第487話 潜入工作
「んぉっ!?」
俺は跳ね起きるように身体を起こし、即座に周囲を観察した。
俺が寝ていたのは清潔なカーテンが吊るされた寝台の上で、周囲も同様に丁寧に掃除の行き届いた一室だった。
部屋の隅には薬品棚が置いてあり、隣接するように置かれた机には書類が出しっぱなしになっている。
まあ、一言で言ってしまえば、初等部時代に散々目にしてきた、医務室の光景だ。
「やぁっと起きましたのね。ニコルさん」
跳ね起きた俺の寝台の横には小さな丸椅子が置いてあって、そこにレティーナが腰かけていた。
薄い胸の上で腕を組み――俺の場合、最近腕に胸が乗るのだ――不機嫌そうに頬を膨らませている。
いささか子供っぽい態度ではあるが、俺にとっては見慣れた光景で、逆に安心できた。
「ここ、医務室?」
「そのとおりですわ。ニコルさんの状況は……説明するまでもないですわね」
「うん、どうやら薬品中毒になったみたい?」
「『依存性のある薬ではないので、寝かせていれば勝手に目を覚ます』と保健医は言っていましたわね」
「その保健医はどこ?」
「一足先に昼食を取りに出ましたわ」
患者がいるのに感心しないとは思ったが、俺の気絶癖はレティーナに聞いているだろうし、看護が必要なほど重篤でもないなら、そういうこともあるかもしれない。
昼休みは意外と患者の生徒がやって来るので、人の少ない時間を見計らって昼食に行くことは、トリシア女医を見ていれば理解できた。
もっともあの女医のいうことだから、あまり参考にはならないだろうが。
「今、何時かな?」
「二限目の錬金実技が終わって、三限目の応用魔法理論の授業が始まってますわ。わたしはニコルさんの付き添い」
「へぇ、よく先生が許してくれたね?」
レティーナは健康なのだから、あとは保健医に任せて授業に出ろと言われてもおかしくなかっただろうに。
だが俺の疑問にレティーナは腕を組んだまま胸を逸らし、自慢げに宣言した。
「ここ程度の応用魔法理論なら、授業に出るまでもありませんもの。わたしの実力は転入初日に見せつけましたし」
「いったい何したんだか」
「ちょっと先生と模擬戦をして、三本連取したくらいですわ」
「うわぁ……」
レティーナはギフトこそないものの、火属性魔法に適性があり、その才能を俺たちと共に伸ばし続けてきた。
実戦に裏打ちされた技量は、お山の大将を気取るそこいらの教員では太刀打ちできないだろう。
生徒の前で生徒にコテンパンに打ちのめされたのなら、心が折れてもおかしくない。
よく授業を続けていられるものだと、レティーナに呆れると同時に教員に感心してしまった。
「その先生は翌日にやめてしまいましたけど。さすがのわたしも、少し反省してます」
「少し? どう見ても外道の所業……いや、それは別にいいとして」
実際あまり良くはないのだが、今回の目的とはあまり関係がない。
それより、これは千載一遇のチャンスかもしれない。この時間ならば、カインも授業に出ているはずなので、奴の部屋を調べることができる。
そして、奴の住む寮の最上階は、生徒の部屋だけでなく使用人の部屋まで用意されていた。
つまり、使用人は清掃などの業務以外では室内にいないということだ。
プライドの高い貴族なら、室内にはほとんど使用人を入れない。
許可したとき以外入らないのだから、室内は無人になっている可能性が高い。
俺やレティーナのように、ホイホイ呼び入れたり、入っても怒らないということの方が稀だ。
「今、何時?」
「ちょうど三限が始まって十分といったところかしら。ひょっとして……?」
「うん。この時間を利用しない手はないよね」
「ならわたしも……」
「レティーナはここでわたしの身代わり」
「えぇ~」
つまらなさそうな反応を返すレティーナだが、彼女は秀でた魔術の使い手ではあっても、密偵の心得があるわけではない。
室内に誰もいないかもしれないが、寮の最上階は無人ではない。
心得のない彼女が付いてくることは、危険なだけである。
「――それに、保健医がいつ戻ってくるかわからないでしょ。身代わりは必要」
「それは無理がありますわよ。わたしとニコルさんでは、見かけも身長も全然違いますもの」
「胸の大きさもね」
「ぐぬぬ……」
俺の背が低いことを揶揄したレティーナに、胸の大きさでやり返しておく。
しかしこれはこれで、俺自身にダメージがあるな。だが今はそれどころじゃない。
「レティーナには、これ」
「これは、指輪?」
「そう。これは幻影を纏うことのできる魔道具。それでわたしに変装すれば、保健医は騙せるはず」
「こんな高価な物、どこで手に入れたんですの?」
「うっ……わたしたちはレティーナと別れてからも冒険を続けてたからね。その時に」
「へー」
この指輪の存在を初めて知り、しげしげと眺めていたレティーナだが、すぐにためらいなく指に嵌め、魔力を流して俺の姿を取った。
「どうです? ニコルさんに見えます?」
「んー、もう少し背が高くない?」
「いいえ。間違いなくこの高さですわ」
「そっかなぁ?」
俺はもう少し高いと思うんだが、ここで揉めている時間も惜しい。
それに先ほどが初見の保健医ならば、多少の誤差くらい、ごまかすことが可能なはずだ。
「ま、いっか。それじゃわたしは行ってくるから」
「いつものようにドジ踏まないでくださいましね」
「『いつものように』は余計!」
俺はしかめっ面でレティーナに舌を出して見せ、そのまま窓から飛び出していった。
扉から出なかったのは、他の生徒に見られる危険を避けたからである。いくら授業中とはいえ、俺のように気を失って訪れる生徒もいるかもしれない。
だが窓の外は裏庭に面しており、この時間にそちらを訪れる生徒はいない。
どちらも万が一の可能性はあるが、裏庭の方が安全と判断したからだ。
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