第528話 フィーナの洗礼

「ん……ここは?」


 俺はゆっくりと目を覚ます。一番に目に入ったのは見慣れた天井。しかし、ベッドに入った記憶がない。


「あ、起きましたか?」

「フィニア、おはよう」

「はい、おはようございます」

「なんで自分の部屋にいるのかな?」

「それは、マクスウェル様の酒を一気飲みしたニコル様が、その場で卒倒してしまったからです」


 少し怒ったように、腰に手を当て頬を膨らませるフィニア。そういえばこの身体は酒に極端に弱かったんだっけか。

 マクスウェルと話をしていて、つい前世のつもりで酒を口にしたのが失敗だった。


「それより、今日はお昼からライエル様のお屋敷に向かう予定ですよ」

「あ、そうだった!」


 今日はレティーナの来訪もそうだが、ライエルの屋敷に向かう予定もあった。

 せっかく来てくれたレティーナを放置するわけにもいかないので、午前中だけ相手して、午後から屋敷に向かう予定だったのだ。


「もう、私はニコル様がいないと戻れないんですから、しっかりしてください」

「はい、申し訳ない……二人だけの時は前の名前で呼んでもいいんだよ?」

「私は切り替えが上手い方ではないので、ボロが出ないようにいつも通りで。その、特別な時はお呼びさせてもらいますが」


 顔を真っ赤にして、指をもじもじさせるフィニア。特別な時とはどういう時を想定しているのか、少し聞くのが怖い。


「ミシェルちゃんたちには?」

「はい。すでに連絡しておきましたので、大丈夫です。ついでにニコル様の代理としてデンさんを置いてきました」

「いたのか……」

「マクスウェル様が、ニコル様がいないならと連れてきてくれました」


 まあ、今のレティーナの惚気地獄に突き合わせるのは非常に心苦しいが、忍耐強いデンなら平気だろう。

 それに向こうも、俺たちを待っているはずだ。

 今日俺たちが屋敷を訪れることは、前もって連絡してある。


「それじゃ用意――」

「すでに準備してあります!」

「さすがフィニア。頼りになる」

「え、へへ……もっと褒めてくれていいですよ?」

「フィニアも言うようになったねぇ」


 そう言いつつも俺は着替えを始める。フィニアがそれを手伝ってくれるが、これは幼い頃からの習慣なので、今さら照れはしない。

 身嗜みを整えたところで、俺はフィニアと手を繋ぎ、魔法陣を構成していった。

 マクスウェルなら接触する必要はないのだが、俺は転移テレポートの魔法に慣れていないので、接触していないと他人も一緒に飛ばせない。

 そして術式が完成し、目の前の景色がモザイク模様に崩れ、再構築される。

 それが収まったころには、俺たちはライエルの屋敷の前にいたのだった。


「着いたよ、フィニア」

「あ、はい。この魔法、少し酔っちゃいますね」

「マクスウェルほど上手く使えなくてごめんね」

「そんな、こんなに早く戻れるだけでも恩の字です!」


 片手をグッと握りしめ、フィニアは力説する。

 その声に反応したのか、屋敷の扉が勢いよく開かれ、中から着飾ったフィーナが飛び出してきた。


「ニコねーたん、いらっしゃい!」

「おー、フィーナ、大きくなった?」


 飛び出してきた彼女を正面から受け止め、背後に倒れそうになる。

 それを予見していたかの如く、フィニアが後ろで俺を受け止めてくれた。


「うん、おっきくなったよ。これくらい」


 俺に抱き留められたまま、フィーナは両手をいっぱいに広げる。


「あはは、さすがにそれは大きくなりすぎ」

「ふぃにゃもおかえり」

「ふぃにゃ、じゃなくてフィニアですよ。あとおかえりですか……」


 フィーナは何気なく口にしたが、おかえりという言葉は自分の家に戻った時に使う言葉でもある。

 それはフィーナが、フィニアを家族として認めているという証でもあった。


「うん、フィニア。おかえりで間違いじゃないんだよ。ここはもう、フィニアにとっても帰るべき場所だから」

「ニコル様……はい」


 俺の言葉に、目尻に涙を浮かべるフィニア。孤児だった彼女はライエルの屋敷に勤めるようになってからも、自分の家という物を持ったことはない。

 そんな彼女にとって、おかえりという言葉は特別な意味があるのだろう。


「あら、ニコルってば帰ってきて早々フィニアを泣かせてるの?」

「人聞きの悪い。これはフィニアが涙もろいだけだよ」


 フィーナの後を追うように出てきたのは、屋敷では珍しく修道服に身を包んだマリアとアシェラ。


「あれ、アシェラ様まで?」

「そうよ。フィーナの洗礼は私がやるって言ったのに、マリアってば全然連絡してくれないんだもの。だから押しかけて来ちゃった」

「その、神殿の方は……?」

「のーぷろぶれむ! 書き置きしてきたから」

「問題ありすぎィ!?」


 要はまた抜け出してきたというのだ、この教皇様は。

 これでは枢機卿連中の心労も溜まろうというものだ。心中察するに余りある。


「まあそうね。だからすぐに戻らないといけないのに、ニコルちゃんがなかなか来ないんだもの」

「う、ごめんなさい」


 そう、今日の来訪の目的はフィーナの洗礼の儀のためだ。

 着飾ったフィーナは可愛らしく、俺の時にマリアとフィニアがエキサイトしていた理由が、今になってよくわかる。

 それに、ギフトの有無だけではなく、洗礼という行為自体にも大きな意味を持つ。

 ここで世界最大派閥の世界樹教の洗礼を受けることによって、村という社会の中にようやく溶け込めるという意味もあった。

 いわゆる同属意識というモノだろうか。同じ派閥に属する仲間だから持てる一体感のようなモノだ。


 もちろん、この後で世界樹教から別の宗派に宗旨替えするのも自由である。

 世界の根源にして魂の輪廻をつかさどる世界樹教は、生と死をもつかさどるといってもいい。

 そこに至るまでに細かい注文を付けるほど、狭量ではない。ただし半魔人は除くという現状ではあるが。


「ニコル様ってば、マクスウェル様のお酒を飲んでひっくり返ったんですよ」

「あ、こらフィニア! 告げ口するなんてヒドイ」

「ほほぅ、ニコルも酒を嗜める歳になったか。なら俺とも一杯飲んで行かないか?」

「あ、父さんとだけは絶対イヤ」


 玄関から出てきた途端撃沈するライエルだが、お前と一緒に飲んだら確実に先に潰される。


「それじゃ、酒飲みニコルちゃんも来たことだし、洗礼の儀を始めるとしましょうか」

「言いがかりがヒドイ!」


 パンと手を打ってアシェラ教皇が話をまとめにかかる。

 今年はフィーナだけしか三歳児がいないため、村の教会で手軽に済ます予定だった。

 俺は片手にフィーナを抱き、片手をフィニアと繋ぎながら、教会へ向かうことにした。


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