第533話 神話の舞台

 道管の中に入り込んだクファルは、その勢いに身を任せ、凄まじい速度で世界樹を駆け上がっていた。

 その高さは通常の樹木が育つ限界の高さを越えても、なお止まることはなかったが、道管の中にいるクファルには、現在がどれほどの高さなのかは知る由もなかった。

 それでも流れに乗っている時間の長さから、それが相当な高さであることくらいは、察することができる。

 物理的に不可能な高さまでの上昇。それがどのような理によるものなのか、クファルにはわかるはずもなかった。

 そもそもこの世界樹は世界で唯一の存在であり、神話の体現者でもある。人の考えの及ばぬ原理が存在したとしてもおかしくはない。


 そうしてどれほどの高さまで上がったかわからなくなってきた頃、道管に分かれ道が現れていた。

 これは枝別れを示す証であり、かなり上層部まで登ってきたという証でもある。

 道管の太さも、次第に細くなってきており、クファルの身体でも引っかかることがあるほど、細くなっていた。

 それはやがて、核だけのクファルですら通れないほど細くなっていく。同時に流れる樹液の勢いも弱くなってきていた。その事実が、彼に世界樹の頂上に近いことを知らせていた。

 そこまで来て、ようやくクファルは道管に取り付き、壁を溶かしにかかる。


 まずは周囲を流れる樹液を取り込み、自身の体積を増やしていく。それは道管に沿って長く伸ばし、身体の体積を維持していた。

 これは外に出た時に即座にある程度の身体を作るための保険でもある。道管の外にはどんなモンスターがいるのかわからないのだから、万全を期しておきたいという考えだ。


 続いて道管の壁を溶かしつつ、準備を整える。

 上層の壁は下層のそれよりも遥かに強固で、壁にそれだけの頑丈さが必要な敵がここにいることを、クファルは理解していた。

 しかし、下層の出口をバハムートに抑えられている以上、残る出口はこちらしかない。

 何時間もかけて、ようやく小さな穴を開け、そこからぬるりと絞り出すようにして迷宮内に這い出していく。


 這い出た先は、広い、ズタボロになった広間だった。

 激しい戦闘が行われたのか、あちこちの床が裂けている。広間の中央には何らかの魔法陣らしきものが描かれており、中央には砕かれた球体が放置されていた。


「ここは……?」


 人型を取り戻したクファルは、真っ暗な広場を一瞥して独り言ちる。

 暗い迷宮の中、人型も取らず、言葉もしゃべらないでは、元人間としての自我を失ってしまいそうな気がしたからである。

 さいわいと言っていいのか、ここには他のモンスターの気配は存在しなかったので、腰を据えて周囲の状況を調べ始めることができた。

 クファルは魔術の知識を前世から引き継いでいるため、その手の調査は苦手ではない。

 しばらく調べた結果、この魔法陣は世界樹の根幹機能に関わることを発見する。


「これは……大地から吸い上げた力を、この広間に誘導しているのか。確か神話では世界樹は世界を支え、同時に世界から力を集める存在とされていたな。となると、こっちの宝珠は、集めた力を管理する物だったのか?」


 神話では、この世界樹の頂上付近で破戒神と魔王と呼ばれる存在が戦闘を行い、その余波で世界樹が折られたというエピソードが存在している。

 ここがその現場なのかとクファルは理解し、感慨深い感傷に包まれる。

 しかし、現在彼は観光に来たわけではない。この世界樹から脱出するための手段を探さねばならなかった。


「待てよ、確かバハムートは世界樹の監視者をとか言っていたな。なら世界樹に異変を起こせば、注目を逸らすことができるか? それに……」


 わずかなバハムートとの会話の中から、脱出に利用できそうな単語を思い浮かべる。

 同時に背後へと視線を飛ばし、そこからもう一つの可能性にも思い至った。それは教皇暗殺のために行った、下準備での出来事。


「うまくすれば……出し抜くことができるか?」


 神を出し抜く。それができれば、これほど痛快なことはない。

 それが一度痛い目を見た相手なら、なおさらだ。

 そのためにはまず、この宝珠の機能を再生させねばならなかった。それは如何に魔術に精通したクファルでも、容易なことではない。


「まあいいさ。ここにモンスターはいないし、俺はスライムの身体を持っているからな。時間はいくらでもある。もっともレイドに意趣返しするには、それなりに急がねばならないか」


 スライムに寿命はないが、憎いレイドにはそれがある。クファルの感情的には自分の手で、邪魔した礼は返しておきたい。


「まずは表面から解析していくか」


 宝珠の破片をかき集め、その表面をなぞるようにスライムの粘液を動かしていく。

 そこに秘められた神秘の力の導線を辿りながら、その機能と構造を把握していった。

 しかしこれは、クファルの精神に大きな負担をかけることになる。人の精神で理解するには、世界樹の規模が大きすぎたのだ。

 しかしそれでも、憎悪の一念がその難行を乗り越えさせてくれる。

 ここに閉じ込めたバハムートへの怒り、逃げ込む原因になったレイドへの憎しみ、そして自分の原点になった半魔人差別への――世界への憎悪。


 それらが一丸となってクファルを支え、同時に宝珠へと染み込んでいく。

 やがて宝珠の断裂面を粘液が繋ぐようにして修復を始める。それは本来ならば難しい作業のはずだったが、世界樹の樹液によって再構築されたクファルの身体は、宝珠に対する耐性が非常に高くなっていた。


 宝珠を体内に取り込みつつ、再生していく。

 そうしてどれほどの時間が経過したのか、やがて解析し、修復した宝珠をクファルは吐き出した。

 その色は元の緑色の宝珠ではなく、どす黒い色がマーブル状に混じった、別の何かになっていた。


「く、くくくく……いけるぞ。これなら教皇暗殺なんかより、よっぽど効果的じゃないか!」


 ひとしきり狂気に満ちた哄笑を上げた後、クファルは吐き出した宝珠を拾い上げた。

 宝珠の再生したことにより、クファルはその機能を余すことなく理解していた。


「この宝珠は世界樹の力の流れを制御する機能がある。それを利用すれば……ククク、アハハハハハハハハハハハハハハハ!!」


 脱出の方法はすでに心当たりはある。あとは復讐のための罠を仕込めば、目的を達成することができるはず。

 その結果を妄想して、クファルはいつまでも、嗤い続けていたのだった。



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