第188話 脱出準備

 暗い闇の中、鼻を突く異臭によって俺は目を覚ました。

 この独特の臭気は、俺も覚えがある……酒だ。


「むぇっ!? エホッ、ケホッ」


 前世ならどうということのない匂いだったが、極端に酒に弱い今の身体では、アルコール臭はそれだけで毒だ。

 俺はすぐさま目を覚まし、跳ねるようにして飛び起きた。


「あ、目を覚ましたみたい」

「ニコルってば、最近気絶癖がついたのかしら……」


 横になっていた俺を心配気に覗き込むレティーナと、酒瓶を抱えたマリア。

 野外の訓練場だったはずなのに、営舎の天井が見える……どうやら気を失っている間に営舎の救護室に運び込まれていたようだ。

 マリアは、どう見ても旅には向いて無さそうな高級そうな酒瓶を、何気なくそれをカバンに仕舞っている。

 それを見て、悲しそうな、なんとも言えない表情を浮かべたのは、騎士の一人。


「ママ、それおしゃけ……?」

「ええ、そうよ。気付けに営舎のとっておきを頂いたの」

「あ、いや。差し上げたわけじゃ……いえ、なんでも……」


 つまり俺の気付けに騎士達から酒をガメて、それを問答無用で分捕ったのか。

 そんな真似をされても六英雄のマリアには、反論できない騎士が可哀想だ。

 後、俺の滑舌がかなり怪しい。どうもにおいだけで酒気にあたったようだ。


「人のモノをとっちゃダメなんらよ?」

「大丈夫よ。これは頂き物だから」

「ううっ、もはや何も言うまい」

「哀れな……」

「どうせ無理を捻じ込んだマクスウェルが、代わりに振る舞い酒でも差し入れてくれるわよ」

「ワシ、そんな事は一言も言っておらんのじゃが?」


 そのまま何気ない仕草で再びカバンから酒瓶とカップを取り出し、旅用のカップに酒を注ぐ。

 それを問答無用でマクスウェルに突き出した。

 あれは……飲めという仕草だ。そして強引に巻き込もうという算段だ。

 無論マクスウェルも、その意図は把握していた。把握した上で……溜め息を吐いて、一気に飲み干す。


「まあ、酒瓶の一ダースくらい、誤差の範疇じゃ。別に構わんじゃろ。ニコルの件で世話になったしの」

「そのしぇつは、たいへんもうしわけにゃく……」


 どうも頭を打った後遺症か、視界がグネグネと揺らいで見える。

 そもそも生前の俺だったら、あんな石ころで頭を打った程度で気絶したりしない。

 問題ないと無視した石ころで深刻なダメージを受けるなど、俺らしくなかった。マリアの言う通り、どうやら気絶という行為に馴染みすぎてしまったかもしれない。


「もちょっと、ねてりゅ」

「そうした方がいいわね。少し酔ってるみたいだから」

「うん」

「でもまさか匂いだけで酔っぱらうなんて、ニコルちゃんはお酒ダメなのねぇ。これは『お持ち帰り』されないように教育しなきゃ」

「その辺の教育はコルティナに任せるわ。私はどうも、平穏な田舎で慣れすぎちゃったみたいで」

「アンタほど腹黒い人間が何を言っているのやら……」


 そう言えば以前、一口で酔い潰れて朝を迎えた事があったな。どうやらこの身体は酒に弱い体質らしい。

 コルティナの言う通り、男に酔い潰されるなんて冗談じゃない。

 俺は男と酒を飲まない事を心に誓いながら、再び目を閉じたのだった。





 夜になって俺はぱっちりと目を覚ました。

 時間で言うと夜の十時くらいだろうか? いつもならば、まだ元気に騒いでいてもおかしくない時間帯だが、他の生徒は昼の疲れからか、すでに全員が部屋で寝こけていた。

 レティーナも例外ではない。そもそも児童に気絶するまで訓練を受けさせるなど、さすが噂に名高い剣王国である。

 そのスパルタ振りも、半端ないと実感できた。


「目を覚ましたのだな?」


 子供達が眠るのに邪魔にならないように明かりを落とした暗い室内で、場違いなほど渋い声が響く。

 この声には聞き覚えがある。


「マクスウェルの使い魔?」

「左様。覚えていたのだな」


 自我を持つ、高位の使い魔。それが部屋の窓辺にちょこんと留まっていた。

 その横で、微妙な緊張感を漂わせるカーバンクルのカッちゃん。

 なぜかその毛並みは揃ってボサボサだ。


「その毛は?」

「……子供達に、ちょっとな」


 珍しく疲れたような声が漏れる鳩。

 子供の部屋に巨大ハムスターだの喋る鳩だのがいれば、そりゃオモチャにされようというモノだ。

 となると、俺が目を覚ました事はマクスウェルから両親やコルティナに伝わるはず。

 いや――


「伝えない可能性もあるか」


 今夜、俺は鍛冶師の元へ訪れ、愛用の手甲を修理してもらわねばならない。

 ハードな訓練で、他の生徒が寝入っている今こそ、千載一遇のチャンスと言える。

 俺がそう判断したと同時に、鳩からマクスウェルの声が聞こえてきた。


「ニコル、起きたかの?」

「マクスウェルか。ああ、いま目を覚ましたところだ」

「そりゃよかった」


 マクスウェルの説明によると、彼も今一人らしい。

 マリアとコルティナは女同士で、毎度の飲み会を自室で行っているようだ。ライエルとガドルスは騎士達と意気投合し、宴会場に雪崩れ込んで酒盛りを始めたらしい。

 マクスウェルはその隙を突いて逃げだしてきたのだろう。


「というわけで、今がチャンスじゃ。目的地はここから近いのじゃろ?」

「ああ、目的地まで三時間もあれば着くはずだ」

「ならば善は急げじゃ。そっちも皆寝入っている様子じゃからな」

「……考えてみれば、お前今、女子部屋を使い魔を使って覗いてる状況だよな?」

「不穏当な表現はよすのじゃ!?」


 日頃から、からかわれているのだから、これくらいの反撃はさせてもらわないとな。

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