第7話 はじめての……
赤ん坊の聴覚と言うのは、大人の想像以上に鋭い物がある。
俺は廊下を歩く足音を聞きつけ、即座にベッドの上に転がって寝た振りをした。
しばらくして部屋のドアが開き、エルフの少女が中を覗き込んでくる。恐らく洗濯物を干し終えたので、俺の様子を見に来たのだろう。
子守としては非常にありがたい限りだが、俺としてはもう少し放置してほしかった。
だがタイミングは悪くないかも知れない。
ほんの三十分ほどの伝い歩きだったが、俺の足はプルプルと震えて痛みを訴えていたのだ。
「フフ。よく寝てますね、ニコル様」
エルフ少女は俺のそばまで歩いて来て、顔を覗き込んで寝顔を確認する。
無論俺は寝た振りなのだが、少女にそれを知る術はない。
そう言えば彼女の名前、なんだったっけ? マリアが世話に雇ったはいいけど、俺に自己紹介してくれていない。
いや、言葉も分からない赤ん坊に自己紹介するのはおかしいかもしれないが……普通はするもんじゃないか?
マリアはああ見えて、抜けている所が多い天然系だから、仕方ないか。
少女は俺の頬をフニフニと優しくつついて、その感触を堪能している。
少々小柄ではあるが、俺のほっぺは天使の手触りらしい。
ムカつく事にライエルが一番その感触の虜になっているのだ。
寝た振りを続けていると、少女はキョロキョロと周囲を見回し、誰もいないことを確認している。
今この屋敷には誰もいない。それを知っているのに、滑稽にもそんな動作を繰り返す。
そして誰もいないと確信してから、俺の頬にやさしく口付けして、パタパタと足音を立てて部屋から駆け出していったのだ。
なぜ逃げるのか不思議に思ったが……考えてみれば雇い主の娘の頬にキスをするというのは、使用人としては失格かも知れない。
俺は男……精神的に男なので、エルフ美少女の親愛の情としてむしろ嬉しい限りなのだが。
その日から俺は何とか自立歩行できるまで訓練を続けていた。
そしてもう一つ、この時期の赤ん坊ならばそろそろできねばならない事がある。
それを今日、両親の前で披露しようと決心していた。
「マリア、今帰ったぞー」
やや間延びする声で、ライエルが屋敷に戻ってくる。
ライエルは雇われ騎士として、この地方を治める領主に雇われている。
この地方は特にひどく邪竜に蹂躙されたため、モンスターの繁殖が激しいため、彼の腕が必要になっているのだ。
その代償として、一定の給金と屋敷を授かり、俺を育てているのだ。
厨房で食事を作っていたマリアがいそいそと出迎えに向かう。
俺はその様子をリビングから眺めていた。
すると、俺をエルフ少女が抱え上げて玄関へ向かった。彼女はマリアの料理の補佐をしていたはずなのに。
「だうぅ?」
「ライエル様の出迎えに向かいましょ。ニコル様」
ニッコリと花が咲いたように笑いかけてくる少女。
俺はその笑顔に思わず言葉を失った。いや、喋れなかったが。
「おお、ニコルもお出迎えに出てきてくれたのか。フィニアもご苦労様」
「いいえ! わたしなんて、まだまだにお仕事こなせてませんし! マリア様のお手を煩わせてばかりで」
「そんな事は無いわよ。フィニアがいてくれて、とても助かってるわ」
なるほど、この少女の名前はフィニアというのか。
なんだかほのぼのした空気が漂っているが、このままでは俺の一大決心が流れてしまう。
その前に強行して、場の空気を引き戻すしかない。
俺は、そう決断して、顔に力を入れた。
「まぁ――ま?」
「えっ!?」
そして喉から声を絞り出して、マリアの事をママと呼ぶ。
そんな俺の声に、マリアは驚愕の表情を浮かべる。
彼女がそんな驚きを浮かべるのは、実に珍しい事かも知れない。
「ニコル。今……私の事、ママって呼んだ?」
「まぁま」
「ああ、ライエル! この子が、ニコルが!」
「ニコル、俺は? ほらパパだよ? パパって――」
「ライエル様、近い、近すぎますって!」
フィニアと呼ばれたエルフ少女の胸元、つまり俺のそばに顔を寄せて暑苦しくライエルが迫る。
この野郎もすでに三十路を超えている。暑苦しい事この上ない。
それに勘違いしてもらってはいけない。俺はお前が嫌いだ。だから――
「ふぃーにぃあ?」
「ああっ、聞きましたかマリア様! 今ニコル様が、私の名前を!?」
「ええ、しっかり聞いたわ! この子ったら、フィニアの名前を先に呼ぶなんて」
そう言えばマリアの名前はまだ読んでいなかったか。これは失敗したかも知れない。
このミスは即座に取り返そう。
「まぁり、あー、まぁま?」
「そう! ニコルってば私の名前も覚えていたのね。なんて頭がいいの!」
感極まったようにマリアが喜ぶ。
正直、彼女はいつもふわりと微笑んでいてばかりで、ここまで感情を表に出す事はあまりなかった。
やはり実の子の成長と言うのは、違うモノなのだろう。中身は俺なのだが……
「ほら、ニコル。パパの名前は? ライエルって言ってごらん」
「だぁう!」
暑苦しく顔を寄せてくるライエルの顔に、俺はモミジのような小さな手で張り手を叩き込んでおいた。
もちろん、攻撃と呼ぶのもおこがましい、ぺチリとした音しか残さぬ打撃なのだが。
「ううぅ、マリア……ニコルが名前を呼んでくれないんだ」
「あなたの名前は発音が多いから、いきなりは無理よ」
そう告げるマリアの顔には、非常に珍しい事だが、優越感が浮かんでいた。
そのマリアの言葉に、ライエルはがっくりと膝をついてうなだれる。
「あっ、あっ、あの、ライエル様もいつかは呼んでもらえますよ! ホントに、ホントに!」
「ああ、慰めてくれるのか。フィニアはいい子だな」
「あら、私の前で浮気かしら?」
「冗談でもやめてくれ! フィニアは確かにいい子だが、そう言う対象にはとても見れん」
「フフ、もちろん分かってますよ」
ライエルの背中を叩きながら、マリアが励ます。
そして食堂へと誘いながら、その日の夕食を取ったのである。
ちなみにその夕食は、少し……いや、かなり豪勢になった事を追記しておこう。
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