秋雨前線

きんとう

秋雨前線

 今日はどしゃぶりの雨だ。幸い、雨靴は履いてきたが、脛の半ば辺りまでしかないこの靴では、凌ぎ切れるかは分からなかった。本当ならば今夜は、中秋の名月が見られたはずだったのに。私は心底落ち込んで、青い雨傘を手慰みにぐるぐると回し続けた。これだけでも残念なことなのに、この記録的な大雨にも関わらず、授業は休講にならなかった。山手線がかろうじて動いており、また警報が出たのは授業開始 5分前だったからである。当然ながら雨脚は強く、埼京線等は線路が水没して運転を見合わせていた。こういう時、いつもなら学校近くのマンションに一人暮らししている友人の家に駆けこむのだが、なんと帰宅難民になった彼氏を家に泊めるとか言うのでそうもいかない。また運の悪いことに今日は仲間内で自分一人しか学校にはいなかった。最寄り駅まで電車で一時間半はまだ雨に濡れずに済むものの、駅から家まで 30分、このちっぽけな折りたたみ傘で雨をよけつつ、ドブネズミのようになりながらでもなんとか家にたどり着ければ、御の字だろうか。そんなことを考えていた時だった。

「こんちわ」

突然、雨傘の影から大きな黒い瞳の青年が目の前に現れ、私の心臓は一瞬で跳ね上がった。思わず一歩後ろに下がったのがよくなかった。私は足元の水溜りをしこたま踏みつけて、ばしゃんと盛大な音が上がった。泥水が布張りの靴を容赦なく襲う。私は驚きのあまり、こんちは、と素っ頓狂な声でオウム返しするようにあいさつを返すことしかできなかった。しかしそんなことは今の私には関係のない。私はまじまじと彼の顔を凝視した。こんなことがあるだろうか、いつも遠くから見ているばかりだった憧れの我が君が目の前に現れたのだ。赤信号が青信号に変わり、待っていたバスが目の前に停車した。はっと我に返ってバスに乗り込むと、彼もまた私の後ろからバスに乗り込んできた。折り畳み傘を必死に畳む私の隣で、彼はビニール傘をゆうゆうと畳み、スーツにかかった雨をはらい落とした。今日は何かの説明会でもあったのだろうか、彼は黒いスーツを着込んでいて、背が低いにも関わらず大人らしく見える。実際、彼も私も成人した大学生であるのだし大人であるのは当然のことなのだが。私は彼のその姿を見ながら、月の初めにお参りしたばかりの神社に感謝した。あの日、少し早起きして、学校の通り道にある神社に寄り道して本当によかった。縁結びのお守りを買っておいて本当によかった。手提げかばんにいくつもぶら下がったお守りを、私はそっと握りしめる。憧れの君は黙って私の隣に立ち、ケータイをいじっている。ああ、私には興味がないんだなあとつくづく思い知らされるが、こんな機会を逃しては女の名が廃るというものである。幸いにして、雨の日だというのにこのバスには同じ大学の学生と思しき若者は人っ子一人いなかった。私は勇気を出して口を開いた。

「め、珍しいね… バス、乗るんだね」

「まあ、だるい時はね。今日、雨だし」

彼はケータイから目を上げず、特に何の感情もこもっていなさそうな声で短い返事をした。私はそうだよね、と答えながら、心の中で頭を抱えた。縁結びの神様は出会う機会は与えてくださったようだが、そこからのことは考慮に入れていらっしゃらないらしい。駅にバスが辿り着くまでの十分間、私は黙ってこの機会を失うわけにはいかない。だが、かといって話せる共通の話題なんてそもそもないのである。私がない頭をひねってなんとか話題を絞り出そうとしていると、隣から何故だか視線を感じた。顔を上げると、憧れの君がケータイを触る手を止めて、私のカバンをじっと見つめている。私の視線に向こうも気づいたのか、彼の整った顔がこちらを向き、互いの目線が交わった。私の心臓は瞬く間に跳ね上がり、顔面の温度はこの寒い中、 100℃を超えるのではないかと感じられるほどに熱くなった。

「あのさあ」

私が何かを言い出す前に、なんと彼が口火を切った。

「な、なに?」

返事をしながら、今日は本当に珍しく運のいい日だとつくづく思う。いつもなら私のことなんて無視するか、運よく挨拶を交わしてくれてもその後は会話なしが関の山である。それだというのに今日は憧れの君自ら挨拶してくれた上に、何か話をしようとしてくれているのである。私の心はそれだけでも踊った。しかし、

「それ、縁結びのお守り?」

という彼の問いかけに、一瞬にしてバスの中の温度が氷点下まで下がった。一番見られたくない相手に、縁結びのピンク色のお守りを見られてしまった。しかも、四つもつけているところを見られてしまっては、本当にどうしようもない。言い訳をしようにも、でかでかとこれみよがしに「縁結び」と金糸で刺繍がしてあるから、無理がある。私は夏祭りの屋台ですくい揚げられた金魚みたいに口をぱくぱくさせるという無駄な抵抗を試みた後、観念してお守りを彼の目の前に差し出した。

「うん…あはは、 二十一にもなって彼氏ナシじゃあ、やりきれないでしょ?」

言ってしまってから、ああ、しまったと思ったが、時すでに遅し。憧れの君は、「じゃあ俺も彼女いないし、これぐらい気合い入れてつけないとだめか」と言ってくすくす笑いながらお守りを眺めている。こんなことでは、私が男に飢えているそこいらの女と一緒だと思われてしまう。いや、完全に彼女らと違うとは言い難いが、私は少なくとも一人に的を絞っているのであり、誰でもいいというわけでなないのである。しかし、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼は、

「結構いっぱいあるけど、誰と縁結びする気?」

と真顔で聞いてきた。もう、よっぽどこの場で全てぶちまけてしまいたかった。ただ、私と憧れの君は学科も違えばサークルも違う、何故知り合うことができたのか不思議でならないくらいの間柄であり、ここで思いを吐露することは選択肢に入らなかった。

「いやーその… こういう願い事は、人に話しちゃいけないっていうから」

だからちょっと言えないかな、と私はなんとかそれらしい回答をして誤魔化した。ひとまず、彼は納得したように頷いた。それから「そういえば前にも神社にいたよね」と言った。

「あ、うん…いたかも」

「神社、好きなんだ?」

予想していなかったところに食いつかれたので、私はしどろもどろになりながら、まあそうかな、と答えた。彼は私に気づいていたのに、自分が気づかなかったことにも驚きだったが、今更ながら自分は憧れの君が好きな物を何一つ知らないことに気付いたのである。もちろん、元々接点のない相手なので当然と言えば当然である。そもそも、私はどうしてこんなに何の関係もない相手と顔見知りで、そんな相手に憧れているのだろうか?自分でも不思議なところだ。

 しばらく、沈黙が続いた。バスは雨によって渋滞した道に足止めされて、のろのろとしか前進しない。それでも私はひどく満足していた。常日頃であれば、一日に一度ご尊顔を拝することができたらラッキーな方である為、こんな風に話ができるなんて奇跡以外の何物でもない。

唐突に、憧れの君は私に向き直った。

「今度さ、神社、一緒にいかない?」

彼の大きくてまんまるの黒い瞳がこちらをじっと見つめている。急に顔が灼けるように熱くなって、私は自分の血圧が限界に達したことを悟った。さっと目を背けると彼は何を勘違いしたのか、「あ、嫌ならいいよ」等と言ってあっさり引いてしまったので、私はあわてて「是非連れて行ってください」と半ば土下座しそうな勢いで食らいつく。彼は、私の目の前では今まで見せたことのなかった快活な笑顔を見せて笑った。そういえば、と私は去年のことを思い出した。そういえば、去年の秋ごろだった。ちょうど今ぐらいの時期で、紅葉が美しく、黄色い葉が風に吹かれて渦を巻いていた。あの日、学校の裏にある神社で盛大にすっころんだ私の後ろで、笑いもせず助けようともせず、ただじっと、私の顔と足元を眺めていた青年がいたのである。今の今まで忘れていたが、あれは、今、目の前にいるこの人だったように思うのである。それから、あの日の不思議な青年が私の日常生活の端々に現れるようになった。いや、前からきっとそこにいたのだろうから、何かと目に付くようになった、というのが正しいだろう。あの人がいったい誰なのかが無性に気になって学校中の友人の伝手をたどっているうち、いつのまにかそこにいる青年は私の憧れの君になった。それからほどなくして、世界史の授業でも日本史の授業でも最前列で眠りこけている後ろ姿があったことに気がついた。

そんなことを思い出していた時、まるで待ち構えていたかのように、バスのアナウンスが「まもなく渋谷駅、渋谷駅」と告げた。いつもならば一刻も早く着いてくれと願うのに、今日ばかりはこのアナウンスが憎らしい。

憧れの君はじゃあまた今度、と言いながら、安っぽいビニール傘の留め具をはずして、私より先にバスのタラップを降りた。

「あ、言い忘れてたけどさ」

彼はそういって、彼の後ろについてバスを降りたばかりの私を振り返った。そして、私の真後ろに視線をやる。

「神社の境内に、化け狐は連れて来ないほうがいいよ」

ざああ、と外の雨音が響いている。雨のせいではなく、体から血の気が引くのを感じた。憧れの君は、それじゃあ、と言い残して足早に去ってしまい、その場には私と、私の足元で不満そうな唸り声をあげる、狐だけがとり残された。狐は、茫然としたまま傘も差せないでいる私の足首を鼻先で突いた。それから歯をむき出しにして大きな口を開けると、「さっさと傘をささないか小娘」と罵った。今日は、中秋の名月が見られるはずであった。そういえば、狐が月見団子が食べたいと言っていたっけ。私は駅の中にある食料品店に向かおうと、足早に歩きだした。足元に狐がまとわりつき、危うく足を取られかけて、水溜りが飛沫を上げる。雨脚は次第に弱まり、だらだらどんより、降り続くばかりである。

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