逃走
中山准次
逃走
恭子の弾くピアノが好きだった。
恭子の演奏はあまり上手ではなかったけれど、彼女の演奏には、いつも感情が溢れていた。楽しい曲は楽しかったし、悲しい曲は悲しかった。それにあわせてころころと変わる、恭子の表情を眺めているのも好きだった。
ずっと見ていたくて、僕は何度も恭子にアンコールを送った。それに応える恭子を見るのはもっと好きだった。
その無邪気な笑顔はそのままだと思っていたし、演奏も変わることがないと思い込んでいた。
けれど、恭子が19になったとき、彼女の演奏は変わった。
舌ったらずな英語のようだったそれは、流暢なドイツ語へと変貌した。
溢れ出していた感情は、楽譜をはみ出さない程度になった。楽しい曲は楽しげに、悲しい曲は悲しげに。ただそう聞こえるように弾くだけの演奏になっていった。
そんな演奏を、僕なら絶対に褒めない演奏を、あいつは褒めた。
「君の演奏は上手だね」
と、その辺に転がっている小石よりも安っぽい言葉で褒めた。
恭子は、その安っぽい言葉を宝石でも貰ったかのように喜んで、金剛石のように大切に扱っていた。
そんな恭子を愛おしげに見つめて、あいつはアンコールをねだった。
それに応える恭子は、僕が今まで見てきた中で、一番幸せそうに笑っていた。
「仕方のないことだ」
と、切り捨てられれば良かった。
でも、できなかった。
僕はあいつが、ついでにピアノが大嫌いになり、恭子の演奏も嫌いになり、あいつの為に弾かれるピアノも嫌いになった。
でも、恭子のコトだけは嫌いになれなかった。
少し肌寒い秋の夜のことだった。
恭子が出かけたその日、僕はピアノをぶっ壊した。
跡形もなく、思い出もなく、形跡する消える様に、ただひたすらに破壊した。
思ったよりもうまくいって、僕の憎悪と殺意をぶつけられたピアノは最初なんだったのか判別つかない状態になった。
当たりどころを失って立ち尽くしている僕の耳に、どこか冷たい「ただいま」が聞こえた。
恭子だった。
恭子は僕とピアノの残骸を交互に見つめながら、どうしてでもなんでもなく、ただ一言呟いた。
「そう」
次の瞬間、僕は弾かれた様に階段を駆け上がり、自室にあった財布だけを引っ掴むと、家を飛び出した。
逃走 中山准次 @ToshikuzZ
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