5章 虚構のパノラマ・解決編
「時間だ、ってことは、誰かと待ち合わせでもしてるの?」
「察しがいいな。もちろん、パノラマ模型を作った人とだ」
全員が、息を飲んだ気がした。
東館から中庭に繋がる、錆びた扉のノブを握る。この先に、その結論が待っているのだ。
あまり解説したくはない結論だが……そういうわけにもいくまい。私はノブを握った手を捻って、ドアを押した。
「……お時間取らせて申し訳ありません」
「いやいや、こちらこそ」
相合傘のラクガキがある壁にもたれて、小さなトランクを提げた、阿良々木教頭が立っていた。
言い換えよう。
和菓子乃音が思い描いたウサギ小屋の位置に、阿良々木教頭が……もとい、蒼毛葉尊詩が立っていたのだ。
後ろの4人から、様々な声が聞こえた。
驚く声は、空乃と忍。なんで、と疑問符のついた声は、下邨。やっぱりそうか、とひとりごちたのは、キヨ。
忍が、待ちきれなくなったように1歩前に進み出て、私にとも阿良々木教頭にともつかぬ質問を投げかける。
「どういうことですか? 教頭先生がパノラマを作ったってこと……?」
教頭先生は口元に手を当てて、ふふふ、と笑った。
その態度は無邪気に見えて、なんだか、同年代の相手と喋っているような不思議な気分だ。
「こう見えても、ミニチュアとかプラモデルが趣味でね。あの模型も、なかなかの自信作なんだ」
「……はい、すごかったです」
「はは。素直に褒められると、少しばかり照れるな」
「ラクガキまで再現されてて、すげぇって思ったっス」
「趣味に関しては、ちょっと凝り性と言うか、完璧主義でね。自分の作品にちょっとでも欠陥があれば、見過ごせないタチなんだ」
「でも……じゃあ、なんであのウサギ小屋を?」
「『ウサギ小屋』……か。どうやら、文集は読んでくれたらしいね」
中庭には、西館からの扉の脇に、一台だけ自動販売機が置かれている。
失礼、と言って、阿良々木教頭はその前まで行き、何回か、ガコン、という音を鳴らして戻ってきた。大きくて細い両手に、いっぱい缶ジュースを抱えて戻ってくると、私たちにそれを配った。
自らもプルタブを上げて缶コーヒーを飲み始めた教頭に、ありがとうございますと言いつつも、まだ開けない。全部説明すると、どうせ喉が渇くから、そのときに飲もうと思った。
阿良々木教頭は、長い長い一口目を終えると、「変に甘いなぁ」と愚痴って、ちょっと意地悪そうに私たちに向き直った。
「何故あのウサギ小屋を置いたのか。僕の口から語るのもいいけれど、まずは、君たちの推理を聞いておこうか。」
「……分かりました」
君たちの、と言われたのに、私だけが返事をするのは傲慢かもしれない。
だけど、この予想には、それなりに自信があった。何度も何度も、できれば外れていてほしいと、自分に対して反証を試み続けた予想だ。
私はもらったオレンジジュースのプルタブを上げると、話を始めた。
「パノラマ模型を作ったのが教頭先生だという、直接的な証拠はありません。だけど間接的に、2つの証拠があります。
1つは、教頭先生自身のお言葉です。最初にパノラマ模型の作成者を尋ねるために職員室を訪れたとき、『私の時代からここの新聞部は活発だった』と仰っていましたね。これはつまり、教頭先生が、この東大正高校のOBであるということです」
「よく覚えていたね……さりげない一言だったのに」
「……ところで。教頭先生、失礼ですが、お年は50歳、もしくは51歳で間違いないですか」
「ははは。ご明察、50歳だよ。今からちょうど32年前、高校3年生だったからね」
そっか、と忍が手を合わせる。
「教頭先生は32年前、3年生の文芸部員だったんですね!」
「ああ、そうだよ……懐かしいね」
正直、あっさり認めてくれてホッとした。
阿良々木教頭がOBだというのは卒業アルバムから確認済みだが、文芸部員であるという証拠はなかったからだ。部活動写真の下に名前でも添えてくれればいいものを。
……おそらく、教頭先生があのとき、『文芸部もそんなこと聞きに来たっけ』なんて言ったのは、私たちが『虚構のパノラマ』を見つけられるように、だ。だから阿良々木教頭は、もしかすると、私たちに……。
「2つ目。それは、この中庭が示しています」
ちらっと空乃を見る。
私のこの言葉の意味が分かるとすれば、それは教頭先生と空乃しかいない。残念ながら空乃は、気付いていないようで、首を傾げた。
阿良々木教頭から視線を外して、後ろを振り返りながら言う。
「空乃以外は知らないと思うけど、2年前の文化祭直後の時期に、『廃材祠』って呼ばれる、謎のオブジェが中庭に立った……っていう事件があったんだ」
「え? あれが関係あるの?」
「うん。空乃、軽く説明してくれるか」
「あ、うん、いいけど……」
空乃は戸惑いながらも、事件の内容をかいつまんで説明した。
突然、中庭の隅に廃材祠ができていたこと。そしてまた突然、それが消えたこと。
当時の新聞部記者Bの推理では、『タバコの不始末で雑草が焼けるボヤが起きて、それによって雑草の禿げた部分を隠すために、阿良々木教頭がオブジェを作った』となっていること。
だが、阿良々木教頭は、オブジェを作ったことを認めながらも、タバコだということは否定していること。
説明しながら空乃は、みるみるうちに表情を変えていった。
そして説明を終えると、納得したように、私に言った。
「……いまの中庭には、雑草なんか生えてない」
あたり一面、コンクリートで舗装された上に土を被せ、2本だけほっそりした木が生えている、綺麗な茶色一色の中庭。
私は頷いて言った。
「そう。去年コンクリート工事がされたから、もうここに雑草なんて生えていない」
「………………」
「教頭先生。『虚構のパノラマ』に隠された……いえ、先生が隠した、『小屋の下を掘れ』という暗号は、覚えていらっしゃいますね?」
「ああ」
「掘れ、とまで言うのなら、おそらく、そこには何かが埋めてあったのでしょう。そしてその『埋めた物』は、第3者によって掘り起こされることはなかった」
阿良々木教頭は、缶コーヒーをあおると、空き缶を自販機横のゴミ箱に捨てた。
「コンクリート工事で舗装されてしまえば、埋めた物は、2度と掘り返すこともかなわず、失われるかもしれない。
教頭先生が廃材祠を作った本当の理由は、土を掘り返したあとを隠すことだったんじゃないですか?」
阿良々木教頭は、目を閉じて、腕を組みながら、口元には笑みを浮かべている。
しばらく黙ってこくこくと頷いて、優しい目を開くと、拍手してくれた。
「お見事だね。大正解だよ」
「……ありがとうございます」
「では、動機は分かるかな?」
「動機ですか。……大雑把になら」
「せっかくだから、予想、聞かせてくれないかな」
……問題は、ここからだ。
私には、おぼろげにしか分からない。具体的な内容は、阿良々木教頭本人の口から語ってもらうしかないのだ。
オレンジジュースに口をつけて、ちょっと息を吐いてから、話を再開した。
「32年前の卒業アルバムには、おかしな点がありました。
10月に発行された文集には、7人分のペンネームがあったのに、卒業アルバムの部員全員が写された写真には、6人しか写っていなかった……。
3年生といえば、受験です。文化祭が終われば、3年生は次の年度まで名前こそ置いたままでしょうが、実質ほとんど活動はせず、引退扱いになるクラブがほとんどでしょう。
なのに、何故やめる理由があったのか? 何故、写真に写らなかったのか?」
「…………うん」
「……………………」
阿良々木教頭は、また、目を瞑って微笑んだ表情に戻った。
私以外の新聞部も、表情を落とした。
あの喫茶店で想像した通りなのだろう。写らなかった部員は……。
「相原友治さん。……学校史によれば、交通事故で亡くなられた方です。
この方だったんじゃないですか。文芸部の写真に写らなかった……写れなかった、もうひとりの部員は」
「そうだ」
教頭先生は、私たちに背を向けた。ラクガキと向かい合うように……或いは、何かを埋めていた、『小屋の下』を見下げるように。
「故人について、変な考察をするのは憚られますが……。
かつてここに埋まっていたものは、相原さんにゆかりのある品だったのではないですか?」
「………………」
「考えすぎかもしれません。……パノラマに置かれた小屋には、言葉にできる明確な意味はなくて、……相原さんを悼む、なにか、そういう気持ちを、教頭先生が形にしたものだったのではないでしょうか」
言いたくなかった。
『悼む』。そのような気持ちを抱いている本人に対して、本来全く関係のない私が、べらべらと想像でものを喋るのは……とても嫌で。話している間、とても、阿良々木教頭の背中を見られなかった。
振り向かないままに、教頭先生は、ぽつぽつと語り始めた。
「明確な意味はない、その通りだ。…………相原とは、親友だった」
「ペンネームを、
「ああ。……もう気付いてると思うけど、僕が蒼毛葉尊詩、相原が和菓子之音だ」
私たちに背を向けたまま、阿良々木教頭は天を仰いだ。
死んだら、人は星になるとか、天国に行くとか、言われている。だけど阿良々木教頭は、そういう意味で空を見上げたのではない気がした。
「相原は。……よく病名は覚えてないんだけどさ、持病を持っていて、休みがちだったんだ。夏休みの頭に、『入院が必要なぐらい酷い発作が出た、命の危険さえある』と電話で聞いて、顔を真っ青にしたよ。
意識を無くしたまま、4日もかかって、ようやく目を覚ました。お見舞いに来た僕たちに、笑って、『文集の短編はなんとか間に合わすから』とか言いやがってさ。部長が……女子なんだけど。すごく泣いて、すごく怒ったよ。そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、って」
砕けた喋り方になった。
笑う声は、ちょっと乾いている。
「僕たちは千羽鶴を折った。彼の病気が、早くよくなるようにね。……まあ、折る人数が人数だ。せいぜい百羽ってところだったけれど。
幸い、当初予定していた期間よりも、短い入院期間で済んだ。千羽鶴の願いが、届いたと思ったんだ。…………思ってたんだよ」
「………………」
「退院した相原と、部員みんなで、あの暗号を考えた。『虚構のパノラマ』の下の文字を読む、っていうネタだけを先に思いついてたから、文面はあんなお粗末なものになったけれど……楽しかったよ。先生たちの目を盗んであれを埋めたとき、とても心躍った」
阿良々木教頭は、空を見上げるのをやめて、俯いた。
……1分くらいの間、こちらに向けた背中が震えているのを、私たちはどうすることもできずに、ただ、見つめていた。
ポケットからハンカチを取り出して、顔を拭いて。
ようやく振り返った阿良々木教頭の顔には、悲しそうな表情も、口元の優しい微笑みも、なにもなかった。
ただ、濡れて、赤くなった目の周りだけが、阿良々木教頭の気持ちだった。
「文化祭が終わって、また、病気がちになった。入院してるうちに2学期が終わってしまって、冬休みのうちに、また酷い発作を起こした。年末年始も病院に行って、鶴を折って……今度は1週間かかって目を覚ました。また願いが届いたんだと思った。
それから2週間後に、飲酒運転の車に轢かれて、あいつは死んだ」
言葉の節々から、怒りと悲しみが聞こえてくる。
阿良々木教頭は、持っていたトランクを、私に差し出した。
受け取って、「開けてみてくれ」と言われ、ホックを外して開けた。
……………………。
「願いは、届いてなんかいなかった」
トランクの中に入っていたのは、なにかの燃えカスだった。
焼け残った、明るい緑色の欠片から、やっと、それがもともと折り紙だったのだと分かった。
「あいつが死んですぐに、僕たちは、埋めていたこのトランクを……ここの下から掘り出した。それで、中身だった最初の千羽鶴を、2つめの千羽鶴と一緒に燃やして、燃えカスを集めて……また、この下に埋めた」
「そんな……」
「なんで、そんなことを?」
「……愚かだった。僕たちは、千羽鶴の意味をはき違えていたんだよ。
なんで燃やしたか……君なら、分かるんじゃないかな」
「…………なんとなく」
親友の健康を祈って、願いを込めた、思い出の鶴。
何故それを、親友が死んですぐに、燃やしてしまったのか。
きっとそれは、ヤケになったとか、ショックでわけが分からなくなったとか、そういう理由ではない。
…………健康を祈って。
不幸を、肩代わりしてくれるように。
「教頭先生たちにとって、千羽鶴は、生贄だった」
「…………」
「相原さんの病気や不幸を、千羽鶴が請け負ってくれる。そういう、厄除けのお守りだと思っていた」
風が吹いて、埃を立てた。
燃えカスが飛んで行ってしまう。私は、トランクを閉めて、阿良々木教頭に手渡した。
阿良々木教頭はそれを受け取ると、今度は私たちの方を向いたまま、目を隠して、肩を震わせた。震えた声が、許しを求めるように、語る。
「……なんで願いを叶えてくれなかったんだって……僕たちは、こともあろうに、責任を折り鶴なんかに押し付けたんだ。なんで身代わりになってくれなかったんだ、なんでお守りとして機能してくれなかったんだ……って」
キヨが、苦虫を噛み潰したような表情で零す。
「……スケープゴート」
贖罪の山羊。
罪や不幸を別のものに肩代わりしてもらう、という考え方。
「誰がそれを提案したのか分からない。夜の運動場で……僕たちは、大量の折り鶴を燃やした。炎が盛っている間、ずっと僕たちは泣いていた」
物に託した願いが、いとも簡単に打ち砕かれた心は……やり場のない怒りに包まれたのだろう。
なんで助けてくれなかったんだ、私は願ったのに。
なんで身代わりになってくれなかったんだ。
……阿良々木教頭たちがやったことは、単なる八つ当たりだったのかもしれない。
願いが叶わなかったとき、その願いを込めた物には、価値がなくなる。
合格のお守りを買ったのに、試験に落ちてしまったら。四つ葉のクローバーを大切に持っていたのに、最悪の不幸に見舞われたら。
私は……どうだろう。
破壊するなどはしなくても、必ず、千羽鶴やお守りやクローバーを恨むだろう。
……愚かなことだが、気持ちは分かる気がした。
「なんでこんなバカなことをしたのか、理由はこうだよ」
「…………」
最後にもう一度だけ、いつもの微笑みを取り戻して、阿良々木教頭は言った。
「そうすれば、代わりに、相原が還ってくる気がしたんだ」
私たちは、何も言えなかった。
親友を失い、親友のために作った思い出の品を燃やす。
…………自分の身に置き換えることすらできない。ただ、やりきれない気持ちに、少しだけ共感することしかできなかった。
……千羽鶴の身代わりは、遅すぎた。
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