亡霊の説明会
「おいっ、そこの君。もう火はこっちまで来ているぞ。すでにここの建物の人間は全員避難した。君も早く逃げろ」
その女性は煙が立ち込める室内に、あろうことか長椅子にゆったりと腰掛けていた。こちらの言葉に気づくと、視線を外して僕を見た。
「大丈夫ですよ。わたし、ここで死ぬつもりですから」
「なに馬鹿なことを言って――――」
僕の腕をぐいと掴んで、女はしー、と唇に指をあてた。女は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。異形めいたぐるぐるとした瞳。
「ねえ、あなた。良かったら死ぬ前のわたしの話、聞いていきません? せっかく出会えたんですもの。そうしたら、わたしは満足するかもしれない」
僕はその女に逆らえなかった。催眠術にかけられたように、その場に縫いつけられてしまったのだ。
煙が致死量を感じさせるまでに漂っていく。歪んでいく部屋を背景にして、女は淡々と話し始めた。
ねえ、見えないものとか、幽霊とかって、信じます? ふふふ、狐につままれたような表情をしていますね。
わたしは十五年前、この建物に来たことがあります。夫と子供と一緒に。二階がカフェになっていて、三人でゆっくりお茶していたところでした。私たちは子供が産まれたばかりで、本当に幸せの真っ最中だったんです。
その時、突然爆発音が聴こえました。その次に、何かが燃える異臭が充満しました。振り返った時には気づくにはすでに遅く、炎はめらめらと燃え盛っていたんです。
知ってますか? 人間って、いざという時に腰が抜けてしまうものなんですね。パニックになって地面にうずくまったわたしに、夫はわたしを立たせてくれました。そうして、子供を抱いて一心不乱に逃げていたら、三人で逃げていたつもりだったのに、気がつけば私たちは二人になっていました。
わたしの網膜に、夫の最期の姿がこびりついていました。そしてわたしは、全て自分のせいだと悟りました。
それからは悪夢でした。葬式で夫の家族になじられ、遺体が存在しない空っぽの棺に涙すら出てこなかったんです。人間、超過した悲しみにさらされ続けると、何の感情も出てこなくなるんですね。生きる亡霊のような日々。周りから非難され、奇異の視線を浴び続けて、わたしは、わたしじゃなくなっていくのを感じました。
それでも、我が子さえいればそれでいい、と思っていたんです。でも、わたしの子供は幼さゆえに周りの言葉を信じて、わたしのことを蔑むようになりました。関係がゆっくりと、しかし着実に悪化して、わたしは気がつけば子供に手をあげるようになりました。そして、高校生なってしばらくして、子供は家を出ていきました。16歳の時でした。
その時、わたしは気がついたんです。自分はずっと、この現状に傷ついていたことを。全て自分のせい、自分の犯した罪のせいだと思っていたけれど、本当はずっと、心の底では悲しんでいた。自分もまた、自分に石を投げる一人であり、そのことをずっと、当然だと正当化していたのです。
……ねえ、あなた。この建物に火をつけたわたしを、狂女だと笑いますか?
そんなこと、ないわよね。だってあなた、わたしの夫ですもの。
わたしはずっと気づいていた。あなたはずっとここにいることを。成仏できずに、わたしをずっと待っていたんでしょう?
ごめんなさいね、わたし、こんなに変わり果てていて。気がつかなかったでしょう? 成仏できずに、亡霊になってもなお、わたしを助けようとしてくれるなんて、あなたは優しいのね。きっと、わたしがあなたを視えるようになったのも、わたしが死にかけているからだわ、ほら、こんなにも―――――
あなた、泣かないで。あなたが救ってくれた命に、こんな結末を迎えさせて、ごめんなさい。でもわたしが来たから、もうあなたは一人じゃない。二人で天国に行きましょう。
あなたのことを愛しているわ。永遠に。
それじゃあ、おやすみ。もう二度と目覚めませんように。――――さようなら。
2022年X月、一人の狂った女性が放火をして、一人で死んだという。
女の死体は笑ったような、抱きしめたような姿勢で遺っていた。もちろん相手は存在せず、自分で自分を抱きしめるような体勢だったらしい。
ただ、その焼死体に、誰かから強く抱きしめられたような跡があったらしいが、それが何だったのかは定かではない、という。
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