第12話蛮人カインと淫虐の総督3

ミラを背負ったままカインは走った。狂気とも言える疾走を見せながら、蛮人が崖の斜面をかけ下り、森林を突き抜けていく。

どんどん遠ざかっていく城館を振り向きざまに眺めるミラ──本当に自分はあの憎いタルスの魔の手から逃れられたのだろうか。

鉛色に覆われていく空を見上げ、この大公女は自分が夢うつつの中にあるのではないかと感じた。


本当の己はまだ地下室に幽閉されていて、これは自らの願望が見せた幻ではないのかと。

「もう少しだけ我慢しろ、ミラよ。すぐに休める場所を見つける」

樹間を縫い、岩の突き出た小川に出るとようやくカインが足を止める。


「追っ手の姿も見えないな。ひとまずここで休息を取るか」

ミラを背中からそっと下ろしてやるとカインはその場に座り込み、革袋から取り出した獣の干し肉と葡萄酒の詰まった水筒を娘に勧めた。

「食え。食わねば身体が持たんぞ」


ミラは未開人の若者から勧められるがままに干し肉を噛み、葡萄酒を啜って乾いた喉を潤した。

そして一息つくとカインに深々と頭を下げ、美しき大公女は再び礼を述べた。

「本当にどうお礼を申し上げれば良いのかわかりません。貴方には感謝してもし尽くせない恩を受けました。

あのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


「俺はカイン、今はワラギアに与している」

足についた泥を払い、剣にこびりついた血と脂を鹿革で拭い取りながらカインはつまらなそうに答えた。

「では貴方はワラギアの人間なのですか?」


「いや、俺はムスペルヘイムの蛮土の男だ」

途端にミラに怯えの色が走る。カインはそんなミラを一瞥すると、拭き終えた剣を鞘に収めた。

「ミラよ、俺が恐ろしいか?」


「……」

未開の荒野ムスペルヘイム──文明から取り残された野蛮なる魔の支配する土地。

地獄の魔物と血に飢えた蛮人が彷徨う呪われた場所。


大公の娘として文明に浴し、教養や礼儀作法を学びながら乳母や使用人からお蚕ぐるみで育てられたミラにとって、

恩人であるはずの目の前の男は異様な存在として映った。

「隠さずとも構わん。文明人のお前からすれば、俺のような未開人の男は人間ではなく、獣のように映るだろう」


そう言うとカインが乾いた血糊がついた右頬を手の甲で拭う。

そこにはあるはずの傷がなかった。いや、光線でつけられた傷口はとっくに塞がっていたのだ。

ミラは思った。やはりこの男は人間ではなく、怪物の類ではないのかと。


「俺は荒野のバーバリアンだ。あの程度の傷であれば、酒を飲んでいる間に治る。所でミラよ」

そう言いながらカインがミラの背後へと回る。カインの行動に思わずミラはビクリと身体を震わせた。

だが、温もりを持った大きな掌が優しく肩に置かれたとき、ミラは不思議な安堵感を覚えた。


「酷い鞭の痕だな。放っておけば熱が出るぞ。これを飲んでおけ」

カインは印籠から取り出した丸薬状のアスピリンをミラに飲ませる。

これはセイヨウシロヤナギの葉を原料にカインが錬金釜で合成したものだ。


アスピリンには解熱と鎮痛の作用がある。

「これで少しはマシになるだろう。あとはこの傷を直接癒すとしよう」

カインが裂けた皮膚痕に唇を這わせ、ミラの傷を舌で舐め上げる。


これにはミラも驚いた。この男は人間ではなく、やはり獣の化身なのかと。

だが、カインは頓着せずに血が滲むミラの肌を労わるように舐めていった。

その舌触りがミラにはとても心地よく感じられた。


「野の獣も蛮地の住人も傷ついた仲間の傷をこうして舐めて癒すものだ」

蛮人が背筋から徐々に舌先を降ろし、ミラの腰や尻についた傷口も優しく舐めていく。

カインの唾液が傷口に沁みるが、ミラは決して嫌がる素振りを見せず、この野生児なりの労りに感じ入った。


そして、ミラは知らず知らずにまどろんでいき、ただ、温かな舌先に身を委ねていった。

カインが無言のまま舌腹をミラの肌に滑らせていく。切なげに震えるミラの長い睫毛。

闇に覆われた空には、いつしか銀貨の如く煌く満月が顔を覗かせ、冷たい光を放ちながら黙ってふたりを見下ろしていた。




二日目の夜になってミラを引き連れたカインは、味方の陣地へと舞い戻った。

そしてエンリケにミラを引き渡すと、カインは他の兵士と混ざって一時の休息を取ることにした。

一度、戦場に赴けば、いつ休めるかはわからないからだ。


タルスから大公の遺児を救い出してきたカインは、兵士達の間ではすこぶる評判になった。

傭兵も正規兵も混ざって篝火を囲い、エールを飲み交わしながら口々にその噂をした。

とんでもない手練がいた者だ、一体何者か、俺は知っているぞ、奴こそがあのムスペルヘイムの戦士カインだと。


その噂の当人は何をしているのかというと、燃えさかる炎を前に剣を取り、軽やかに舞っていた。

それはムスペルヘイムに住まうナホバ族から代々伝わる剣舞だ。

ナホバ族の戦士達は戦に出る前にこの剣舞を精霊に捧げるのだ。


音もなくカインが闇の中で舞う上がると、それに合わせるように火花が飛び散り、焚き火が爆ぜた。

揺らめく炎が男達の顔を照らしつける。幻想的とさえ言えた。

文明から隔絶された荒野で生きてきたカインという野生児は、まるで太古の神話から現れた存在のように男達には感じられるのだ。


不思議な高揚感が兵士達の身の内から沸き上がってくる。

そうだ、このバーバリアンは文明社会の男達が捨て去った、野生の血を呼び起こす何かを秘めている。

夜空に向かって吠えるカイン──その雄叫びに呼応するかの如く、山々からは獣の遠吠えが轟いた。




戦はいつの世も人心を荒廃させる。否、正確には戦はいつの世もそのツケを払わされる者達の人心を荒廃させるだ。

そしてカノダの領内に住む村人達ほどその皺寄せを食っている。

街や都市であれば堅固な壁がその身を守ってくれるのだが、大抵の村にはそのような防衛設備はない。


せいぜいが木の杭を打ち付けて囲った防護柵くらいのものだ。

そんな無防備とも言える村はゴロツキ同然の傭兵連中からすれば、格好の標的だった。

この戦のどさくさに紛れれば、いくらでも略奪できるからだ。


あるいはそれ目当てに傭兵になった者達もいる。

また、正規兵は徴発の名の元に金品食料を強制的に取り立てることが許されていた。

こちらは国のお墨付きだ。


カインはたまたま訪れた村の人々を見ていた。どれも深い陰りを帯びている。

そんな村人がカインは不思議でたまらなかった。

何故武器を取って盗賊達と戦わないのだと。だが、それは仕方のないことだ。


戦えるような男手は戦で取られている。なので村に残ってるのは老人に女子供ばかりだった。

カインの育った荒野であれば、老人だろうが女子供だろうが生き残るためならば戦うが、

しかしここは文明社会が支配する土地なのだ。


ムスペルヘイムの掟はこの文明の地では通用しないのだ。

そして打ちのめされ続けた文明人は無気力に陥りやすい。

こうして圧政と戦によって無力感に溺れた村人達は、ただ、相手のされるがままになってしまったのだ。

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