馬鹿なメリメがやっと死んだ
真っ白いピアノの鍵盤を叩く、その細長い指が好きだった。
笑うたびにさらさら動く、ハープの弦のように透き通る長い髪が好きだった。
でも、今は――――――
「メリメ」
僕が声をかけると、かつて僕の彼女だった何かは振り向いた。
ぼろぼろとした鱗のような指。ごわごわざらつく髪。
顔だけは、まだ、なんとか元のかたちを保っていたけど、それもいつまでもつのだろうか。
「メリメねえ」
メリメは語る。ハミングするように。
「お魚の夢を見てたから、寝坊しちゃった」
かわいい二十歳のメリメ。中に五才の魂が宿ったままに。
僕と僕の彼女が、暴走したトラックによる交通事故に巻き込まれて、2人とも生きていたのは奇跡だった。
それ以外は絶望だった。僕の彼女は長い間眠りについた後、「メリメ」として目が覚めた。
メリメ。彼女が五才の頃に読んでいた、ファンタジーなおとぎ話の絵本に出てくる主人公らしい。
異国の森のお姫様。魔法が使えて、ケーキが大好き。空は30mも飛ぶことができる。
僕は仕事が終わってから、毎日のようにメリメが入院している病院に行って、そこで話をした。メリメとはまったく会話が噛み合わなかった。ふいに、僕は気づいた。メリメは僕と会話しているんじゃない。全て自分自身に語りかけているのだ。
メリメは話す。囁くように。
「ここはどこ? 早く妖精の国に帰らないと」
ごめんね、メリメ。僕は謝った。ここが妖精の国じゃないことは言えなかった。メリメはしばらく黙った後、自分の左手の小指をくるくる回して弄び始めた。
二度目の静寂が訪れた時、ふいに病室の扉が開いた。中肉中背の平凡な男性がこちらに歩み寄ってくる。
「君か…。また来てくれていたのか」
その男性は親しみとやりきれなさを足して、それを疲れで薄めた表情をして口の端を歪ませた。
「義兄さん」
男性は僕の彼女の兄だった。
病室から出て、喫煙所で義兄さんと煙草を吸う。
義兄さんはふーっ…、と気怠く煙を吐いた後、黄色く濁った眼を僕に向けた。
「君、つらくないのかね」
「つらい…。メリメに会うのがですか?」
「ああ、そうだよ。こういう言い方ですまないが、君が無理をしているんじゃないかと、心配になってしまってね」
僕はかぶりを振った。
「…メリメに会うことで、僕といた時の記憶を思い出させたいんです。メリメが元の彼女に戻っている可能性は、明日、一時間後、一秒後にも存在します。僕はその日まで待ち続けます」
僕の言葉は、ショーのような一言で締められる。
「奇跡を信じていますから」
毎日毎日、カレンダーの紙をちぎっていく。
日がな一日病院へ出向き、メリメと話し、何の収穫もなく終わるのが僕の日課になった。
「メリメ、今日はねこの日なの。ニャーニャー、ニャー……」
ふと、足元を見る。僕の足は棒切れみたいに、ずいぶんと痩せた。これではどちらが病人かわからない。
「君」
義兄さんに声をかけられてはっとした。義兄さんと僕は病院から帰るバスに乗っていた。
「君は少し休んだ方がいい」
義兄さんは穏やかに、しかしきっぱりと言った。純度の高い善意で言っていることがわかる。
「駄目です。義兄さん、僕が彼女をどんなに愛していたのか、あなたにはわかりはしないんだ。彼女は僕の生きる全てだった。彼女を裏切ることは、神を裏切る以上のことで、それは許されない。僕は死ぬまでこれをやり続けなければいけない」
僕がひとしきりまくしたてた後に、義兄さんはため息をついた。
「君は異常だよ」
バスは駅に着いたので、僕はそこで降りた。
家に帰り、布団にくるまっても、眠れない日々が続いていた。
睡眠薬をばりぼり噛み砕き、喉の奥にぎゅっと流し込む。…眠らなければ。
強迫観念じみた睡眠を無理やり受け入れた。身体がすーっと浮くような感覚の後に、やがて一つ、夢を見た。
真夜中のように暗い世界の中で、彼女が後ろを向いて立っている。
僕は彼女の名前を呼んだ。
彼女はくるっと振り向いた。どこをどう見ても彼女であるはずだったのに、そこにいたのはメリメだった。
体中を引き裂かれるような憎悪が、僕の全身を貫いた。僕はメリメの首を絞めていた。
「だましたなーっ」
僕の絶叫にも似た怒声が、暗い世界に虚ろにこだました。
「よくもだましたな! お前なんて、お前なんてお前なんてお前なんて―――――」
目が覚めると、日は過ぎていた。時計を確認したら昼の十二時だった。
スマートフォンにはいくつか着信の履歴が残っている。どれも義兄さんからだった。
寝すぎて呆けたままの頭でかけ直す。義兄さんはすぐに電話に出た。
「妹が死んだ」
義兄さんは死に切った口調で言い放った。
「…葬儀の準備をする。君も手伝ってくれないか」
メリメはマシュマロを喉に詰まらせて死んだ。死体はびっくりするほど美しく、まるで奇跡みたいだった。
とんとん拍子で葬儀が決まり、気がついたら僕は喪服を着て葬儀場の椅子に座っていた。葬儀場ではメリメの葬式が行われていて、目の先にメリメの遺体が棺の中に納められている。
メリメの長いまつげ。まるで彼女に戻ったように時が戻って、白い指、艶やかな指、そして、
細長い首は、僕が締めた。
僕がメリメを殺したんだ。
僕は勢いよく椅子から立ち上がった。葬儀に参加している人々が一斉にざわついた。
「あーっはっはっはっはっは!」
僕は腹を抱えながら笑い転げた。
「死んだ! あの馬鹿で、醜いメリメが死んだ! メリメは僕が殺したんだ!」
青ざめた義兄さんの顔が、ひどく遠くに見える。誰か、こいつをつまみ出せ! と声がした。
「あははははは! メリメが死んだ! 馬鹿なメリメがやっと死んだ! メリメが、メリメが、メリメが――――」
突然体がふわっと浮いた。僕は葬儀場の職員に掴まれて追い出されようとしていた。みんな何故笑わないんだろう。これほどまでにおかしく、ねじれた喜劇がこの世にあっただろうか? ああ、早く拍手をくれないだろうか。僕は今、どんな高名な役者よりも、高らかに演じ上げてみせたというのに!
笑いつかれて涙が出てきて、それでも笑った。笑うことしかできないように笑った。ぼろぼろと流した涙は丸く、光がきらめいて、そのまま地面に落ちていった。
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