第37話野蛮なる戦士カインと東京8

仕立ての良いポールスミスのスーツを着こなし、ノートPCを使いこなすその姿は、若きエリートビジネスマンにも見えるが。


一息ついた広瀬が、ブランデーを垂らしたコーヒーを啜る。


ビールクーラーから取り出したバドワイザーの缶を広瀬に差し出し、カインは「調子はどうだ?」と訊ねた。


「まあまあってとこだね」


ビールを受け取りながら広瀬が答えた。


「つまり、上々ということだな」


カインの言葉に広瀬が、屈託のない笑みを浮かべる。まるで純粋な、少年のような笑顔だ。


広瀬は、金融とIT関連の分野で利益を上げている。


「ウイルス感染させたPCやスマホで撮影した動画が、

ダークウェブ辺りでうろついてる、空き巣狙いや変態ストーカーどもに高く売れたからね。

他にも運営してる出会い系サイトで、馬鹿なジジイ共がホイホイ食いついてきたよ。

しかし、年寄りって本当に金あるよな。出会い系の有料ポイントに百万も注ぎ込めるんだもんな」


「雀百まで、踊り忘れずか」


「そういう事だろうね。誰だって年取れば枯れるなんて、あんなもん嘘だね。

人間なんて死ぬまで、欲望に取り憑かれてる生き物だよ」


それは、詐欺用のペニーオークションや出会い系サイト、オンラインカジノ、通販サイトで稼ぐ、広瀬ならではの感想だった。


「確かにその通りかもしれんな。

他にもギャンブルやオークションを見ていると、人間は自らの負けを取り戻そうと躍起になるな。

この前読んだ、現状維持バイアスとプロスペクト理論に当てはまるものがある」


カインがワイルドターキーのボトルをラッパ飲みしながら、言った。


「ダニエル・カーネマンの行動経済学だね。

何でもそうだけど、それ以上被害が及ぶ前に損切りすればいいのに、多くの人間はそれができない。

そういう連中が損切りしたがらないのは、損をするのが怖いからさ。

人間は利益よりも損を恐れる。

一万円を得る喜びと、一万円を失う悲しみは、決して同じじゃない。そこが人間の不合理さだ」


「だからこそ、人間は手放すよりも保持する事を選ぶというわけだな」


ゆっくりと頷いてみせる広瀬──どこか嬉しそうだ。


「そうさ、カーネマンも言ってるよ。『損失は利得の二倍の重みがある』ってね」


ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは、心理学者だった。


心理学者だったカーネマンは、それまでの経済学分野に心理学を持ち込んだのである。


「詐欺でカモられた連中が、何度も引っかかるのもプロスペクト理論で、説明ができそうだな。

それまでにむしり取られた金を取り戻そうと、一発逆転を狙って、明らかに怪しい儲け話に乗ろうとするのもな。

損を取り戻そうとする執着心のせいで、周りが見えなくなる。

で、金を取り戻そうと、更に金を注ぎ込んで、またカモられるわけだ」


空になったワイルドターキーの瓶をカウンターの上に置き、次はジャック・ダニエルのボトルに手を伸ばすカイン、

このバーバリアンの若者は、根っからの酒飲みだ。


「うん、人間って自分が思ってるよりも合理的じゃないんだよね。

カモられる奴ってさ、本当に何度も詐欺に引っかかるよ。

所でカイさん、腕っぷしが恐ろしく強いのは聞いてたけどさ、どうやら頭も回るようだね。

細川みたいなチンピラとツルむよりもさ、俺とレツ組まないかい。

カイさんと組めば、良い仕事ができそうなんだけどね」


広瀬はカインをさん付けで呼ぶ。


それはカインが、周りのヤクザや半グレから一目置かれる存在であり、食客身分として扱われているからだ。


単車吹き飛ばし事件で、カインは大きく名を売ったのである。


もっとも、細川は気安げにカインを呼び捨てか、兄弟と呼んでいる。


カインもそっちの方を好んだ。気楽だからだ。


「呼び捨てで構わんぞ。俺も呼び捨てで呼ぶしな。

それで仕事についてだが、面白そうなら手伝うぞ。俺は今、社会勉強に興味があってな。

世の中と人間行動の仕組みについて学んでいる所だ」


ラッキーストライクを咥え、広瀬がロンソンのスターリングシルバーライターで火をつける。


「それだったら、尚更、俺と組むべきだよ、カイ」


その時、クラブのドアが大きく開かれ、笑みを浮かべたタツヤが飛び込んできた。


「カイさんっ、女見つけてきたっすよっ、マジで上玉っすっ」




恵梨香は気だるげだった。


ネイビーのウエストレースワンピースの裾が乱れている。


タツヤが連れてきた少女だ。


「どうっすか、カイさん。こいつ、ファッション雑誌のモデルに何度も出てるんすよ」


ジャック・ダニエルをラッパ飲みしながら、カインが恵梨香を見下ろす。


「商売女か。景気はどうだ?」


恵梨香は答えない。


「カイさん、こいつちょっと無口なんすよ」


恵梨香の代わりに答えるタツヤ。


「それで、ドラッグ分けてくれるってマジ?」


カインの質問に無反応だった恵梨香が、タツヤに尋ねる。


「マジ、マジ、好きなもんやるよ。その代わりにカイさんの相手頼むわ」


「いいわ、じゃあ、近くのホテルかレンタルルーム行こう」


だが、カインは恵梨香の申し出を断った。


「悪いが、俺は今から向かう所があるのでな。

それに俺は腐りかけの肉は食うが、腐り切った肉を食うほど悪食ではない」


そのカインの言い草に恵梨香が、憤然とした表情を浮かべた。


腐りきった肉呼ばわりされれば、恵梨香に限らず誰だって怒るだろう。


だが、恵梨香の怒りなどどうでも良いとばかりにカインはクラブを出て行った。


そんなカインの後ろ姿を見送りながら、広瀬がクスクスと忍び笑いを漏らす。


いかにも愉快だと言いたげに。

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