6章 源さんと着ぐるみ殺人事件(4)

HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL

CHAPTER3.8 TITLE:

『本日は雲ひとつない晴天なのに』


〇視点:冬山清志

〇同行者:前田小鳥・下邨翼

〇文化祭1日目・15時55分


「花火、楽しみだね」


 小鳥がそんなことを言って、無邪気に鼻歌を歌う。

 明日と明後日の天候が危うくなってきたので、文化祭運営の方々は、花火を今日のうちにやってしまうことにしたらしい。とても合理的な判断と言える。


 冬山清志にとって、パフォーマンスコンテストは地獄だった。


 冬山清志には人にあるべき感動がなく、感傷がなく、感激がない。どのタイミングで芽生えた自覚かは分からないけれど、俺はそれを知っていた。

 芸人の勢い任せの一発ギャグで笑うことはあるし、小鳥のことは大切に思っているし、あの雨の日に流した涙も、決して嘘じゃない。

 だから、小鳥と過ごしながら、「あぁ、俺もちゃんと人並みにのだなぁ」などと安心していた。


 けれど、感動とか感傷とか感激って、そういうものだろうか?


 何か、自分にとって特別なことがあった時にしか動かされない心。感じない心。

 そんなもの、人工知能と何が違うっていうんだろう。

 ある特定のコマンドを入力された時にだけ動作を行い、それ以外には「すいません、よく分かりません」とテンプレートな返答を寄越すAIと、何が違うんだろう。

 そんな心は心と呼べるのか?

 そんな人間は人間と呼べるのか?


 小学校の時、小規模だがプロの大道芸集団が市民体育館で子供向けの無料上演を行ってくれて、それをクラス全員で観に行ったことがあった。

 和服姿の男性の手に握られた長い箸の先っぽに乗せられ、くるくると廻る皿。箸は今度は男性の顎に乗って、なおもその先の皿はくるくる廻る。

 児童から何か小物を募り、それをジャグリングする赤と白の囚人服みたいなのを着た若い女性。上履き、リコーダー、黄色帽、空っぽのランドセル、体操着袋。統一感があるのかないのか、そんなアイテムの数々が宙を舞い、全て漏れなく女性の手に収まってまた宙へ舞う。

 スーパーマリオとか運動会でよく聞く古典音楽とか、当時流行っていたおバカタレントの曲とか、子供ウケのいい音楽をアコーディオンで次々奏でる太ったおじさん。その隣で子供たちにリクエストをもらいながら、ハサミを操り器用に絵を切り抜く優しそうな白髪のお爺さん。


 みんなが歓声を上げ、すげーと叫び、興奮のあまり立ち上がりかけて付き添いの先生に宥められる中、俺はただ三角座りで、真顔で、黙って大道芸の数々を見ていた。

 別に、騒ぐ他のやつらを横目に、努めてクールに無表情を保っていたとか、そんなマセた理由ではなく。

 すごいことはし、俺には真似できないなとけど、感動が、感傷が、感激が、一切湧き上がってこなかった。

 俺の心が、そこにあるべき感覚に、ちっとも追いついていなかったのだ。


「どうしたの? お腹痛い?」

「……いや。それは大丈夫」


 東大正パフォーマンスコンテスト・特設ステージ。教師陣とOB、生徒会や各委員会、地元の土木の人達による惜しみない協力によってできたかなり豪華なライブステージの前に、おびただしい数のパイプ椅子が並べられている。

 秋の到来を待たずして冬に突入したようなこの11月の暗い夕方、寒空の下で、パフォコンの開幕が近付くのに合わせて、ぽつぽつ着席する人が増えてきている。

 俺の体調を心配してくれているらしい小鳥に曖昧に微笑みかけたが、心配そうな小鳥は、なおも眉を落としたままだった。


 中学くらいからかな。いつからか俺は、感動できないのを、感傷への浸り方が分からないのを、感激したことがないのを、隠しながら生きてきた。

 適当に「おぉー」とか言い、適当に心を痛めたフリをし、適当に周りの友達に合わせて飛び跳ね、感情豊かで人間味のある楽しいヤツのフリをしてきた。


 だが。いや、だからこそ。

 小鳥の前でその演技ができるかどうか、今の俺には、全く自信がなかった。

 小鳥に、ロボットのような無味乾燥な俺の人間性を晒してしまわないか、俺は不安で不安で堪らなかった。


 突如目の前にビニール袋が出現。

 かさっと揺れて、お調子者が顔を出す。


「食いもん買ってきたー」

「下邨くん。ありがとう、ポップコーンある?」

「塩味だけな。キヨもなんかいるか?」

「……俺はいい。かき氷でハラ壊したし」

「やっぱお腹痛いんじゃん!」


 極めて嘘に近い、本当のことを言った。

 俺はかき氷を食ったしハラも壊したが、別に、ステージイベントを観ながら何もつまみたくないというわけではなかった。

 勝手にブルーになって、勝手にいじけたようなこと言って。気持ちが悪い。吐きそうだ。かき氷のゲロってどんな感じなんだろうか。ただの色付きの水だったりするのかな。

 それはまるで、薄めたシロップがそのまま口から出てくるような……。唾液が黄色だったり薄ピンク色だったりする人間のような……。


「う……ちょっと、トイレ行ってくるわ」


 想像してたら、マジで気持ち悪くなってきて、俺は少し乱暴に、椅子を後ろ足で蹴っとばすような格好で立ち上がる。


「始まるまでには戻って来いよー」

「…………」


 返事をしなかったのは、吐き気がすごくて、余裕がなさすぎたからである。

 極めて本当に近い、嘘を言った。



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CHAPTER3.9 TITLE:

『本日は雲ひとつない晴天だから』


〇視点:曽布川喜彰

〇同行者:なし

〇文化祭1日目・16時00分


「……まぁ、仕方ない。これが最善だ」


 天気アプリを閉じて空を見上げれば、雲一つない快晴……が、暮れかけていた。


 これ以上なく綺麗な夕空。綺麗だからこそ、俺はこういうものが嫌いだ。

 綺麗であるべきだから、綺麗である。

 綺麗なままであってくれと望まれているから、綺麗なままで保たれている。

 綺麗でないなら、『夕空ゆうぞら』などという綺麗な響きが似合わないから。


 ……などとポエムのようなことを言ってみたが、たぶん俺はただ単に、陽キャラ連中が夕陽を背景に青春している図が気にくわないだけなのだろうと思う。


 明日は曇り、明後日は雨だ。晴れた夕空が嫌いだからといって、曇りや雨を好むような、誰にでも予想できる簡単な捻くれ方はしていない。それでも晴れよりは居心地がいいのは確かだ、差した傘で自信のない顔が隠れるから。

 プールの下、昼頃の水泳部のシンクロ中ならびしゃびしゃと容赦なく水しぶきがかかってきたであろう位置から、俺はステージの方を遠目に眺める。裏でOBや教職員やらが、冷や汗たらして配線を組み直している。機材トラブルらしい。盗聴器とかアプリ開発とか、この1年でいろいろ覚えたが、たぶん行っても力になれそうもない(なりたくもない)ので、駆け付けたりはしない。


 風が冷たくなってきた。腕にかけていた古いコートを羽織る。

 エイプリル女はけっこう薄着だった気がするが、風邪を引いていればよいのだが。体調に異常をきたせば、いくらあのライトノベルのような嘘吐き女だろうと、ポロっと本音を出してしまったりしそうだ。

 ……本当は普通に心配しているのに、くだらなく回りくどく陰湿な、言い訳じみた思考になってしまう。あいつの嘘にあてられたか、この1年で染みついた陰キャ根性なのか。


 さて、果たして俺はこの賭けに勝てるのだろうか。

 あとは、今日の『勝負』の結果次第だ。



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CHAPTER3.10 TITLE:

『本日は雲ひとつない晴天であるべきだ』


〇視点:弓原大河

〇同行者:なし

〇文化祭1日目・16時00分


「そういうことかよ!」


 薄暗い倉庫の中。

 俺は目的の物を確認すると、反射的にそう叫び、近くに置いてあった人を馬鹿にしたような顔のイルカのぬいぐるみを蹴っ飛ばした。

 罪のないイルカが、無駄に弾力を発揮してぴょんぴょん跳ねて転がる。

 しばらくは苛立ちが収まらず、被ったままだったヘルメットを外して投げ捨ててみたり、コンクリートの壁をガンガンと踏みつけるように蹴って見たり、ありとあらゆるストレス解消を試したが、結局それは収まらず、最後にはゆらゆらと歩いて後ろ向きにぶっ倒れた。

 灰色と緑を混ぜて、場所によってぜんぜん違う混色の比率で塗りたくったような天井。危うい取り付け方の薄汚い照明が、憐れむように俺を見下ろしている。


 やがて、口から、無意識に漏れ出た言葉。


「……俺の負け」


 一生、少なくとも本心からは口にしないだろうと思っていた言葉。

 それを言ってしまった瞬間に、俺は、一瞬でどろどろに溶かされて、また一瞬で、全く別の形に冷やし固められたような気分になった。

 つい数秒前まであれだけ不快で腹立たしい気持ちになっていたというのに、今や、やたらに愉快だ。笑えて来る。面白い。ウケる。陰キャはこういうの、草生えるとか言ってるんだよな。その陰キャに負けたんだよな。

 爆笑した。何が面白いんだか分からないが腹が痛い、永遠に笑えそうだ。


「俺の負けだ、負けたよ喜彰! ははははははっ!」


 しかし、いつまでもツボっているワケにはいかない。俺は目的のものを抱えると、立ち上がって、再びヘルメットを被る。


「……これ、バイクにくくりつけられっかなぁ、はははは」


 また笑えてきた。



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CHAPTER3.11 TITLE:

『本日は雲ひとつない晴天だった』


〇視点:冬山清志

〇同行者:なし

〇文化祭1日目・17時54分


 最低最悪だ。


 もういっそ、本当にゲロが出て、そのまま気絶して、その様子をなんかの拍子に生徒に発見されて、保健室やらに運ばれていればよかった。そのケースならば最悪であろうとも、少なくともその頭に最低まではつかなかっただろう。

 腕時計を見る。さっき見たばかりなのに見る。

 17時54分を示す三本の針は、あと3つだけ、乾ききったカチという音を吐き出せば、55分に繰り上がる。そんなややこしい物言いをしている間に、それは現実のものとなった。

 時計が壊れているんじゃないか。そう思ってスマホを見る。

 17時55分。文字通り寸の狂いもない。最低最悪の現実に対する最低最悪の悪あがきは、最新最高の電子科学技術の結晶を以て見事に打ち砕かれ、細微砕屑さいびさいせつと化した。そんな造語まで使ったややこしい物言いをしている間に、半周秒針が進む。

 軽くちょっとの気持ちで立ち読みし始めた雑誌は、とうとう最後に掲載されている、来週にも打ち切りになりそうな、絵柄が全く好みでないお色気バトル漫画を残すのみとなった。



 結論から言うと、俺は、ステージイベントをすっぽかした。


 ステージに上がる側じゃなく見る側だから、別にいいっちゃいいのだが。しかしまぁ彼女と「一緒に見ようね」、なんて甘ったるい約束をしておいてこれは非常にまずい。気まずい。

 腹痛を訴えトイレに行ったあと、俺は出もしないゲロを無理に吐いて、微妙に気になっていた『かき氷のゲロってどんな感じ?』という疑問を解消することなく、全く視界に入れないままにそれを流し、個室を出て、外の自販機で水を買って口をゆすいだ。

 もともとステージイベントに不安を抱いていたのもあって、俺はなかなか席に戻る気になれなかった。顔色の悪い俺が席に戻っても、あいつらに気を遣わせて白けさせてしまうだけじゃないか。上手く感動した演技ができなくて、楽しんでいないと思われないか。もともと感じていた不安はゲロを吐いてスッキリするどころかさらに堆積していき、ずしんと体を重くした。

 俺は一旦手を洗ってから、トイレの個室にとんぼ返りすると、便座に座ることもなくスマホをいじり始めた。20分くらいコインロールの動画を見て、そろそろ戻らなければ本当にヤバイ、と思い外に出て、ステージの方へ行こうとした。

 えっと確か、前の方の列だったよな。あ、いたいた――


「いや、それ裁判やなくてサイパンやないか!」


 その時ちょうど、生徒同士で組んだお笑いコンビのネタをやっていて。

 遠目に、俺が死ぬほどつまらないと感じたギャグを見て、小鳥が爆笑している姿を見てしまった。


 そしてまた俺はステージに戻れなかった。


 小鳥と同じところで笑えないことが、それを知られることが、何よりも怖かった。

 気が付くと俺は走って校内を抜け出し、学校から1キロも離れたコンビニまでチャリを漕ぎ、チキンを買って食い、それでも飽き足らず週刊漫画雑誌の立ち読みを始めている始末だったのだ。


 自分がここまで意気地も勇気も何にもない空っぽの人間だとは思わなかった。好みの女優がかなり大胆なポージングをしている巻末グラビアを見ても、絶望と焦燥とが混濁した心境に一切の変化は生じない。


『……別れよっか、私たち』

『こんな人だと思わなかった。本当に、一生口聞かないで。顔も見たくない』

『………………最低』

『じゃあね、


 さっきから、どんな言葉で別れを切り出されるのかについてしか考えていない。今から心の準備をしておく必要がある。小鳥と別れる上にあんまり酷いショックを受けたら死ぬ自信があるから。

 ……もうほとんどプログラムは終わっただろうし、今から戻っても手遅れかな。

 そう思いつつも、俺は雑誌を棚に戻し、店を出た。「ありがとうございましたー」という店員の挨拶は元気だが、なんとなく目には光が宿っていない感じがして、一挙一動全てがひどく虚しい。

 コンビニの自動ドアを潜って、冷え込む夜の駐車場でひとり、空を見上げた。中の暖房と外の気温とのギャップに、大きく体を震わす。冬は夜が早く来る。中途半端な田舎に相応しい中途半端な星空を見上げて、何よりも中途半端な俺は、半端なく、泣きそうになっていた。


「……何やってんだろ、俺」


 白い息と共に零れ出たその独り言は、誰かに聞かれるわけでもなく、中空を舞って消える。


 ……もう何もしたくない。

 家に帰ろう。

 近頃、らしくもなく活発的すぎたんだ。前の俺みたいに、マイペースで、ノリが悪くて、ひとりが好きな俺に戻ろう。


 少しだけ学校方面に向けていた自転車のタイヤを止めて、踵を返し、進路を家の方へ変更する。

 自転車のライトが、大仰なバイクとそれを押す大男の影を写した。


「なぁ、おまえ……その制服……東大正高校の生徒……だろ」


 男は、上がりきった息で、ところどころ声を裏返しながら、俺にそう呼びかけてきた。

 よく見ればこいつ、ライダースーツに浮かび上がる筋肉とか、ギンギンの金髪とか、俺の交友関係に極力入れないようにしている人種だ。ガラ悪そうだし、関わりたくない。

 逃げようとしてペダルを踏み出しかけたところで、「待った!!」と、悲痛な声で止められた。

 バイクに積まれたでかいケースから、何か大きな球状の物体を取り出して、差し出してくる。


「……頼む、これを……学校に届けてくれ」

「これは……?」


 周囲が暗いし、あんまりよく観察できないから見たことがないとは言いきれないが、少なくとも触ったことのない感触だった。独特な木の匂いと、球状のてっぺんについた出っ張り……。

 まさか。

 男はバイクを止めると、ここがコンビニの駐車場だってこともお構い無しに、ぐでんと地べたに倒れ込んだ。


「花火玉だ。20発しょぼいのが打ち上がったあとの、一番最後の大花火」

「それがなんでこんなとこに……?」

「……水泳のパフォーマンスで事故って、前のやつがずぶ濡れんなって湿気ちまったらしい……町に入る前くらいから、バイクもガス欠で、俺もここまで走ってきたけど、もうガス欠ってか……限界なんだ。あとちょっとの距離、チャリで届けてやってくれねーか……」


 どうやら男は、5キロ前くらいでバイクがガス欠になってからここまでの道のりを、花火玉を載せたバイクを押して自分の脚で走ってきたらしい。そりゃあ冬なのにこんな汗びっしょりになるわけだ……。

 俺は男のその頼みに、答えを返すことができず、自転車に跨ったまま左右をきょろきょろ見て、どもった。

 男の見た目がいかつかったのもあるが、これまでの経緯から学校に戻りづらくて、一度、『家に帰る』という後ろ向きの決心をしてしまっているのもあって。俺はすぐに、頼みを受けるか受けないかではなく、頼みをどう断るかを考え始めた。


「いや、その……俺もう出しもん終わって、帰るとこなんで……」

「…………なんか用事あんのかよ」

「ない、っすけど……」


 用事がなくちゃ帰っちゃいけねーのかよ、という気持ちが、態度に出てしまったらしい。男は見るからに激怒し、眉を吊り上げる。

 しかし怒鳴ることはせず、あくまで静かに、重く低く責めてくる。


「……ようは、てめぇがダリぃから嫌だってわけだ」

「…………」

「ちょっとは考えねぇのか。こいつを楽しみにしてる生徒が、町の人が、何百人もいるんだってこと。ダリぃだろうけど、1キロ自転車で走るくらい、それと天秤にかけるまでもねぇだろうが普通」


 普通。

 そう感じるのが普通。

 その『普通』という厄介な感覚に追い立てられて、こんなところまで逃げて来たんだ。人の気も知らないで偉そうな口を叩くな。お前みたいに馬鹿同士でワイワイやってりゃそれで満足みたいなパリピたちに、こんな気持ちは一生分からないのに。

 そんな恨みがましい目で、泣きそうな目で男を睨み上げる。この頼みを受け入れるくらいなら、男にボコボコに殴られてやった方が幾分もマシだ。

 しかし男はそうはせず、逆に感情を落ち着かせたようだった。顔と声色に滲み出ていた怒りは失望に変化し、高いところから哀れそうに見下される。


「まぁそうだよな。ステージイベント見ないでこんな離れたコンビニまで一人で来ちまうような陰キャに、花火を一緒に見る相手なんかいねぇだろうし」

「…………」


 違う、いる。……いた。

 もう、自分から手放してしまったけれど。


 ――「花火、楽しみだね」


 無邪気にそう微笑みかけてくれる彼女が、俺には確かに、いたはずなんだ。


「……そこで一生泣いてろ」


 男に吐き捨てられて、俺は自分の頬を伝う、ぬるい涙に気が付いた。


 小鳥と付き合うことになったあの日から、俺は何に対しても弱くなった気がする。それまでなんでもなかったことが出来なくなった。今日だって、中学の時みたいに、やろうと思えば『感動するフリ』くらい、上手くやれたはずなんだ。

 涙は止まらない。ぼろぼろと球になって、転がるように流れる。

 どうすればいいのか、ということを考える段階に立てていない。そもそも自分が何をやっているのか分からない。自分が何をしたいのか、自分がどうやったらどう動くのかが分からない。


 やっぱり、俺はロボット以下だ。

 命令されなくちゃ、まっすぐ立つことすら出来やしない。


 男はふらつきながらも、花火玉をバイクに積み直して、学校に向かって歩いて行こうとする。


「花火なんか見て何が面白いんだよ!」


 いつの間にか俺はその背中に、よく分からない怒号を投げかけていた。

 普段ほとんど力を入れない喋り方をしているから、喉が千切れそうなほど痛い。自転車の前かごに頭を突っ込みそうな勢いで下を向いて、叫んだ。

 男は振り返らず、その場で立ち止まる。


「教えてくれ……なんでみんな、そんなに何かに必死になれるんだよ! なんでみんな一緒のことで一緒に笑ったり泣いたりできるんだよ……」


 こっちの事情どころか、俺の名前すら知らない、俺の方も事情も名前も知らない相手に何を言っているのか。

 火照ってきた体に、冷えた空気は痛く刺さる。

 男は、バイクをその場で停めて、花火玉を持ってこっちに来た。そしてそれを、乱暴にも俺の自転車の前かごにうずめる。かごの口が広くなっているおかげでなんとかアイスクリンのように乗ってはいるが、手で押し込めていないと走っている途中で落ちそうだ。


「花火が面白くないのは、花火を見ずに、周りばっかり見てるからだ」


「え……」


 汗ばんだ手で目のあたりを覆って、男は言った。

 その口角が上がっていることに気付いたのと、前歯が下唇を噛んでいることに気付いたのは、同時だった。俺は男の感情が分からなかった。


「騒げるから陽キャだとか、黙ってるから陰キャだとか、率先して盛り上げられるからリーダーだとか、周りの目ばっか気にして……アホくせぇ。

 花火見てる時、周りのほとんどは花火しか見てねぇんだよ。お前なんかの、見てるだけで気が滅入るような湿気たツラ、見たくもねぇに決まってんだろうが」

「……陽キャとか陰キャなんて話はしてない」

「うるせぇ……」


 男は、そう言って薄く笑うと、がくっと体を落とし、その場に膝をついた。

 大丈夫かと声をかけたが、ぶっきらぼうにそんなわけねーだろと返された。男は膝立ちの姿勢のまま、自分の腰に巻いているかなり長めのベルトを外すと、それを器用に使って、俺の自転車の前かごに花火玉を固定した。

 最後にぽんっと花火玉を軽く叩くと、俺を見上げて、掠れた声を絞り出した。


「後は任せた……それから、今度は花火を見な」


 黙ってうなずく。

 濡れた目元を拭って、俺は今度こそ、進むべき『前』に向かってペダルを踏んだ。


 人通りの少ない道路を、学校からここまで来た道を、全力で疾走する。

 運動不足の肺が、脚が、死ぬほどもどかしい。ほんの200メートルほどしか走っていないのに、俺はギアを5速から4速にチェンジした。

 上り坂をあと2つ、今差し掛かっている小さいのと、そろそろ見えてくる大きいのを超えた先に、目指すべき、そして帰ってくるべき東大正高校はあるのだ。


 星はさっきよりも輝きを増している。汗が目にかかって視界がぼやけて、星の光の輪が、くるくると回って視界を揺らす。手のひらで顔の汗を拭い、ペダルを踏む力を一層強くする。

 ちくしょう、喉が渇いた。揚げ物なんか食ってないで、あのコンビニでなんか水でも買ってればよかった。

 進め。早く進め。

 追い風よ吹け。向かい風は突っ切れ。

 息が荒くなって、咳に痰が混じる。

 見えてきた。普段は自転車から降りて押して歩く、角度がけっこう急で、しかも長い坂道だ。しかしここさえ超えれば、あとはもう少し。

 ギアを5速へ。ガタン、とギアが切り替わり、ペダルが重くなる。ふくらはぎの血管が破裂してしまうんじゃないかというくらいの痛みを伴いながらも、またペダルを踏む力を強くする。食いしばった歯からは鉄の味がする。


 ひゅるるる……。


 坂の中腹に差し掛かった時、嫌な音がした。

 始まったのだ。約20発、文化祭1日目の最後を彩る花火の、最初の一発が今、上がってしまった。

 やばい! 本当に間に合わない! このままじゃ、最後の一発だけめちゃくちゃ遅れて発射されて、間の抜けた大花火になってしまう。くそっ、あんな意味の分からんチンピラに自分語りなんかしてるヒマはなかったんだ! 俺のアホ!

 神様なんてものがいるのなら。こんな馬鹿野郎で約束のひとつも守れない最低なヤツのお願いを叶えてくれ……るとは思えないが、それでも一応、聞いてくれるのなら願いたい。今この瞬間だけ、俺の脚を、プロ競輪選手のソレと交換してほしい。一瞬で学校まで飛んでいける翼がほしい。

 ようやくの思いで坂を上り切り、学校の裏門が見えてきたところで、2発目の小さな水色の炎が、空に咲いた。


「間に合ええええぇぇぇぇぇぇッ、

 ちくしょぉおおぉおおおおぉぉぉぉ!!」


 天に向かって叫ぶ。鳥人間コンテストで、自作飛行機の中でやたらと叫ぶ競技者たちの気持ちが分かった気がする。

 直後に打ち上げられた6発目の花火よりも、ずっとずっと空高く放たれた俺の願いは、空に花を咲かせることこそなかったが、思わぬ形で実を結ぶ。


「こっちだ!! 早く!!」


 裏門の前で、作業服姿のOBたちが俺の到着を待ち構えていた。あのチンピラ男が連絡しておいてくれたんだろう。

 7発目が咲く。8発目と9発目が同時に発射される。花火の打ち上げ方なんか知らないけれど、花火玉を持ってきてすぐ打ち上げられるものなのだろうか。

 今は少しでも早く届けるのが先だ。

 バイクのチンピラ男が結んでくれたベルトが外れて、かごの上で暴れ出した花火玉を左手で抑えながら、ラストスパート約100メートルを走りきる。

 急ブレーキをかけて止まる。スピードが出過ぎて慣性が強く働いたのか単に俺が運動音痴なだけなのか、俺は自転車から転げ落ちた。そんな俺には目もくれず、OBの人たちは車輪が回ったままこけた自転車から花火玉を回収すると、「後は任せな!」とだけ言い残して、学校の敷地内へと消えて行った。


 歩道の脇に放り出された自転車、その自転車から放り出された俺。横向きの体勢で吹っ飛んだから、頬とわき腹とふくらはぎを擦りむいてしまった。少し経って、バクバクいってた心臓が少し落ち着いてくると、あまりにも熱くて痛くて、惨めな気持ちになってくる。


「……いってぇ…………」


 結局、客席に戻って小鳥と一緒に花火を見るという約束は果たせなかった。唯一、そのことだけがとても悔しい。

 まぁ客席に戻ったところで、ステージイベントのパフォーマンスコンテストをすっぽかしている時点で、幻滅されてるかな……。あれ、俺って、ここまで何のために頑張ってきたんだっけ……。

 なんだかここまで無駄に気持ちが盛り上がっていたけれど、もう全てが無駄で、虚しくて、起き上がる気力も起きない。倒れたまま、ゴロン、と仰向けになると、星空に、金色の花が咲いた。


 あれは何発目なんだろう。

 なんか……周りに誰もいないけど。いたところで、こんな状況で、誰の目でも気にすることもないけれど。


 やっぱ、全然面白くないな……。


「清志くん。おつかれ」


 視界のほとんどが、あのときと同じ無邪気な笑顔で埋まった。

 背中と後頭部に手が回され、「よいしょ」という小さな掛け声と共に、俺の体はゆっくり、ふわっと助け起こされる。

 そのまま手を取られ、すくっと立ち上がって、直立する。


 何発目かの、小さな花火が上がった。

 俺の隣には、小鳥がいる。


「あの、俺……」

「いいの。今はなんにも言わなくていい」


 そう言って空を見上げる小鳥の横顔は、何発目かの、花火の赤い光で照らされて。

 一切濁りのないその瞳は、まるで、一生この瞬間を忘れないように、真っ赤な花火を中に閉じ込めたようだった。

 艶っぽくて、色っぽくて。

 ここだけ、世界から切り離されたみたいな。

 俺はその横顔から、目が離せなくなった。


 心臓に手を当てる。

 この鼓動はきっと、さっきの爆走のせいじゃない。


 だって、こんな気持ちは、感じたことがない。


「あっ、最後」


 嬉しそうに空を指差す小鳥の、指の先を追う。


 ひゅるるるるる……。


 どくん。


 ひときわ大きい、打ち上げの音。

 ひときわうるさい、心臓の音。

 ひときわ輝く、最後の打上花火。


 赤と青の、非の打ち所がない、見事な大輪。


「……綺麗だな」

「うん」


 長く焼き付いて、消えないその光を見つめて。

 その余韻がようやく終わった頃に、俺は小鳥を抱き寄せて、キスをした。



HIGASHITAISEI HIGHSCHOOL FESTIVAL

CHAPTER3.12 TITLE:

『明日は』


〇視点:曽布川喜彰

〇同行者:弓原大河

〇文化祭1日目・18時10分


「お前も律儀なヤツだなぁ。バイクがガス欠になったからって、わざわざ自分が退学させられた学校のために、倒れるくらい走ってまで花火玉なんか届けに来るかぁ?」

「……お前こそ、あんなに『決着をつけよう』なんて大それたこと言ってたくせに、やらせることが花火運搬なんて、甘っちょろいよな。動けねぇって電話したら、律儀にも助けに来てくれるしよ」

「それ以上減らず口を叩くなら、このバイクドブ川に捨てるぞ」


 無様にも脱水症状で動けなくなった弓原を迎えに行き、水を与え、肩を貸して学校に向かって歩いている。弓原のバイクを押しながらなので、正直体勢的にはけっこうきつく、冬だというのにじっとりした汗が噴き出てくる。

 建設現場での日頃の無理が祟って、そして今日俺によって無理をさせられて、頑丈な弓原でもそりゃガス欠になるだろう。俺は少しだけ罪悪感を感じながら、弓原の重みを受け止める。

 よりによって今年の花火を、弓原を抱えながら見ることになるなんて。エイプリル女に、花火観賞用の食いもんを買いに行かせておいたのに……帰ったら、とてつもない笑顔で怒っているかもしれない。


「……お前と俺みたいなヤツに、花火を任せたんだよ」


 弓原がそんなことを言う。


「すぐ人の目を気にして、周りにどう思われてるかが全てで……」

「……そうだな」


 俺たちと同じだ。

 自分のことを陰キャラだとか陰湿だとか、周りのバカ共より上だとか、そんな風に思ってきたけれど、結局のところ俺には、最初からそんな属性は備わっていないのかもしれない。

 周りからどう思われているか、それを考えて、それに見合ったものを、それに対抗するためのものを自分の上に貼り付けていった結果。こんなことになってしまったけれど。

 こうなって、弓原との因縁が全部終わって、俺は明日からどんな顔をして生きていけばいいのか、よく分からなくなっていた。


 もう大丈夫だ、と言って、弓原は俺の肩を借りるのをやめて、自分で歩き始めた。


「そいつには、周りの目を気にするよりその時見るべきものを見ろ……みたいな偉そうなこと言っちまったけど。てめぇが出来てねぇこと、他人に対しては気楽に言えたもんだよな」

「やろうと思ってできることじゃない。俺もお前も、これからもずっと、そういう価値観に縛られ続けるんだよ」


 その価値観が全てだったから、あの文化祭の時に、全てを奪われた気になった。

 自分で決めた、やりたいと思ったことをやろうとして、失敗しただけなのに。

 あのとき、恥ずかしい、悔しいという気持ちに突き動かされて、弓原の人生を台無しにしてしまった。今になってようやく、その重大さが分かった。


「…………曽布川、本当に悪かった」

「……こっちこそ、ごめんじゃ済まないことをした」


「遅ぇぞ、お前ら」


 顔を上げると、たくさんの顔があった。


 弓原にとってのかつてのクラスメイト、1年生の時に仲が良かった10人くらいの連中が、文化祭帰りの制服姿でぞろぞろと歩いてきていた。

 思わず身構える。

 俺にとっては、あいつらは敵だった。

 弓原と和解できた今、俺があいつらに対して何かすることはないが、あいつらの方は違う。俺に脅されたり、利用されたりした鬱憤が溜まっているはずだ。

 ……高頭と軸丸もいる。軸丸に関しては、あの事件以来、すれ違うたびに殺すような目で見られていた。


 だけど今、軸丸の目にそんな鋭さはなくて。


「これから公園で花火するの」

「2人も来るでしょ?」

「つーか絶対来い、強制な」


「…………え?」


 なんでこいつら、こんなに気軽に話しかけてくるんだ。

 弓原も何がなんだか分からないようで、俺たちは顔を見合わせる。

 集団の先頭にいた軸丸が、自分のスマートフォンを取り出すと、何かの音声ファイルを再生し始めた。

 風のノイズが混じった、その陰湿な声は。


――『あの時俺は、お前という人間が本当に分からなかった。俺をどん底に突き落とすためだけにあんなことを言って、そのためだけに仲良しごっこを続けていたのかって、そう考えると、本気で背筋が凍るようだった』……


 俺の物だった。


「今日、曽布川が何かしようとしてるのは知ってたから。こっちもあなたと同じ手を使って、それを暴いて阻止してやろうと思ってたわけ」

「……だけど、みんなこれを聞いて、何もできなくなった」

「お前が去年あの時、そんなに苦しんでたなんて思いもしなかったんだ」

「大河も……あたしたちは勝手に、大河は完璧にイイヤツだって思って、それをずっと押し付けてた」


 高頭が前に進み出て、線香花火の袋を渡してくる。

 大嫌いだった、人に擦り寄るような笑顔はそこにはなくて、だけど笑っていた。


「ごめんね。私たちのせいで……1年も」


 胸が詰まる。

 この1年間積み上げてきた、汚れた自己満足が溶けて、目から溢れそうになる。


「……なんで謝ってんだよ……俺は、みんなを脅して、貶めて……」


 口を抑える。

 ついに決壊した涙腺から溢れ出した涙が、手の甲をゆっくりと乗り越えて、落ちてしまう。1年間の仮面が、溶けて壊れて、消えてしまう。

 今度は弓原が、俺に肩を貸してくれた。縋りつくように、俺は膝を折る。


「……ごめん……本当にごめん!」


 道の真ん中で泣いて、かつてのクラスメイトたちに笑われた。


 笑われるのが嫌でここまで来たのに、俺は、こうしてみんなが俺に笑ってくれることを、ずっと望んでいたのだと、やっと気付いた。

 気付くのが、遅すぎた。


「せっかく来たのに、まともに花火見られなかったしな……なぁ、曽布川」

「……うん」


 1年前の、弓原を頼っていた頃の俺の声が出る。


 今日で全ては終わった。

 俺のせいでずっと続いていた悪意のバトンも、ようやく断ち切られ、今ようやく新しいスタートラインに立てた。


 明日も……いや、明日は。


「俺たちの花火、やり直そうぜ」

「……ああ」


 明日はきっと、今日より晴れ晴れとしている。

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