8章 渡良瀬先輩と折れない翼(2)

HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL

CHAPTER5.3 TITLE:

『折れない翼』


〇視点:下邨翼


 あのどうしようもなくいい香りのするタオルが、好きだった。


 新聞部に入ってから2週間くらいした頃。水泳部のヌルい練習を終えて、だらだらと着替えて新聞部室のドアを開けると、真ん前に渡良瀬先輩がいた。

 先輩はいつものように、「おはよう」と、歯磨き粉のCMみたいな、爽やかすぎる笑顔で出迎えてくれた。俺も、おはざっす、と軽く頭を下げる。新聞部では、何故か業界人みたいに朝でなくてもおはようと挨拶するのが決まりになっていた。

 いつもの挨拶を交わして、またいつものように一歩、俺が部室の中へ足を踏み入れようとした瞬間。


「ストップ」


 先輩が、きっぱりと手のひらを前に突き出して俺を止めた。

 そして、たたたっと部室の奥に行くと、自分のカバンの中から真っ白いタオルを1枚取り出した。それを両手でくしゃくしゃっと丸めて、野球選手みたいな大袈裟なフォームで、助走をつけためちゃくちゃな投球で、俺の顔面めがけてブン投げた。

 色々と展開が早すぎて、何が起こっているのかも分からないまま、俺は甘んじて自分の顔面でタオルを受け止めた。

 外国製っぽい、甘い香りが世界を包む。

 顔からずるりと下に下がり、そのままふわりと床に落ちそうになったタオルを、すんでのところで受け止める。改めて渡良瀬先輩の方を向くと、先輩は「やれやれ」とでも言いたげな顔で肩をすくめてこちらを見ていた。


「紙扱ってる部活なんだから、髪濡れたままズカズカ入ってこないでよね」

「はあ……今のダジャレっすか?」

「ん~? 今度は顔でスマホ受け止めてみたいって~?」

「……ナマ言ってすんませんした」


 受け取ったタオルで、わしわしと自分の頭を拭く。

 こんな風に、水泳の練習の後、誰かから借りたタオルで水を拭き取ったのはいつぶりだろう。朦朧としてしまうような甘い香りの中で、ふと、そんなことを考えた。

 ……よく知らないけど、ダウニーってやつかな。頭を拭いて水分を含む度に、白いタオルは鼻腔に香りを届ける。



 あのどうしようもなくいい香りのするタオルが、好きだった。


「じゃ、ちゃんと洗って返してね」


「君のプールの塩素のせいかな、なんかこれ、色抜けてきてる気がするんだけど」


「このタオル元々私のなのに、最近君専用みたいになってるし」


 そのどうしようもなくいい香りのするタオルに、頭を預けていると。


「あっはは。なんか犬みたいだね」


 どうしようもなくいい笑顔の先輩が微笑んできて。


「…………」


 俺は、生まれて初めて、本当にどうしようも、どうしようもなく――。



「やめろ!!」


 彼女の声がした。

 飛びかけていた意識が引き戻される……と同時に、ガンガンと痛み出す頭、ヒリヒリと痛む全身。

 さっき、どこからか頭を殴られて……そうだ、それで倒れたところを、何度も踏んだり蹴ったりされて……。


 ……えっ?

 なんで……あの人の声がするんだよ。


「あなたの目的は私のハズでしょ。下邨くんは関係ない!」

「……やっと来てくれたぁ」


 暴力から解放され、俺は頭だけを起こして周囲を見る。

 どこにも渡良瀬先輩の姿はない。そうだ、そのままこの場に姿を見せないでくれ……という願いを拒むかのように、ざっ、ざっ、と、砂を踏みしめる足音が、後ろから近付いてくる。

 外国製の甘い香り。頭の上に、タオルが落とされたのが分かった。

 長いスカートが、砂混じりの風に翻る。学生カバンが歩幅に合わせて揺れる。

 堂々とした足取りで、倒れた俺を通り過ぎていくその後ろ姿は……紛れもなく渡良瀬先輩その人だった。頼れる、面倒見のいい、みんなの副部長だった。


「久しぶり! 元気してた?」


 弾むような声色の片桐。

 この人間もどきの気持ちは、永遠に理解できないだろう。


「あなたがいないお陰で、元気だったわ」

「あはは! いいねぇ。そうだよね、私が可愛がってあげてた時は、そんな生意気な目してなかったもん。ちゃんと立ち直れたんだねぇ」

「立ち直ってなんてないわよ」


 背筋が凍った。

 渡良瀬先輩から発せられたのは、今まで一度も聞いた事のない声で……煮えたぎるような熱を持ち、全部の命が死んでしまうぐらいに冷たく、そして、脆かった。

 渡良瀬先輩は、震えていた。


「殴られて、蹴られて、存在を否定されて、煙草の火を押し当てられて、便器を舐めさせられて! 弱みを握られて! 長い長い1日でストレスで胃をめちゃくちゃにされて完全にぐちゃぐちゃにされた自尊心が、たった1年で治るわけねぇだろうが!!

 本気でお前ら全員殺してやるって思いながらこの1年生きてきたんだ! 下邨くんが公園で絡まれてるって聞いて、ここに来るまでにナイフだって買ってきた……!」

「ナイフ!?」

「苦労したよ。わざわざ文化祭で使うって言い訳して、他に意味もなくカセットボンベとか食器とか買ってカモフラージュして。それもこれも全部、お前らのためにな」


 震える手で、鞄から新聞紙に包まれたナイフを取り出す渡良瀬先輩。新聞紙を取ると、僅かに、銀色の刃が陽光に煌めく。

 異常者の片桐も、さすがに動揺したのか、一歩後ずさった。


「……言っとくけど、本気だよ?」

「…………!」

「ダメだ、先輩!」


 そんな奴らのために人生を棒に振って欲しくない。

 片桐の気持ちを永遠に理解できないように、渡良瀬先輩が受けた苦しみは、今の俺には想像もつかない。

 だけど……その苦しみを、その苦しみのために、これから先の未来まで閉ざしてしまうのは、それだけは、絶対にあってはならない。

 傾いた陽が、震える渡良瀬先輩の後ろ姿を真っ黒に燃やす。その奥で、片桐は顎に汗を垂らしながら、歪んだ笑いを見せていた。


「あはは……。どうせ、できないくせに。親とか先輩とか後輩とかに守られてるだけのお姫様にぃ……できっこないでしょぉ……」

「できっこないと思うなら、今すぐ私を捕まえてみたら?」


 声は震えたまま。足は震え、肩で息をして、明らかに怯えているまま。

 だけど、顔が見えないのに、ここからでも分かる。片桐の瞳に映る渡良瀬先輩の瞳は、どこまでも『本気』だ。


「目を合わせて話そうよ。ねぇ。せっかく1年ぶりに会えたんでしょ。ねぇ。ねぇ。ねぇ。ねぇ。ねぇ…………」

「来んなッ!! 近寄んな!」


 鞄から少しだけ刃を覗かせた状態で、ジリジリと片桐に近づいていく渡良瀬先輩。片桐は辛うじて数歩後ずさるに留まっているが、取り巻きはみんな、公園の出口の方まで逃げている。


「お前みたいに、自分のために他人の色んな部分を壊そうとする人間。それをして毛ほども罪悪感を感じない悪魔。そんな奴、この町に、この日本に、この世界にいちゃいけないんだ。お前みたいなのがいるから……!」

「う、うああああああッ!!」


 渡良瀬先輩が間近に迫った恐怖から、片桐はとうとう、その場に尻餅をつくように後ろ向きに倒れ、へたりこんでしまった。


「……私はお前なんかが好きにできるほど弱い人間じゃない。次、また私の周りの人に触れてみろ……この安い切れ味の悪いナイフで何十回何百回切りつけて、はらわた抉り出して、顔の皮剥いで殺してやる!!」

「あ、あ、あ……」

「分かったら二度と私の前にそのドブみたいな面見せんな。……この町から出ていけェェェッ!!」

「ひっ……うわぁぁぁっ!!」


 公園の木々を切り裂くような絶叫と共に、新聞紙が飛んでいき、ナイフの刃が全て顕になる。

 凶器を目の前に突きつけられた片桐は、顔面を真っ青に染めて、のたうち回るようにじたばたしてようやく立ち上がり、取り巻きの待つ公園出口の方へ駆けて行った。


 辺りに静寂が満ちる。逃げ去る片桐らを呆然と見つめていた渡良瀬先輩が、思い出したようにナイフを鞄にしまう。

 そして、ぺたん、と、その場に座り込んだ。

 俺は慌てて立ち上がり、渡良瀬先輩の方へ走る。


「せ、先輩!」

「来ないで……」


 消え入りそうなその声が聞こえて、俺は足を止めてしまった。

 こちらに顔を見せまいと俯き、両手で顔を隠して肩を震わせる渡良瀬先輩からは、さっきまでの鬼気迫る怒りなどはまるで感じられなかった。


「……幻滅したでしょ」

「いや……」

「気休め言わなくていいよ。……サイテーだ、犯罪者だよ、私。ナイフ見せて人脅すなんて……そんなとこ、君に見られて……。死んじゃいたいよ……」


 一生に一度あるかないかだろう。

 人と人の間に、ナイフが交わり、命がけで言葉のやり取りを交わす場面。そんなところに居合わせるなんてことは。一般的な、ごく平凡な人間なら……。

 渡良瀬先輩は、泣いている。

 こんなにも弱い部分を見せて、人としての芯を折り曲げられて、それを取り戻そうと必死に戦って……泣いている。


 一生に一度あるかないかだろう。

 俺は、どうする?


 一生に一度のこの場面に、俺は……。


「俺は尊敬します!!」


 叫んだ。

 渡良瀬先輩が、ビックリしたのか、顔は隠したまま肩の震えを止める。

 止めた足を、再び動かし始める。渡良瀬先輩のそばに行くんだ。


「俺は水泳部の二・三年の連中に……自分を曲げられても、全く反抗できなかった! それで、居場所も奪われそうになって……それでも、現状維持だけで、なんもできなくてっ!」

「…………」

「だから! 何もかも失う覚悟で行動を起こした渡良瀬先輩の強さを、尊敬します! だから! サイテーなんかじゃないッス! 死にたいなんて言わないでください!」


 馬鹿で、国語の成績ゼロ点の、ぜんぜん文章として組みあがっていない感情を吐き出した。自分の駄目な部分を曝け出したその言葉は、自分を刺し貫くかと思ったが、意外にも、心を軽くしてくれた。

 座り込む渡良瀬先輩に、目の高さを合わせる。

 俺の言葉を聞き入れてくれたのか、固く閉ざされ、顔を隠していた両の手が、徐々に解けていく。

 やがて、渡良瀬先輩が俺に見せてくれたのは、透明の涙に染まって弱弱しく光る、縋るような泣き顔だった。

 目から頬へ、頬から顎へと伝い、渡良瀬先輩の顔を縛り付けていた透明の糸が、少しずつ少しずつ、手探りの笑みが浮かび上がってくるほどにほどけていく。


「あはは……タオル、君に貸さなきゃよかった……」

「……砂ついてますけど、いります?」

「馬鹿。殺すよ」


 ……ナイフ持ってる状態だと洒落になってねぇ。

 眉を八の字にした笑顔で物騒なことを言う渡良瀬先輩を見て、俺は、何か彼女のためになることができただろうかなどと考える。


「……帰ろうか。学校」

「……そっすね」


 いや。それは、自惚れすぎだろう。

 実際に俺が先輩に対してしてあげられることなんて何もない。俺は、先輩に色々なことをしてもらったけれど、出来ることならその恩返しをしていきたいけれど。俺には、そんなことをする資格もないし、度量も、力もない。


「行こう。みんな待ってるよ」


 日は、傾き始めていた。

 文化祭2日目が、終わろうとしている。


END

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