第426話 強者の折檻

 目の前に展開される光景を、俺は生暖かい気分で眺めていた。

 いや、冗談で済まない光景なのだが死傷者はまだ出ていないし、隣にいる飄々とした少年――バーさんが腹を抱えて大笑いしているから、緊迫感という物が湧いてこない。

 動かない俺と爆笑するバーさんに、フィニアはオロオロと手を彷徨わせ、困った顔をしている。


「あ、あの……いいんですか?」

「あー、いいんじゃない。わたしは別に死んでも気にしないし?」

「僕も、この街の治安が良くなるから、いいと思うけどね!」

「お前、地味にえぐい性格してるよな……」


 顔面を、涙と鼻水と涎となんだかよくわからない体液でぐしゃぐしゃにしながら、逃げまどう若者たち。

 正直、俺たち六英雄をコケにしてくれたわけだから、ざまぁみろという感情がないわけでもない。

 だがそれ以上に、失禁とか脱糞とかしながら逃げまどう姿は、あまりにも哀れを誘う。


 それに、アガレスと呼ばれる魔神が、あの程度の連中を仕留め損ねるとは思えない。

 それなのに連中は軽傷は負っても、動けなくなるほどの重傷は負っていなかった。

 つまり、何者かが連中の致命傷を避ける、何らかの補助を行っているということになる。

 そんな真似をする奴はこの場には一人しかいない。俺の隣で、目の前の光景を堪能している、この少年だ。


「え、どういうことですか、ニコル様」

「こいつがギリギリんところで致命傷を避ける障壁を掛けてる、多分」

「そんな事が……詠唱とか魔法陣とか、展開してなかったですよね?」

「こいつの知り合いは無詠唱で魔法を使うし、魔法陣をごまかす手段も隠し持ってそうな奴だったから。きっとこいつも同類」

「ご名答。死んでも気にしないけど、やっぱ後味が悪くなるし?」

「なんだ、それは」


 矛盾した感想を述べるバーさんに、あきれた声を返す俺。

 だがあのままでは、いずれ直撃を受けて障壁では耐え切れなくなってしまうのも、時間の問題だ。


「でもあれ、結局どうすんの? いたぶり回して結局殺す?」

「君も随分容赦ないね。いや、生かして帰すよ。ああいう目に遭わせれば、今後は少しは自重を覚えるだろうし」

「あっそ……」


 もう、どうでもいいや、という気分で投げやりに返す。

 そこでバーさんは俺の方を振り返り、いたずらっぽい顔をしてみせた。


「君、よかったらアレ倒してみない?」

「は、お……わたしが?」

「もちろん、そっちの君が手伝ってもいいよ?」

「ひぇ、わ、私もですか!?」


 俺は元よりフィニアまで巻き込もうという提案をしてくる。

 しかし、俺はともかく、フィニアまで巻き込むような提案に乗るわけにはいかない。


「無理。そもそも武装を持ってきてない」

「その短剣、うちの店で売れたやつだよね? それに君の主武装は転送機能がついてるって聞いたけど?」

「あの白いの、ぺらぺらと……」


 ハスタール神お手製の手甲の能力が、なぜバーさんにまでと一瞬考えたが、考えてみればハスタールの嫁はあの白いのだった。

 そこから情報が流れていても、おかしくない。


「どっちにしろ、余計な危険に首を突っ込む気はないよ」


 ましてやあれほどの強敵、飛び込みで仕掛ける気には、とてもなれない。

 強敵と力試しすること自体は嫌いじゃないが、今回はフィニアの目もある。全力を出せない状態で無駄に危険を冒すのは、本意ではなかった。

 バーさんは俺が断りを入れると、意外という顔をして見せたが、それでも強制はしなかった。


「そう? じゃあ僕が仕留めてくるかな。連中もいい勉強になっただろうし」


 まるで買い物でも行くかのような、緊張感のない声。

 一歩踏み出し腕を一振りすると、逃げまどう三人の姿が、霞のように揺らぎ、そして掻き消えた。


 アガレスは目の前から唐突に標的が消えたため、戸惑うかのように首を振っていた。

 それは消えた敵を探す動きだったのだろう。しかし周囲にあの三人組の姿はない。代わりに、俺たち三人の姿が目に入ったようだ。

 新たな標的を認め、こちらに迫ってくるアガレス。

 そのワニ特有の巨大な口が大きく広げられ、突出していたバーさんに迫る。

 だが彼は、まるで踊るように軽く横ステップして、その攻撃を躱していた。

 彼の残像を食いちぎるように閉じられた口。俺はそこへ、即座に鋼糸を飛ばしていた。


 ワニの口というのは閉じる力はとんでもなく強いが、開く力は限りなく弱いと聞く。

 鼻の上に人が乗ったら開かなくなるほどだ、とも。

 だから俺は、閉じられた瞬間を狙って糸を飛ばし、その鼻先を縛り上げた。

 これでアガレスの最大の攻撃である咬みつきは、使えなくなったはずだ。

 もちろん、実際のワニと魔神のワニが違う可能性は否定できないが。


「おおっと。援護感謝するよ?」

「まるで必要なさそうだけど、一応ね」


 先ほどのサイドステップ。それだけでも、奴の技量はうかがい知れた。

 敵の攻撃を完璧に見切る回避は大したものだ。おそらく俺たち六英雄に匹敵する実力者と見た。


 一方アガレスも、咬みつきの攻撃を防いだといっても、安心はできない。

 その巨体から繰り出す踏み付けや、尻尾の薙ぎ払いなど、重さや大きさはそれだけで武器になる。


 それらの攻撃をあっさりと躱して懐に潜り込み、拳を叩き込むバーさん。

 鋼よりも硬いとすら思わせる鱗を、あっさりとぶち抜いていく。

 アガレスも油断できない強敵のはずなのだが、明らかに役者が違っていた。

 ほどなくバーさんに撲殺されたアガレスが、地に崩れ落ちることとなったのだった。

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