ep9/25「魔神が征く地獄(前編)」
火星近傍。星々が瞬く暗幕を背景に、
対消滅エンジンすら停止させ、装甲表面を絶対零度付近にまで冷却するアローヘッドは、さながら氷漬けの死体だった。
-270℃近い極寒の真空に紛れようとする魔神は、ただひたすらに息を殺す。真っ黒なステルス塗膜に覆われたアローヘッドの内で、静かに時を刻む。
ぎりぎりまで敵の目を欺く為に。そして、嵐の前の静けさを味わう為に。
刻一刻と、
前面モニター端で小さく刻まれていく数列、それを目にした春季はツバを飲み込んだ。あと十秒にも満たない残り時間は、エルンダーグが再び息を吹き返すまでのカウントダウンだ。
一度動き出してしまえば、後はゲートへ向けて突撃していくしかない。
静寂の終わりを告げようとするタイマーは、揺るぎないリズムで一桁の数字を刻んでいく。春季が一つ、また一つと減っていく数字に精神をすり減らしていると、遂に最後の瞬間がやって来た。
カウント0。
無味乾燥な電子音が響くと同時に、春季は躊躇わずにスロットルレバーを押し込む。再び脈打ち始めた魔神の心臓が、内に灯した業火で轟々と唸り出す。
「
春季は強張る両足にグッと力を込める。さながら地鳴りのような振動の中で蹴り出されたフットペダルは、極低温のスラスターへ鞭を叩き込んだ。
対消滅エンジンが再点火されると同時に、アローヘッドは猛烈な勢いで白煙を纏っていく。今まで溜め込んでいた冷却剤を噴き出し終えると、さながら雲のように広がった煙の中で光が爆発した。
唐突に弾けた光の中から飛び出て来たのは、高層ビルほどの全長を誇るブレード4枚。戦艦の数十倍にも達する超重量物体、1つ。
煙を裂きながら飛び出して来たアローヘッドは、長さ1kmにも及ぶ光の尾を曳きながら驀進し始めていた。
アローヘッドが向かう先には、赤茶けた表土に覆われた火星が浮かぶ。しかし、その軌道にあるはずのゲートは裏に隠れており、今は火星を隔てて見えない位置取りにあった。
だが、これは予定通りの位置関係だ。
ゲート周辺に蔓延る
火星を回り込んでゲートへ辿り着くには、まだまだ速度が足りないのだ。
「ズレてるのか……これじゃ足りない、軌道修正開始」
アローヘッドの後方には、長大な光の尾が伸びている。同時に、コーン型の装甲表面ではチカチカと青白い炎が焚かれていった。その度に数tの圧がアローヘッド全体を押し出していき、一見すると分からないほど僅かに軌道が逸らされる。
モニターに視線を張り付かせる春季は、闇に浮かぶただ一点を見据えていた。
彼は何も無いように見える地点へ向けて、アローヘッドの軌道を微調整し続けている。寸分のズレもあってはならないとでも言うかのように、その手付きはごく繊細で控えめだ。そんな彼の全身は、緊張から来る汗でじっとりと濡れていた。
――――指定された時間に、指定された地点へと辿り着かねばならない。
それも電車より正確に、だ。寸分のズレも許されない航行へのプレッシャー、それは鉄輪で内臓を締め付けられるような心地だった。しかし、軌道修正で神経質になっていた春季の耳朶を、鋭い警告音が打ち始める。コックピットに舌打ちが響いた。
14時の方角、距離3000。そこに
「あんなところに4匹も!」
敵襲にささくれ立つ警戒心。春季は苛立ちを露わにしながらも、
彼に突き付けられた問題は、シンプル極まりない。敵と接触するのが早いか、自分が辿り着くのが早いか。ただそれだけが問題だった。
――――果たして間に合うのか。
春季は自問し、間に合わせてみせると心を固める。
アローヘッドは左斜め前方3000kmに迫っている
射程距離に入った途端、撃たれる。
今さら回避機動を取ることも出来ない春季は、その確信にただただ肝を冷やすしかない。
だがその直後、彼の身体は猛烈な圧でシートに押し付けられていた。突如として襲い掛かって来た加速Gに、春季はまず一つ目の目標の達成を知る。
照らすは鮮烈な光。彼を囲むモニターは、強烈な白色光に塗り潰されていた。
「来た……!」
何の前触れもなく襲い掛かって来た負荷に肺を潰されつつも、春季は口元を歪ませる。
真空中の僅かな塵芥を貫き、遥か地球軌道の彼方からレーザー光線が伸びていた。
アローヘッドはその光線を直径50mに及ぶノズルで受け止めると、猛烈なプラズマ流として吐き返す。毎秒数千回に及ぶ爆発を凄まじい推進力に変え、太陽の如き輝きを放つ超大型ブースターノズル。強烈な白炎は、数百万tという超重量物体を瞬く間に押し出していく。
それこそがゲート攻略戦最大の切り札、レーザー推進システムだった。
かつて太陽系各地へ送り出されたシャトルの一つ、その無機質な
しかし、たった4秒程度で稼いだ速度は絶大だ。
アローヘッドは全長200mに達する刃を煌めかせながら、流星のような速度で以て
突然の加速に、敵はまだ対応できていない。でたらめな
肉薄。すれ違いざまに叩き付けられた刃は、超音速の斬撃と化して
刃渡り200m、最大厚5m。たった一枚で超大型タンカーにも等しい重量を誇る刃は、振るえば山をも裂く劣化ウラン合金の一塊だ。人類史上最大最重量のブレードを叩き付けられれば、
「いける、これなら!」
それはまさしく質量の暴力。光跡を描くアローヘッドの後に残されたのは、いとも容易く分断された
そして、第二加速ポイントまでに何ら障害物は見当らない。
クリアーに晴れ上がる進路を確かめた春季は、正確な軌道でアローヘッドを目標地点へと向かわせていった。1kmにも達する光柱を噴き出す矢じりは、恐るべき正確さで目標地点へと飛び込む。
直後、第二射目のレーザーが虚空の彼方からやって来た。
超大型ブースターノズルでレーザーを受け止めたアローヘッドは、予定通りに第二加速を開始する。毎秒数千回の爆発に押し出される鉄塊は、装甲に衝突する微細な塵を散華させながらなおも速度を上げていく。
遠方から
予定されている加速は全部で4回。その度に一つのレーザーシステムが使い捨てられる。
2回目までの加速を成功させたアローヘッドは、火星を回り込みながら激烈に速度を上げて行った。遂に火星の自転速度を追い来すと、段々と赤茶けた大地が大きく見えるようになってくる。今や衛星よりも内側の軌道上、距離もだいぶ詰まって来ていた。
火星の荒涼たる大地に阻まれ、未だにゲートは見る事が出来ない。
しかし、ゲートが見えた途端に
真空を突き進むアローヘッド、その巨躯は第三加速ポイントへと向かう。
「予定進路、クリアー!」
道程は順調だ。アローヘッドが進む進路には、またも障害物一つない。
だが、致命的な異変は1万km以上後方で起こっていた。アローヘッドの速力で強引に引き離して来た
敵の動きに気付いた春季は、嫌な予感と共に
「駄目だ、このままだとレーザーの射線に割り込まれる」
レーザー推進システムは、照射レーザーを受け止めてこそ効果を発揮する。その射線に割り込まれようものなら、加速は失敗だ。
思いもよらなかった
軌道がズレてしまうリスクを負ってまで狙撃するか、それとも放っておくか。
しばし熟考していた春季は、苦渋の面持ちでブリッツバスターの起動を決意する。その指はトリガーボタンへと掛けられていた。
ガコンという鈍い衝撃が機体全体を走っていくと、アローヘッドとエルンダーグを繋いでいた接続部の一つが解除されていく。今まで捻じ込まれていたボルトが次々に抜き取られていくと、エルンダーグの右腕は合体状態を解除されていた。
砲の固定解除。空いた右腕に、砲身長150mを誇る
初めから破砕投射形態で展開されたブリッツバスターは、その50階立てビルにも匹敵する砲身を遥か後方の虚空に向けていた。その先にぽっかりと空いた60cmの砲口が、肉眼では確認することも出来ないほどに小さな目標を捉える。砲身が震える。
「目標捕捉、でも定まらない……!」
照準が甘い。目標までの距離が遠いのもあるが、それ以上に体勢が問題だった。
そもそもアローヘッドとドッキングした状態での砲撃など、全く想定されていないのだ。これだけ大きく重量バランスが狂ってしまえば、射撃精度も低くならざるを得ない。狙撃を取り巻くイレギュラーな条件の数々は、ただでさえ焦燥に逸る春季の心を更にかき乱していた。
しかし、撃たなければレーザー射線に割り込まれる。
春季は大きく息を吸うと、熱を込めるように吐き出す。
それで意を決した彼は、反動を堪えて何度もトリガーボタンを押し込んでいった。
エルンダーグの巨体が、強烈な発射反動に跳動する。しかし、アローヘッドの超重量が反動を抑え付けると、隕石にも等しい609.6mm徹甲弾が次々に撃ち出されて行った。
その執拗な砲撃は、春季が危惧した通りに進路を狂わせる。
少々のことでは揺るぎもしないアローヘッドでさえ、進路の問題は深刻だ。10発以上に亘って弾頭を撃ち込んだ頃には、角度にして1度以上のズレが発生。予定航路から外れつつある事を検知したシステムが、コックピット内に鋭い警告を発し始める。
「軌道修正、開始!」
額に汗を滲ませる春季は、砲撃で逸れた進路を僅かずつ引き戻していった。青白いスラスター炎が装甲表面から何本か突き出すと、数mm単位の調整でアローヘッドを押し出す。それから五分以上かかってようやく、弩級の矢じりは予定進路を回復していた。
だが、敵までの距離は遠い。
弾頭が着弾するまでは、およそ10分かかると見込まれていた。
春季が見守る遥か遠方には、予測進路を辿っていく
超望遠カメラで切り取られたウィンドウの中、着弾の閃光が咲く。
二つ、三つ、1万kmという長距離を走り切った弾頭は、見事に
だが、幾つかは撃ち漏らしてしまった。
残る敵がレーザーの射線に割り込まないことを祈りつつ、春季はエルンダーグに右腕を引っ込ませる。ゆるい衝撃と共に砲身を折りたたんだブリッツバスターも、その後に続く。
再びアローヘッドとのドッキング状態となった機体は、第三加速ポイントへと辿り着こうとしていた。
――――軌道は問題無し。到達時刻も問題無し。
祈るような気持ちで目標地点に辿り着いた春季は、しかし数秒経ってもレーザーがやって来ない事実にゾッとさせられた。アローヘッドの超巨大ノズルは一向に白炎を噴き出そうとしない、加速Gも無い。彼は無言の内に、最悪の事態の到来を悟る。
そして、視界の端できらりと生み出された光に、春季は確信するしかなくなった。
それはレーザーの射線に割り込んだ
「レーザーが、来ない……」
アローヘッドは、まだ予定速度の60%程度しか得られていない。
自らが犯した致命的なミスに、春季は強く唇を噛む。しかし、今さらやり直すことなどできるはずが無かった。無情にも前進を続けるアローヘッドは、予定よりも遥かに遅いスピードのまま火星を回り込んでいく。
今や左モニター全面を埋めるほどに近付いた赤茶の大地。春季はその弧を描くように広がった大地の向こうから、儚くも神々しいゲートが
火星の希薄な大気を透かして見るゲートは、どこか青白かった。
そして、瞬く星々を映していた前面モニターに、闇を裂く光線が走っていく。
微かながらも力強く浮かび上がったレーザー光は、第四加速ポイントとして設定されていた地点を通過していた。それは今さら止められるはずも無い、五分以上も前に発射されていたレーザー光線だ。
未だ第四ポイントへ辿り着いていないアローヘッドが、それを受け止められる道理はない。5秒後には僅かな痕跡さえ残さず、遥か数億kmを走って来たレーザーが消え去っていた。
ただ一度のチャンスは、目を見開く春季の前で無為に潰れてしまった。
「あぁ……っ!」
春季の喉から、思わず悲嘆の声が漏れる。
第三加速に引き続き、第四加速も失敗。もはやゲートに突入する作戦プランは崩壊したと言っても過言ではない。二度とやり直せない作戦だったというのに、その成功が目の前から逃れて行ったのだ。
途方も無い喪失感が、意識するともなく唇を震わせる。縋るものも無い春季は、脳裏に浮かび上がる
どこか生気を失った春季が顔を上げると、前面モニターには光が瞬いていた。
緩い円弧を描く赤茶けた大地、火星の地平線の向こうには、およそ1万体にも達する
アローヘッドへ伸びて来る光は、数千本に及ぶ
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