第4話最後の声

ルプスレギナが廊下を歩いていると先のドアが開き、女が出てきた。

そこらを歩く町娘より化粧が濃く、服装も派手だ。

二人の目が合う。不可視化は使っていないのだ。

相手の顔には驚愕が貼りつき、それが剥がれると劣等感と嫉妬が残った。人間の中ではなかなかの美人だが、今は宝石を前にした道端の石と変わらない。相手はルプスレギナを避けるように歩き去った。

「研究は順調っすか?」

彼女はジェイの部屋に入ると酒と薬品、そして男独特の匂いを嗅ぐ。

強すぎる匂いに急いで鋭敏嗅覚の特技をカットするが、不快さは消えなかった。

「おお、美人の姉さん。久しぶりだな」

酒で顔を赤くしたジェイは言った。

ルプスレギナが解毒の魔法を使用すると顔の赤みが消える。

「どうなんすか、研究は?」

彼女は再び訊く。

「薬品も手術法もかなり改良できた。錬金術師が作った薬品の一つに患者を眠らせて痛みを消す効果があるとわかったんだ」

「おお、それはすごいっすね」

彼女は素直に驚いた。魔法による睡眠や麻痺などは痛みを感じるのでそれを薬品でどうにかできないかという研究だ。普通の実験体は好きなだけ痛がればいいが、コニールのような持病持ちはそれでは困る。

「燃えやすい薬品だから火気厳禁だが、すごい効き目だ。あと、あんたの部下たちも凄く役に立ってる」

「私のじゃないっすけどね」

彼女は訂正する。

デミウルゴスの提案により彼に治癒魔法を使えるモンスターを貸し出していた。囚人も無限にいるわけではないので薬や手術実験も本来なら回数が限られる。しかし、解毒と治癒魔法で死ぬ直前の個体を実験前の状態に戻すことで実験し放題になった。しかもそのモンスターたちは拷問官という職業のおかげで実験の助手をいくらか務めることができるというおまけ付きだ。拷問と治療は真逆にして近い存在らしい。

「心臓は治せそうっすか?」

「それはまだだ。時間をくれ」

彼は酒をグラスに注ぎながら言う。

「薬と冷却で一時的に心臓を止める方法がわかった。これも画期的な発見だ。時間との勝負だが、危なくなったら治癒魔法で戻すって前提ならやれる。ただ、問題は相手の心臓がどうなってるかだ。小さな穴が開いてる程度なら……おい」

グラスをルプスレギナに取り上げられ、彼は抗議した。

「今から例の人間を運んでくるから頼むっすよ」

「は?今から!?」

彼は目を剥いた。

「そうっす」

もはや時間はなかった。コニールという人間は会談中の発作で症状が一段と悪化している。構想を本に書けなどと言っていられない状態だ。一か八かで手術するしかない。

「もう少し待ってくれよ」

「何千回も練習したじゃないっすか?」

「そうだが……」

ジェイは少し躊躇して言った。

「失敗したら俺は消されるのか?あるいは、成功したらもう用済みってことになるのか?」

ルプスレギナは笑いを堪え切れなかった。

「はは、お馬鹿っすね。ここまで手間をかけて育てた人間を殺すと思うんすか?これからも私達のために知識と技術を磨き続けてもらうっす」

「本当か?それならいいんだが」

ジェイの目から不安が消えた。

「じゃあ、今から連れてくるからよろしくっす」

「待ってくれ!準備があるんだ。3時間くらい時間をくれ」

「1時間の間違いっすよね?」

「……ああ」

ジェイはうなだれた。

「ちゃんと仕事すればご褒美はあげるから元気出すっすよ」

床に転がった酒瓶を見ながら彼女はこの人間を励ます。よく知らないが食事も酒も娼婦もこの都市で最高のものを提供されているはずだ。知識欲だけで動くフールーダと違い、こういう飴を与えないとこの男は仕事が進まないらしい。

「褒美……」

ジェイはその言葉に反応した。

その視線がルプスレギナの美貌から肢体へ移動する。

「なあ……もし治せたらあんたに……あがああああ!」

彼は下あごを押さえながら地に伏した。押さえた手からボタボタと鮮血が滴っている。

「調子に乗りすぎっす」

武器を背中に戻しながらルプスレギナは言った。

身の程を知らないというのは実に面倒だと彼女は思う。酒の中毒は魔法で治せるので問題ないが、飴ばかり与えず鞭による支配に切り替えたほうがいいのでは。

あとでそう進言しようと彼女は決めた。

ルプスレギナが治癒魔法をかけて部屋から出た後、部屋で座り込んでいた男はよろよろと立ち上がり、誰にというわけでもなく呟く。

「あんな女が抱けたら死んでもいいぜ」

ジェイは手術室へ向かった。

そして目的の部屋へ入って数秒後、その部屋は爆音とともに吹き飛んだ。



「わけがわからないっすよ」

ルプスレギナは言った。

ジェイは爆発で死亡してしまった。もちろん蘇生できない。

念のために監視させていたシャドウデーモンの説明は要領を得なかった。ジェイが何もしていないのに部屋が爆発したというのだ。テロや関係者の裏切りの可能性もあり、徹底的に調査が行われている。

実はジェイが監視の目を欺くような手段で自殺したという線も考えたが、そういう兆候はなかった。褒美にも満足していたはずだ。

彼女は皆目見当がつかなかった。

「……部屋の薬品に火がついたんじゃないかな?」

話を聞いたコニールはベッドで寝たまま言った。

今まででもっとも弱弱しい声だ。

助かる唯一の可能性は少し前に爆発で吹き飛んだ。もはや望みはない。

なぜこの男に事の次第を話したかといえば、手術中止を伝えた際に男が爆死したと聞いてやけに興味を示したからだ。また、原因が専門的なものならルプスレギナには解決不可能という理由もある。

「火がつくものは持ってなかったらしいっすよ」

「火気厳禁の薬品を使うから気をつけていただろうね。それなら……」

彼は目を閉じる。

それから十秒ほど経って目を開けた。

「ああ、そうか。電気かも」

彼は呟いた。

「電気?」

「君も経験ないかな。雪の精が噛んだって僕のところでは表現するけど、寒い時に金属を触ると指先がバチッとなるやつだよ」

「ああ、あれっすか」

彼女もすぐ思い出す。ダメージはないが鬱陶しいやつだと。

「どういうわけか人間の体は僕が使う実験瓶のように電気を溜めることがあるんだ。服の素材やいろいろな条件で決まるんだけど、その状態で金属に触ると小さな火花が上がる。その死んじゃった人はガスのたまった部屋でそれが起きたんじゃないかな?」

「えーと、つまり……」

ルプスレギナは嫌な予感がしつつ結論を求めた。

「つまりね、その爆発は単なる事故だと思う」

「事故……っすか……」

未知の攻撃や魔法ではなく事故。

あれだけ時間と手間をかけた男が死亡した理由が事故。

そのくだらなさにルプスレギナは大きな徒労感を味わった。シャドウデーモンには万が一に備えてジェイの裏切りや逃亡、自殺も止めるように命じておいたが、運命の気まぐれまでは防げなかったということだ。

「今まで同じことが起きなかったのは数日前から急に冷えてきたからだろうね。今度からはその薬品の扱いに気をつけたほうがいい。部屋にガスがたまらないようにして、関係者は部屋に入る前にどこかへ触って電気を逃がすといいよ。役に立ったかな?」

「……まあ、うん、そうっすね」

原因不明のままになるよりマシかと彼女は思った。

これから注意すればいいことだ。

「ありがとっす」

彼はそれを聞いて少し笑うと胸を押さえる。

「ああ……そろそろ来るな」

「あー、そろそろっすか」

ルプスレギナもその意味はわかる。発作だ。

「今度こそアウトっすかね。じゃ、さよならー」

彼女は立ち上がった。

「帰るのかい?」

「アインズ様に協力する気がないし、もう助からないっすから」

手を左右にひらひらさせて部屋から出て行くルプスレギナ。

ドアが閉まる音がすると部屋にぽつんと病気の男が残った。

彼は天井をぼうっと見る。

再びドアが開いた。

「いやいや、『死にたくないからやっぱり吸血鬼にしてください!』って泣きついてくる所じゃないっすか?雰囲気的に」

「そんなことはしないよ」

彼はさらりと言った。

その様子にルプスレギナは「はあ」とため息を漏らし、先ほどまで座っていた椅子に戻った。

「帰らないのかい?」

「吸血鬼化する意思を最後まで確認するのが仕事っすから。ねえ、なんでそこまで拒否するか聞いてもいいっすか?宗教上の問題?」

彼女は訊く。

人間がアンデッドになることを嫌う理由はどれも馬鹿馬鹿しいものだ。この人間も人間の尊厳や神の教えなどという戯言を口にするのだろうかと思った。

「僕はそういうものを信じてない。ただ、母さんが神官だったんだ。信仰系魔法も少し使えた」

彼は天井を見ながら言った。

「え?自分は信じていないんすか?」

「ああ、信じてない。神の力を使うっていうけど、それが神だという証拠がない。なんらかの現象なのかもしれない」

ほほう、とルプスレギナは思う。

人間は神の加護を受けていると信じるほど馬鹿じゃないらしい。

「じゃあ、吸血鬼になっていいじゃないっすか?」

「僕個人はね。でもね……」

彼はルプスレギナを見る。

「母さんが死ぬ前に言ったんだ。『弱い体で生んでしまってごめん。善なる神を信じられないかもしれないけど、どうか信じて』と。そう願われたからそうする。理屈ではいないと思ってるけど」

「願われたから?」

彼女は訊く。

「そう。母さんが僕に何かを求めるなんてそれまで一度もなかった。僕に何度も治癒魔法をかけて、治らないからいつも謝ってたよ。僕に何かを願ったのはその時だけだ。だから願いを叶えたい」

「もういないんすよ?」

「君だったらどうする?」

彼は訊きかえした。

「自分を生んでくれた人がたった一つを願いをしたらどうする?」

それは質問という名の挑発だった。

「親という言い方は不遜っすけど」

ルプスレギナはそう前置きする。

「ええ、必ず願いを叶えるわ。聖母になれと願われてたらそうしてた」

「そのころころ変わる顔。どっちが本当の君なんだい?」

「いや、それ誤解っす」

彼女はまた切り替わる。

「たまに猫かぶってるって言われるけど、少し心外なんすよね」

彼女は自分の胸に手を当てる。

「これも私」

優雅で気品ある声。

「んで、これも私っす」

軽薄で陽気な声。

花のように笑う顔は死の穴に落ちてゆく男にも微笑をもたらした。

「最後にお願いがあるんだけど」

彼の額にじんわりと汗が浮かんできた。

発作が始まっているのだろう。

「何っすか?」

「僕の家、かなり散らかってるだろう。死ぬ前に片付けようと思ったけど、結局できなかった。もしよかったら……」

「いや、めんどいっす。死んでも嫌っすよ」

沈黙が生まれた。

「引き受けてくれるところじゃない?雰囲気的に」

「そんなことはしないっす」

彼が先ほど言った言葉を返すルプスレギナ。

「私はアインズ様と至高の御方々だけのメイド。だから、それ以外のためには働きたくないっす。死に際の頼みだから聞いてもらえると思ったんすか?そんなキャラじゃないっすよ」

「君らしいなあ。まあ、いいか」

彼がそう言うと本格的な発作が始まった。

ルプスレギナは吸血鬼化の意思を確認した。最後まで。

彼は拒否した。最後の最後まで。

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