様子を見ていた者は後に『涙を誘う光景だった』と噂していた。
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