第441話 教皇暗殺

 割り込んできたのは一般人の群衆のさらに後ろにいる小さな少女だった。

 見た目は俺と同じか、さらに年下。十代前半に見えるだろう。

 俺のように武術を学んでいる様子もなく、その細い手足は俺よりも華奢だ。

 まるで過去の自分を見ているかのような印象を持つ少女は、しかし誰よりも通る声で周囲の感情を一瞬にして掌握していた。


「もう一度言いますよ? 私がそのような愚かな行為を止めて見せます」

「あ、あんたになにができるって――」

「できますとも。私が一声かけることで。こういった権力を笠に着るやり方は好みませんが」

「お前一体……いや、その顔、見たことが……」


 一般人の男は少女の顔に見覚えがあるようだった。まじまじとその顔を眺め、それから一歩、気圧されたかのように後退る。


「ま、まさか……教皇猊下!?」


 俺のいる場所からは距離が遠く、細かな造作までは確認できない。

 しかし輝くような金髪と、世界樹の葉を映したような若草色の瞳は、これほど離れているというのに確認できた。

 ただの金髪碧眼というのではない。その色に特別な圧力すら感じる存在感が、少女にはあった。


「教皇……?」

「そういえば南の方で行方不明っていってたっけ」


 この七区はベリトの街の南南西に位置する。つまり『南の方』に分類される地区だ。

 ならばここに彼女がいても、おかしくはない……はずだ。それでも、俺は強烈な違和感を覚えていた。

 そう――


「――都合、よすぎる!」


 そう叫ぶと俺は屋根から飛び降りた。

 彼女が真に当代の教皇ならば、半魔人差別を撤廃しようとしている慈悲深い人物のはずだ。

 その彼女がお忍びで街に降りたタイミングで暴動が起こり、しかもその場に駆けつけることができるほど近くにいる。


 もし俺が彼女の暗殺を目論もくろむのなら、このタイミングを逃しはしない。

 それは俺以外の、この状況を仕組んだ連中も同じだったようだ。

 俺が屋根を飛び降りる時、同時に動き出す人影が目に入った。

 そいつは群衆の後ろの方で控えていて、彼女に向かって人込みを縫うように近付いていた。

 熱心な信者である可能性はある。しかし俺は、その可能性を即座に排除した。


 なぜならそいつは、左手に短剣を隠し持っていたのだから。

 袖口に隠していても、同業だった俺にはわかる。

 柄を逆手に持つときの、独特な手首の形。右手と左手で違う腕の振り方。

 その動きに俺は、身に覚えがあった。


 距離は圧倒的に俺の方が遠い。それでも糸を身体に絡めて強化し、全速力で彼女に駆け寄っていく。

 疾風のような俺の動きを怪しみ、群衆が止めようとしたが止められるはずもない。

 それでも俺の全速力を阻害するくらいの役には立っていた。


 取り押さえようとする腕を潜り抜け、立ちはだかる足の間を滑り抜け、必死に少女に向かうが、それでも足りない。

 怪しい男はついに群衆を抜け出し、少女に迫る。ようやくその事実に気付き、少女は驚き、そして直後に余裕の笑みを浮かべていた。

 その意味が俺には理解できない。彼女には、身を護る技術はなさそうだ。今も、その凶刃に身を晒したままである。

 俺は間に合わない、それを確認するために一瞬こちらに視線を向けた。


「やめろ!」


 彼女が死ねば、この暴動は止まらなくなる。

 その一心で、全身全霊の想いを込めて男に向かって叫んだ。

 勝ち誇り、短剣を左の袖口から抜き出した男は――


「――…………」


 俺の言葉を受け、ピタリと動きを止めた。

 何が起きたかはわからない。しかし男が動きを止めたのは千載一遇のチャンスだ。

 俺はそのまま男に飛びつき、タックルの要領で男を地面に押し倒した。

 男が手に持っていた短剣は、よく見るとしっとりと濡れている。

 水や油を浸して持ってきた、なんてかわいい理由ではあるまい。おそらくは無味無臭の毒を塗っている。


 そんな相手を取り合押さえるなんて、危険極まりない。

 下手に抵抗されて、俺が毒を受ける可能性もある。飛び散った毒が教皇にかかり、致命的な症状を引き起こす可能性もある。

 意識がある限り、そういった危険は捨てられない。

 だから俺は拳を固め、全力で男の顔面に叩き付けた。


 空振りをして地面を強打し、拳を痛めてしまう可能性も、もちろんある。

 それでも、一撃でこいつの意識を刈り取らないと、危険は一向に去ってくれない。


 さいわい、男は俺の拳を避けることができず顔面を痛打され、あっさりと意識を手放し、気絶した。

 これは顔面に叩き込んだ衝撃で後頭部を石畳に強打したからだ。


 馬乗りになった俺の下で、男の身体が完全に脱力する。

 鼻を砕かれたのか、鼻血を流しながら白目を剥いている男。

 左手からは毒付きの短剣が零れ落ち、石畳に跳ねて澄んだ音を響かせていた。


「ふぅ、これで一安心か?」

「おみごとでした。マリアの娘」

「え……?」


 唐突にマリアの名を出され、俺は困惑した。

 いや、考えてみれば知っていて当然か。

 マリアはこの街で聖女と呼ばれ、敬愛されていた。そんな街の教皇が、彼女を知らないはずがない。


「驚いた? でもあなたは、若いころのマリアにそっくりだもの。気付いて当然だわ」

「待って、母さんがこの街を出たのは。二十五年も前だよ」

「もうそんなに経つのね。私も歳を取るはずだわ」

「いや……」


 どう見ても十を過ぎたばかりという少女が使う言葉ではない。

 ということは、彼女は白いのと同じく、見かけ通りの年齢ではないか?

 俺はそんな疑問を持ちながら、彼女に視線を向けていた。

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