ep8/25「心軋ませる孤独」
およそ半年近くに亘る
限りなく死に近い冷たさと闇の中、僅かに脈打つ心臓によって生かされていた身体は、ようやく目覚めの時を迎えようとしていた。
「……っ」
引き攣れた筋肉が悲鳴を上げ、全身が攣るような痛みもやって来る。細胞の一つ一つまでもが針にほぐされていくような感覚の中、全身がようやく常温へと戻されつつあった。まるで自分のものではないと思えるほどに、肌に走る感覚がぼやけて仕方がない。数十秒後、猛烈な寒さを覚えた頃になって、春季はようやく自らの意思で指を曲げ伸ばしできるようになっていた。
出来るだけゆっくりと、軋む身体をいたわるように起こしていく。
六カ月。意識さえ無いままに過ごしてみると、あまりに短い期間だった。
しかし、その間、途方も無く長い夢に取り残されていたような気がして、春季は思わず肌を粟立たせる。もし、コールドスリープから目覚めなかったとしても、誰かが来てくれる訳ではない。地球から途方も無く離れた宙域で、たった一人、凍り付いて漂うだけなのだ。
見渡す限りの真空の闇、どんなに目を凝らしても人一人いない。いる訳がない。
まるで心に寒風が吹き込むように、そんな冷徹な事実が心を凍り付かせる。ふとした瞬間、自然と触れてしまった死への恐怖が、心を押し潰そうとして来る。
「そうだ、今の座標は……」
何でもいいから気を逸らしたくなった春季は、エルンダーグの現在地情報をモニターに呼び出す。地球を旅立ってから早7カ月以上。本来なら地球が一年をかけて回るべき軌道を、エルンダーグは既に1周しかけていた。重力制御技術の賜物とでも言うべき航海の末、今は地球軌道の外側にある〈ラグランジュ2〉へ達しようとしているところだ。
もう既に、10億km以上という気の遠くなるような距離を旅して来た。
光でさえも1時間近くを要する道のり。しかし、それさえも時間稼ぎと慣熟運用の一環に過ぎないのだから、春季は道程の果てしなさに圧倒されるしかない。
「遠いんだな。これだけ近いのに」
今や左モニターを眺めれば、そこには見慣れた青い惑星が漂っている。地球。春季とエルンダーグが旅立ってきた地にして、今は決して帰れない場所。故郷への郷愁から目を背けるように、彼は右モニターに超望遠映像を展開させる。
映っているのは、赤茶けた表土に覆われた惑星。火星だ。
春季はエルンダーグに搭載された高精度センサーを向けつつ、これから目指すべき地に倦んだ目を向ける。そこに巣食う
一方、先の戦闘で傷付いていたはずのエルンダーグは、硬質な光線に照らされてくっきりとした陰影に覆われていた。大気に散乱されない太陽光は、あまりに白くて真っ直ぐだ。微細な凹凸でさえも影と変えるはずの光は、しかし、エルンダーグの装甲表面を一面滑らかに照らし出していた。
自己修復作用。金属をも食らう
それだけではない。
星々の間を自在に渡る重力制御システムの搭載、有人機でなければならなかった理由、それどころか人型である意味でさえも、
薬剤で闘争本能を焚きつけられて戦う自分は、果たして
どうしてこんな事になってしまったんだろう。そんな思いが去来する度に、世界の歯車がいつから狂ってしまったのかを考えずにはいられなくなる。もはや届かない希望の残骸へ手を伸ばすように、彼はただ過去を思うしかない。
もし、あの夜逃げきれていたら。
もし、奴らさえいなければ、と。
気付けば、呪詛のような言葉が勝手に口からこぼれていた。
「
冬菜はあんな風にはならずに済んだ。絶対に。
そう続けようとした春季は、背後に生々しい体温を感じ取って口をつぐむ。悪意に満ちた気配は、もはやいちいち意識しなくとも感じ取る事が出来る。
『いなかったら?』
春季を試すように問うてくる言葉は、どこまでも鋭い。〈あいつ〉とは、彼自身の心が生み出す幻聴。それ故に意味など無いと知りつつも、春季は精一杯声が震えないように意識する。
「何もかもが、平和だったんだ。フユだってあんな事には……」
『そうじゃないだろ?』
「何が」
『
春季は言葉に詰まる。
〈あいつ〉はどんな小さな嘘でも知っている。春季の中から生まれた声だから、春季が目を逸らしたいと願う気持ちも全て知っている。
次に何を言うか分かったような気がして、春季は止めろと叫び掛けた。
『とっくの昔に、気付いていたんだろ』
――――違う。
『自分たちが人間じゃないって。あの隕石落下から生き延びることが出来たのは、
――――フユがやったんじゃない。
かつて自らがついた嘘、分かっていても言えなかった真実。あるいは冬菜を余計に苦しめることになったかもしれない一言が、勝手に脳内で浮かび上がって来る。
確かに春季自身が、冬菜にそう告げてしまったのだ。否定しようがない。
「それは……!」
『それにだよ。あの全校集会の時にしても、どうして
あの一言で、フユの涙を止められればと思った。
春季はそんな自らの浅慮に、吐き気を催しそうになる。善意に裏打ちされた嘘の残酷さは、あの時の自分でも十分知っていたはずだった。それなのに、言ってしまったのだ。
君がやったんじゃない。君は人間だ、と。
あの言葉こそが冬菜を苦しめた。そう思えば、春季は自らのやって来たことの意味が分からなくなる。ただひたすらに孤独な真空の海を漂って、時に自らを見失うほどの戦いを潜り抜けて、果たして自分は一体何を掴もうとしているのかが分からなくなる。
「違う……違うんだよ」
一体何に向けているのかも分からない言い訳が、春季の心を刃の如く苛む。
「……違う!」
喉の奥から絞り出された叫びは、周りを埋める配管に弾かれて虚しく響く。
ケーブルひしめくコックピットを振り返ると、そこには誰もいないことを思い知らされる。どこまで遠くに行っても、どこまで自分を偽っていても、脳髄にへばりついて離れない声は容赦なく彼を責め立てる。
それが心の声だと分かっているからこそ、もうどうにかなってしまいそうだった。
結局、この棺のように狭いコックピットに居るのは、春季ただ一人なのだ。たった一人で自分を責め立てて、喚き散らして、挙句戦いの意義すらも見失いそうになっている自分に気付くと、彼は乾いた笑いを浮かべる。
歪んだ口元から漏れ出て来る笑いは、ただひたすらに空虚だった。
「はは……なにやっているんだろ、僕は」
しかし、虚勢に満ちたその顔が唐突に歪むと、春季は耐え切れずに身体を屈した。涙は出ない。その代わりに、軋み行く心の悲鳴が零れ落ちていった。
「……もう、止めてくれよ」
真空の闇に心を凍らせながら、春季は孤独な旅路に身を晒す。
それからの三週間、エルンダーグは計三度に亘る遭遇戦を切り抜けていた。倒した
戦いでひび割れていく心は、投与薬剤では直せない。
春季が目指す希望は、今はただひたすらに遠かった。
* * *
――――第四次超長距離遠征打撃計画。
それは
巨大人型有人機の建造と、それに伴う橋頭保の確立。遥か彼方にある
そんな狂気じみた要求の末に建造されたのは、一柱の魔神。
しかし、パイロットを務めるはずだった者が一人斃れ、二人斃れ――――やがて数百名もの死傷者を出した頃には、既に計画は破綻の兆しを見せていた。コックピット内で全身の細胞を崩壊させていった候補者も多数、十人や二十人などという数では収まり切らない。紅い魔神に喰われた無数の命は、その身をもって機体制御の無謀さを示していたのだ。
多少、身体を弄ったところで、ただの人間がエルンダーグを操ることは出来ないと。
魂を与えてやる者がいなければ、全高150mの鉄塊は指一本動かせない。
だから、エルンダーグを要とする第四次超長距離遠征打撃計画は凍結された。春季という稀有な存在を得るまで、人類史上四つ目の決戦プランはパイロット不在という根本的な問題で立ち止まっていたのだ。
しかし、
地球と火星の狭間、とある宙域に至ったエルンダーグは合体を開始する。
魔神が手にすべき
「相対速度合わせよし。進入角修正……開始」
コックピットに収まる春季が、パネルに走らせていた手で操縦桿を握り込む。
彼が見据えるのは、前面モニターで豆粒のように映り込むオブジェクトの一つ。時折、きらりと反射光を放っては闇に溶けていく物体の姿だった。
目標物体へ向け、エルンダーグは真っ直ぐに慣性航行を行う。
紅い機体表面からは時々、青白い針が突き出しては引っ込められていた。無音で微かに噴き出すスラスター炎が、数mm単位で全長150mもの鉄塊を押し出していく。
その間にも距離が詰まっていく物体のフォルムは、ゆったりと回転する矢じりに近い。より正確に表すなら、コーン型の矢に、四枚の矢羽が生えたような形状だ。
「回転軸同調開始、機体を
エルンダーグは再び青白い光を放つと、矢じりに合わせて回転を始める。いつしか春季の目には、矢じりの回転が止まっているように見えていた。軸同調完了、回転をぴたりと合わせてみせたエルンダーグは徐々に物体へ接近していく。
慎重にフットペダルを踏み込む春季は、徐々に前面モニターを埋め尽くしていく物体のスケールに目を見張る。元は豆粒のように見えていた矢じりが、今や視界全体を覆い尽くそうとしているのだ。
まるで際限なく膨らんでいくかのような錯覚すら覚えると、あまりの圧迫感に足が微かに震える。本能的な恐怖を掻き立てられるほど巨大な矢じりは、エルンダーグをその内部へと取り込もうとしていた。
「ドッキングシークエンス、開始」
春季の宣言と共に、矢じりの後方から接近していたエルンダーグが接続コネクタを開放する。エルンダーグの巨躯をも凌駕する矢じりからは、何本もの接続アームが伸展。乗用車ほどもあるコネクタにボルトを差し込むと、火花を撒き散らしながら捻じ込んでいった。
ガクンという鈍い衝撃と共に、矢じりの内部へとエルンダーグが接続される。その足元に直径50mもの超大型ブースターノズルが固定されると、真空をも揺るがさんとするドッキングは完了していた。
全長250m、重量260万tクラスの超弩級装備。かつて建造された戦艦にも匹敵する全長、そしてその40倍もの超質量を誇る矢じりは、エルンダーグに与えられた反攻の刃だ。そしてこの装備こそが、人類が用意し得る最大の決戦装備に他ならない。
その名は、試製二八式超弩級攻城槍。
一部では〈
太陽の光を受けて、全長200mもの矢羽4枚が鈍い煌めきを放つ。
アローヘッドを纏う魔神が目指すは、火星軌道。
その近傍にある
映像の奥に佇むゲートは直径数km、ここから見れば針の穴を目指すようなものだ。その幻想的な輝きは、さながら天国へと開かれた門のようにも見えた。
しかし、そこで待っているのは、血を捧ぐべき地獄以外に有り得ない。
「アローヘッド、どこまでやれるんだ」
これほどの超弩級装備を得てもなお、春季の心には冷え冷えとした予感がよぎっていく。
火星ゲート周辺に蔓延る
だが、
静かに息を吐いた春季は、闘志も露わに顔を上げる。
その紫瞳には、どこか脆くも破滅的な光が宿っていた。
「これで、やるしかないなら……!」
加速開始、エルンダーグのスラスターが光柱を噴き出していく。
ゲート近傍宙域での決戦を挑むべく、数百万tの鉄塊が虚空を征こうとしていた。
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