第2話悪魔の声

「あの薬草も効きませんでしたか」

ンフィーレアが残念そうに言った。

以前に研究用として渡された幻の薬草のことだ。万病に効くといわれ、どのような方法で入手したかは不明だったがポーションの研究に大いに役立った。それが一部必要になったと言われたのは2日前のことだった。

「万病に効くとかいいながら効かないとか詐欺っすよ」

ルプスレギナは不機嫌そうに言った。

「まあ、あくまで言い伝えですから」

ンフィーレアが苦笑する。誰に何のために薬草を使ったのかを彼は聞かない。はぐらかされるのはわかっているからだ。

「魔法も駄目。薬草も駄目。心臓の病気っぽいんすけど、何か方法ないっすかねー」

ルプスレギナは答えを期待して呟いたわけではない。ただなんとなくだった。

しかし、ンフィーレアがしばらく考えた後、口を「あ」の形にしたことを彼女は見逃さなかった。

「なんか心当たりあるんすか?」

「あ、いえ……」

彼は何かを躊躇しているようだったが、すでに狼の口に入った子兎のようなものだ。

「あー、私に教えてくれないんすかー?私とンフィーちゃんの仲じゃないっすかー」

ンフィーレアの服の袖をぴょこぴょこと引っ張るルプスレギナ。

「トロールから守ってあげたことを忘れたんすか?エンちゃんに内緒であんなことまでしたのに……」

「何を言ってるんですか!?」

ンフィーレアが絶叫した。そしてエンリやゴブリン達が近くにいないかを確認する。

「僕たちは何もしてませんよ!」

「まあまあ。そこは冗談っすけど」

そこでルプスレギナはにやりとした。

「話してくれないなら村中にそういう噂が流れることもなきにしもあらんずんば、みたいなー」

彼女の大きな瞳の中にンフィーレアの絶望した顔が映る。

「ああもう!」

彼は頭を押さえた。そして少ししてから話し始めた。

「心当たりというか、可能性の一つとして聞いてください。神官の治癒魔法とは別に、かなり乱暴な方法で病気や怪我を治そうという考えがあるのは知ってますか?」

「手術というやつっすか?」

彼女はすぐに話の方向を理解した。

「ええ、神殿関係者の前では出せない話題ですけどね。といっても、冒険者や一般市民も神官がいない時に応急手当として傷口を縫ったりするでしょう?その延長として人体の構造を調べて病気や怪我で人が死ぬ理由を探り出そうとする人々がいるんです。僕もその考え自体は決して異常なものじゃないと思うんです。僕だって薬草が体のどこにどう作用するのか興味はありますから」

「その人たちなら魔法でも治らない病気を治せるかもってことっすね?」

「ええ、まあ……」

彼は一瞬視線をそらした。

「ンフィーちゃんは隠し事が下手っすねー」

ルプスレギナは笑う。

「え?」

「その治療法を研究してる人も知ってるんじゃないっすか?」

ンフィーレアは降参を示した。

「ばれましたか」

「ばればれっすよ。それで、どこの誰なんすか?」

「あの……その人の所に行くんですよね?神殿に引き渡されたり、彼の立場がまずいことになったりしませんか?」

「それは心配ないっすよ」

ルプスレギナは微笑んで言った。

何の根拠もない。というか、どうでもいい。

「ある人を治療できないか頼んでみるだけっす」

ルプスレギナは考える。この人間は真実を知ったらどんな顔をするだろうか。ナザリックが利用すると決めた人間。その人間は利用されるしかない。彼らの事情や意志などに意味はない。

使われる命と書いて使命と読む。彼らには使命があるのだ。私たちの玩具になるという使命が。

「ささ、早く教えてほしいっす」

その笑顔にンフィーレアはゆっくりと知人のことを話し始めた。



木のドアをノックする音が3度した。

応答はない。

さらに三度すると「誰だ?」という太い声が聞こえた。

「優しい神官さんが来たっすよー」

楽しげな声は暴力的なドアの開放音で迎えられた。

「ついに来やがったか、神殿の野郎ども!俺を捕まえようって気なら……ん?」

大きな棒を持って出てきたひげ面の男は玄関に誰もいないことで口を止めた。

「どこだ?ガキの悪戯か?」

「ここにいるっす」

先ほどの美しい声は今度は背後から放たれ、彼は凍りついた。

そして振り向くと今度は顔が赤くなる。魔法による恍惚状態のように。

「だ、誰だ?」

「ンフィーレアから話を聞いたんすけど。ジェイはあなたっすか?」

その言葉に彼は目を見開いた。

「あいつが俺を売ったのか?」

「紹介したんすよ」

彼女は訂正する。

「勘違いしてるみたいだけど、私は神殿の関係者じゃないっす。あなたの研究してる手術で治してほしい奴がいるから来た依頼人っすよ」

「手術の依頼だと?」

ジェイは周囲を見た。

「中に入りな」

彼はルプスレギナを中に入れると持っていた棒をドアにかける。

閂だったらしい。

彼女はわずかな薬品の臭いを嗅ぎ取った。

「あいつから何を聞いた?」

彼は乱暴に椅子へ座ると相手に椅子を勧めることもせず聞いた。

「あなたが死体を掘り起こして人体の研究をしてると聞いたっす。それで心臓の病気を治せないっすか?」

彼女は二重の目的で質問した。一つは文字通りある人間を治すため。もう一つはこの人間の価値を知るため。治癒魔法を超える技術をすでに身につけている、あるいはそうなる兆候があるなら隔離したほうがいいかもしれない。

「心臓だと?」

ジェイは狂人を見る目をした。

彼は立ち上がり、棚の横に移動すると体重をかけてそれを押す。その向こうにはいくつも紙束とガラス瓶が保管されていた。瓶の中には心臓、肺、肝臓などが液体に浸かっている。薬品臭の原因はこれだろう。

「俺のところに来るってことは生まれつきの病気だろう?」

当たりっす、とルプスレギナは答えた。

「心臓の病なら何度か死体で見たことがある。こういうのだ」

彼が紙束の一つを広げると詳細に描かれた心臓の絵が現れた。あちこちの角度から全体像や解剖図が描かれ、彼女の読めない文章がいくつも書き記されている。この世界の常識からいえば狂気の絵だがルプスレギナはなんとも思わない。

「こいつはこの弁の形がおかしい。官の内側が詰まったり、膨らんだりするタイプもあるが生まれつきの病気は心臓の形が普通と違うんだ。この2つの血管が……」

「えーと、結局治せるんすか?」

ルプスレギナは要点だけを訊く。

「無理に決まってるだろ」

男は怒って言った。

「他の臓器なら切るなり繋げるなりできるはずだが、心臓は動いてるんだぞ?動いてる時に切ったら血が噴き出して終わりだ。かといって心臓を止めたら人間は死んじまう。人間の体で一番手が出せない場所だ」

「時間の無駄だったっすね……」

彼女はため息をついた。

「ちなみに、他の生まれつきの病気なら治せるんすか?」

「治せるかもしれねえ。やったことがないからわからん」

「は?何のために研究してるんすか?」

ルプスレギナの呆れた顔がジェイの怒りを増した。

「文句は神殿に言え!あいつらのせいで死体の解剖もおおっぴらにできねえし、見捨てられた病人もここに来ねえ!」

彼は手に握った紙を握り締めた。

「体を切り開くのが野蛮だと?本を開かず中を読めるか?森に入らず森のことがわかるか?少しは考えろっての!」

テーブルを殴る音が部屋に広がった。

「じゃあ、たくさん解剖すれば治せるようになるっすか?」

「……は?」

「生きた人間でやれば技術の向上も早いっすよね?」

「……え?」

ジェイは意味不明という顔をした。

ルプスレギナは怪しい笑みを浮かべ、大きな瞳の中で闇がゆらゆらと動き出した。



ジェイは暗い獄舎の前にいた。

あの美しい女はルプスレギナ・ベータと名乗り、好きなだけ人間を解剖できる場所があると申し出た。生きた人間でさえ解剖できると。

もちろん彼は一度断った。自分は人間を幸福にするために活動しており、何人死ねば何人助かるなどという神様気取りの算数をする気はなかった。たとえ100万人が助かろうと無実の命を奪っていい理由はない。美貌の魔女に対して彼はそう宣言した。

しかし、ルプスレギナはある場所へ彼を連れて行った。

いかなる魔法によってかエ・ランテルから遠く離れた場所へ彼と転移し、大勢の人間が閉じ込められた建物へと入った。ここがどこなのかについて話すことは禁じられた。

「ここにいる人間は何の罪を犯した?」

ジェイは恐る恐る聞く。

もはや自宅にいた時の慇懃無礼な態度は取れなかった。魔法が使えるというだけでなくこんな場所を顔パスで通れるのだからかなりの地位にいるはずだ。

「八本指って組織の構成員っすよ」

その名前は彼も知っている。世情にあまり詳しくない彼でもその悪名を何度も聞いていた。

「文句なしの重犯罪者ばかり。これを使って大勢の命を救えるなら問題ないっすよね?」

ルプスレギナはにっこり笑った。

「いや……裁判があるだろ?法律はどうなる?市民に知らせずそんな事をして許されるわけがない」

彼は反論した。

「えーと、あそこにいる男はお金のために3人家族を殺したんだっけ?ばれないよう樽の中に両親の死体を詰め込んで、赤ん坊は生きたまま入れて蓋を閉めたと言ってるっす」

牢の向こうに座る一人の男を指して彼女は言った。

「あっちのは孤児2人を嬲り殺した罪っすね」

ルプスレギナは次々と囚人の罪状を説明していった。死刑以外はありえない罪ばかりであった。

「彼らが反省してると思う?」

彼女の口調が変わった。

「彼らに何の生産性もない死を与える?それとも罪のない人々が救われるように活用する?どちらが正しいかしら?」

悪魔の誘惑。ここで引き受けたら自分も悪魔になる。

彼の倫理観が悪魔を祓おうと言葉を紡ぐ。

「それはただ自分を正当化して……」

「あなたは自分を正当化していないの?」

悪魔は耳元で囁き続ける。

「安全地帯から一歩も出ずに口を動かすだけ。人の命を救う?今まで何人くらい救ってきたのかしら。あなたの倫理とやらは他人のため?それとも自分のため?」

その言葉は呪文のようにジェイの心を縛る。

彼は3人兄弟の末弟だった。2人の兄は病で死んだ。決して治せない病気ではなかったが治療費が払えなかった。彼は神殿が治療費を取ることで独立機関として活動できるという理屈は理解していたが、心は納得できなかった。薬師から知識を学び民間療法師として貧しい者を治してきた始まりはそこだった。彼は人体を研究するために夜な夜な墓場へ出かけ、時にはスコップや聖水を武器として動く死者と戦いながら知識を増やしていった。

しかし、人体の解剖図が増えてゆくにつれて不安も大きくなった。この知識はいつ役に立つのだろうか。いや、自分は役立てる気があるのか。ずっと神殿の責任にしてきたが彼らと戦うことはしなかった。

「道具や薬はあなたが望むだけ用意するわ。大勢の人を救いたくない?」

彼は目の前の囚人たちを見た。

やがて死刑になる人間たち。彼らにもし正気が残っているならせめて医療の進歩に役立ちたいと言うのではないか。それさえ嫌というならもはや人間ではない。

「俺が…大勢を救う……」

「そうよ」

ルプスレギナは嗤った。

理由は二つ。彼女が述べた囚人たちの罪は出鱈目であること。そして彼には初めから選択肢などないこと。ここで断るなら彼をエ・ランテルの自宅に帰したりしない。強制的に研究させるだけだ。自らの意志でやってくれるほうが効率が良いので唆したに過ぎない。

「……やる……やってやるさ」

彼は目の前にぶら下がった黄金の糸を掴んだ。

その後、この男は切り裂き魔のジェイと建物内の人間から呼ばれることになる。

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