第207話 痛み分け

 右拳は完全に壊れていた。これでは近接戦に糸を使う事は難しい。

 しかし朗報もある。俺の身体の内側、筋肉の繊維に操糸が掛けられた事だ。

 糸一本に付き、俺の筋力分の力。即ち俺の拳は多大な強化を成し遂げている。これがあの白い神の言っていた『最強になれるだけの力』なのだろうか?

 だがそれにしては、やはり俺の身体が脆過ぎる。これでは最強には程遠い。しかしこの苦境を乗り切るだけの力には――なる。


 マテウスが一瞬の驚愕から立て直し、こちらに迫ってきた。

 その斬撃を、俺は紙一重――いや、薄皮一枚も無い距離で躱しきる。


「な、んだと!?」


 驚くのも無理はない。奴にとっては残像を切ったような感触を受けただろう。

 それほど際どい回避をやってのけたのだ。

 俺は操糸の能力を、攻撃ではなく防御に使っていた。

 この力を攻撃に使えば、敵を倒すより先に自分の身体が壊れてしまう。ならば回避に全ての力を注ぎ込み、時間を稼げばいいと考えた。


 手足の筋肉に操糸の力を纏わせ、人形のように操る事で紙一重で躱していく。

 筋肉や腱、神経を、手や指よりも緻密に動かせる糸と見做したからこそ可能な、ぎりぎりの回避。俺は自身の身体を、まるで操り人形のように操作し、精密極まりない動作を可能としていた。

 奴にとっては信じられない神技に見えた事だろう。


 続く嵐のような斬撃の雨をぬるりとした動きで避け続ける。

 端から見れば俺は細切れに斬り裂かれているようにも見えたはずだ。しかし、その斬撃はかすりもしていない。

 十を超える斬撃を放ち、すべてをことごとく躱しきられ、たまらずマテウスは距離を取った。


「なぜ……急に?」

「さぁな。教えてやる義理も無い」


 捨て台詞と共に左腕のピアノ線を一閃。しかしこれはあっさりと回避される。やはり牽制程度の攻撃では通用しない相手だ。呆然としていても、正面からの攻撃に対応する程度の正気は残しているか。

 とりあえず、防御に関しては問題なくなったと言ってもいい。しかしまだ楽観はできない。

 クラウドの出血はいまだ止まらず、俺の右拳も砕けている。回避とて、いつまで可能かはわからない。操糸の力を体内に向けることは、確実に俺の身体の耐久力を削っている。

 対して向こうは、膝を斬り裂かれた男が一人のみ。マテウスに到ってはまだ無傷だ。


 ここで残る二人の男が俺を挟み込むように襲い掛かってきた。

 今まではマテウスの邪魔になるため、近付く事も出来なかった連中だ。マテウスが距離を取ったため、チャンスと見て襲い掛かってきたのだろう。

 だが俺はその二人を壁にしつつ、さらにマテウスから距離を取る。


 一気にクラウドのそばまで飛び退り、ピアノ線を振ってクラウドの腕に巻き付けて止血する。

 糸は斬り裂くような動きをさせていないため、その肩口を強く締め上げ、出血を押さえる。

 同時に襲い掛かってきた一人の膝を踵で踏み砕きにかかった。本来ならば、体重が軽い俺の蹴りで砕けるほど、やわな足ではない。

 しかし今の俺は、筋繊維に操糸をかけているため、そこ蹴りは通常よりも遥かに重い一撃になっている。体重の軽さを、速度で補う踏みつけ。


 ゴキリと嫌な音を立てて、容易く男の膝を踏み砕き、一人をマテウスとの間に転がしておく。


「ひぎいいぃぃぃああああぁぁぁぁぁぁ!!」


 足を折られた男は俺とマテウスの間でのたうち回り、互いの障害となった。

 それを見て、マテウスは一瞬、思案する素振りを見せる。

 残る一人も、反対側から剣を振りかざして襲い掛かってきたが、これは左肘を持ち手に叩き付ける事で剣を弾き飛ばし、武装解除しておいた。


「ぐわああぁぁあああぁぁぁぁ!?」


 肘打ちで持ち手の指が砕かれ、男が悲鳴を上げて自分の腕を押さえる。一流ならばそんな無防備な姿はさらさない。やはり敵の中で注意が必要なのは、マテウスだけのようだ。

 ついでに膝を横から踏みつけ、同じようにへし折って、地面に転がしておく。

 これでマテウスは俺の元に辿り着くまでに、二人を回避しなければならなくなったわけだ。

 そして迂回しようとする動きは、そのまま奴の隙になる。俺はそれを見逃したりしない。

 だがマテウスはこちらに向かうどころか、だらりと腕を下げて、気の抜けた、投げやりな声を上げた。


「ああ、もう……やめたやめた」

「なに?」

「お嬢ちゃんは予想外の手練れだし、同僚は三人無力化されたし、これはもうは退き時でしょ?」

「おい、マテウス! 目撃者を放置するつもりか!?」


 やる気なく腕を垂らしたマテウスに、最後の一人が驚愕の声を上げる。

 見たところ、でっぷりと太ったその男こそ、奴隷商の頭目なのだろう。どう見ても戦いには向いていない。


「いや、だってさぁ。このお嬢ちゃん、倒すのに時間かかりそうだぜぇ?」

「かければいいだろう!」

「そんな余裕ないっしょ? どうせ通報しているだろうし、衛士が駆け付けてくるのも時間の問題よ?」

「……くそっ!」


 男はそれだけ吐き捨てると、馬車に繋がれていた馬を外し、それに乗ってとっとと逃げ出し始めた。

 これは馬車に乗ったままでは逃げきれないという判断だ。森の中を駆けるのに、大型馬車を着けたままでは難しい。

 できるならば後を追って、とどめを刺したいところではあるが、俺の手にはすでに武器はない。

 しかし仲間を見捨てて逃げ出すあたり、実に思い切りがいい。正体がばれても気にしないという事は、ラウムの街に入る気は毛頭ないという所か。


「お嬢ちゃんの名前、聞いてもいいかなぁ。そっちのお嬢ちゃんが散々呼んでいたから知ってるけど?」


 気安く肩を竦めて、そう尋ねてくる。おそらくはこの男なりのケジメなのかもしれない。

 俺としても、クラウドの救出は成ったわけだし、ここで無理をして深追いする理由はない。いや、あるが……さすがにそこまで猪突猛進ではない。


「――ニコル」

「ニコル……ね? 覚えた、覚えた。じゃあ、次の標的はニコルちゃん、君にしよう」

「標的……?」


 そこまで言われ、俺はようやく心当たりにぶち当たった。

 隠密の能力を持つ、一流……いや、超一流と呼んでいい剣士。そんな奴がこの場にいた事が、偶然なわけがない。

 そんな男が起こした事件を、俺は最近耳にしている。


「お前が――タルカシール伯爵を暗殺したのか?」


 おそらくは俺と同じく隠密のギフトを持つ者が成したであろう、暗殺事件。

 その能力を持つ者が、ここにいて関係していないはずがない。案の定、マテウスは大仰に手を広げ、肯定して見せた。


「そぉぉのとおぉぉり! よくぞ見抜いてくれました。さすが俺のライバルだね? 将来嫁になってくれてもいいけど」

「断固として断る」

「またそれかぁ?」


 今度は残念そうに肩を落として見せる。感情表現が豊富……と言うより、これは意図的にそう演じている風にも見える。

  

「誰に雇われて、タルカシールを殺した?」

「言えるわけないじゃん?」

「……だよな」


 奴も暗殺者ならば、雇い主の事を漏らすはずもない。

 しかし、できるならばこいつを引き留めて、逃げる隙を与えたくはなかったが……それは向こうも承知していたようだった。


「それじゃ、そろそろお迎えが来そうだし、俺も逃げるとするかね?」


 ひょいと後ろに飛び退り、もう一頭の馬に跨るマテウス。

 先ほどの男が馬車から外していたせいで、まだ一頭残っていた馬だ。


「俺は、隠刀流ジェンド派のマテウス。また会う時まで覚えていてくれよ?」


 そう言い残し、走り去る。

 俺はそれを追うことはできない。クラウドが残されたままだからだ。

 そして遠くから、馬の嘶きと、金属のこすれる音。どうやらようやく、衛士隊が到着したらしかった。

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