ep5/25「六花降り積もる記憶」

 その夜空では、雪と星が一つに溶け合っていた。

 風一つ吹いて来ない静寂。雪の一片が落ちて来るのはとてもゆっくりで、ともすれば止まっているように見える。瞬く光と区別がつかない雪は、さながら空から落ちて来た星々の末裔だ。その荘厳なる光景は、自然が気まぐれに作り出したものとは思えない。

 10才になったばかりの春季は、それをただ、綺麗だなと感じる。瑞々しい感受性に、底知れぬ自然への畏怖が降り積もっていくようだった。

 そして一片、白い肌に降りて来た六花が、小さな水滴となって頬を流れ落ちる。


「ハルくん、口あけっぱなし! って泣いてるのー?」


 寒さに鼻先を赤らめる冬菜が、悪戯っぽい目線で話しかけて来る。白いコートにふわふわとしたイヤーマフラー、まるで子ウサギのようにほかほかと身を包む彼女は、いつもよりはしゃぎ気味だ。つい先週買ってもらったばかりの服を着られた事が、それだけ嬉しいらしい。

 その無邪気なからかい顔を見ると、春季の体温が少しだけ上がった。彼はボーっと口を開けていたことが恥ずかしくなって、彼女からぷいと目を逸らす。


「ち、違うって! 星が凄く、きれいだなって」


 ハーっと白い息を吐く春季は、ほらと夜空を指さして見せる。「うん」と冬菜。しばし、二人は言葉も無く夜空を見上げていた。

 瞬く星空の間を縫うように、サッと視界を抜けていく光点。空を数秒も見つめていれば、飛び交う流星を一つは見ることが出来た。今晩は大規模な流星群の日だから、見逃す方が難しい。


「流れ星、いっぱいだね」

「うん」


 数多のほうき星が、二人そろって空に向けた視界を駆け抜けていく。

 しばらくすると、存分に流れ星を目にした冬菜は、惜しげもなく夜空から目を離していた。飽きずに顔を上げている春季の袖を、手袋でくいくいと引っ張って来る。


「そうそう、ママたちが呼んでたよ。ハルくんママも」

「じゃあ行こっか」


 春季は夜空に未練を残しながらも、冬菜の後をついていく。

 二人は家族ぐるみで流星観測に来ていたから、春季と冬菜の両親も近くにいる。うっすらと月光が照らし出す銀世界、談笑する二組の夫婦が子供たちを見守っていた。

 春季、冬菜、とそれぞれ名前を呼ぶ声も届いて来る。もこもこと着膨れした二人は真っ白な雪原を駆け、互いの両親の下へと走っていった。

 しかし、冬菜が急に走るのを止めたので、春季もつられてその場で立ち止まった。


「フユちゃん、どうしたの?」

「あっちが」


 不思議そうな表情を浮かべる冬菜の横顔が、先ほどよりも少しだけ明るくなった雪原に照らされる。変だな。子供ながらの直感が僅かな違和感を訴えていた。


「ハルくん、なんかあっちが明るいよ……?」

「明るいって――――」


 なにやら雪原が明るくなっているような気がして、春季は振り向こうとした。視界に一筋の光線が映り込んだような気もしたが、その後の事は分からない。

 衝撃。

 マッハ20程度で大気圏に突入した小質量物体は、束の間太陽の如き輝きを放って落着。音が広がるよりも速く、銀世界はまるで津波のようにめくれ上がっていた。衝撃波がパッと辺りを巻き上げる。迫りくる轟音と暴風の嵐が、熱いブリザードとなって春季と冬菜の意識を刈り取る。


 何かの冗談のように膨れ上がっていく火球は、落着地点周辺を膨大な運動エネルギーで抉り飛ばしていった。地面を揺るがす凄まじい振動が地を砕き、岩を割り、平らだった雪原に歪な凹凸を生み出していた。眩しいくらいの銀世界は、一瞬で土塊にまみれた光景となる。

 白と黒のコントラストから、赤と黒の地獄絵図へ。

 星々の儚げな光から、灼熱を帯びた表土の炎へ。

 蒸発した岩石のガスに身を浸しながらも、辛うじて生き残った少年は呻き声を上げる。ぬるりとした感触が全身を覆っていた。


「うぅ……っ」


 自分の声さえも聞こえない、全くの無音。

 一瞬で炎と土塊に塗り替えられた雪原の中、春季はその幼い瞳に地獄を焼き付ける。彼は胸から腹にかけて破片で切り裂かれた箇所を抑えつつ、すぐ近くに転がっている冬菜へ手を伸ばした。一生懸命叫んでいるはずなのに、彼女は微動だにしない。

 冬菜の白かったコートは、彼女自身の血と泥ですっかり汚れている。

 彼女の全身に刻まれた裂傷は、どれも間から肉がのぞく程に深いものだった。

 冬の夜空を切り裂いた隕石は、何年経っても消えない傷として、二人に喪失の記憶を刻み付けて行ったのだ。


 ――――そう、それからだった。フユが長袖ばかり着るようになったのは。


 奇妙な離脱感を感じ始めた春季は、ぼんやりとそれからの二人を思い返す。

 春季と冬菜以外は助からなくて、両親は遺体すら蒸発していて。本来なら生きて帰れるはずも無かった二人は、しかし生き残ったのだ。瀕死の重傷を負った二人は、一か月後、病院で目覚めた時には既に家族を喪っていた。


 それから、春季の祖母にまとめて引き取られて五年後。二度目の別れを経験してからは、二人は一つ屋根の下で力を合わせて生きて来た。

 そう、生きて来た・・・・・

 もう過去形でしか語れない切なさに、春季の心がふと鋭い痛みを覚える。いつの間にか目元を濡らしていた水滴の感触、頬にこそばゆさを感じた彼は、重い瞼をゆっくりと開けていった。


 ――――そっか。寝ていたんだっけ。


 周囲で慌ただしく動く手術着の人間たち。見覚えがある手術室の中央で、瞼を開けたばかりの春季は手術台に寝かされていた。否、縛り付けられている、と言ったほうが正確なのかも知れなかった。

 大仰すぎる皮の拘束具が手足を封じ込め、口には酸素マスク。すっかり髪を剃られた頭は、皮ベルトで完全に固定されている。既にあらゆる自由を奪われている春季は、それでも自らの意思で・・・・・ここにやって来たことを忘れてはいない。


 これから行われるのは、身体を好きに弄り回される手術。エルンダーグを操る為に必要な、最低限・・・の処置が、春季を待っているのだ。睡眠導入剤がなければ、今頃パニックを起こしていてもおかしくない程だった。

 丸刈りの春季のすぐ傍に控える凱藤は、厳重に滅菌された基盤類をいじっている。


「春季クン、じゃあそろそろ始めるわよん」


 彼の言葉を皮切りにして、術者たちは必要な処置を進めて行った。バイタル確認、局所麻酔開始。一通りの処置を終えた頃になって、凱藤はようやく、無数のケーブルに繋がれた春季を見下ろして来る。

 やっと出番が来た。そう言わんばかりの期待を滲ませる凱藤は、春季の耳元へぐっと顔を近づけていた。声を潜める凱藤、その囁きが二人以外に聞こえることは無い。


「簡単な検査した時にね、アタシにはすぐわかったわ。アナタもE検体と同じだってね。でも、上に報告はしないことにしたのよ。どうしてだか分かる?」


 春季の耳に届くのは、一定間隔で何かが擦れるような音。固定された首の後ろ、ちょうど頸椎の辺りにマーカーが書き込まれつつあった。


「うーん、分かっちゃうわよね。とっても簡単だもの」


 淡々とした手付きで消毒剤が塗りつけられると、頸椎の辺りにぼんやりとした感触が押し当てられた。端子固定用のナット状パーツだ。

 部分麻酔で感覚の薄くなった肉に、パーツの爪が深く噛みついて固定される。痛覚だけが抜け落ちたような感覚の中、皮膚や肉が裂かれる感触だけが伝わって来る。タンタル系合金製の爪は、実に頸椎表面にまで達しようとしていた。


「アタシはね、エルンダーグを動かせる検体が欲しかったのよ。好きに弄ることが出来て、外訪者アウター因子を拒絶する可能性が出来る限り低くて。それも自分から志願して来るような子が良かったわ、良心の呵責ってやつを感じないで済むものね」


 耳を疑うような言葉に、思わず春季は眉根を寄せていた。途端に手を止めた凱藤は、「あらやだ、なぁにその目は?」と不思議そうな面持ちになる。その手に煌めくのは、短くも太い三股の針だった。


「やぁね、アタシにだって良心はあるわよ? ただ、好きだからやっているだけなの」


 春季の頸椎に固定されたナット状パーツ、そこに刻まれたガイドに沿って接続針が固定される。脊髄へと狙いを定める針先は、早速、薄い肉を裂き始めていた。

 ごりごりと回転するにつれ、徐々に食い込んで来る接続針。ぎりぎりと肉を裂く音が体内に伝播し、嫌悪感とも忌避感ともつかない恐怖を煽って来る。いつの間にか膝の震えが止まらなくなっていた。

 春季の顔を覗き込んで来る凱藤は、ニィと歪むような笑顔を浮かべる。


「ここからちょーっと神経を弄るわね。ええと、こういう時なんて言うんだったかしら……そうそう、痛い時は右手を上げてねっと――――」

「ぁぁああああァッ!」


 失神。身構える間もなく、接続針の先端が繊細極まりない神経を貫いていた。

 だが、自分のものとは思えない絶叫、まるで他人事のように感じられる獣の叫びで、すぐさま意識が引き戻される。痙攣、喉が締まる。苦しい。喉の奥からせり上がって来る泡が、口元から溢れ出していた。

 朦朧とする意識の中、春季の口内にまるで鎌のような器具が突っ込まれる。気管内挿入、肺にまで送り込まれたチューブが気道を確保。猛烈な吐き気に悶える春季をよそに、呼吸は安定していく。そのまま手術は続行されていった。

 痛みで真っ白に飛びそうになる意識の中、凱藤の声だけがうっすらと耳に届く。


「うんうん、順調ね! その調子で反応していって貰えると助かるわ」


 ある瞬間、激痛で意識が途切れた。

 その直後、激痛で意識が戻された。

 延々と続くループは時間間隔を麻痺させ、記憶を欠落させる。

 永遠に続くかに思われた手術は、しかし20時間で全ての工程を終了していた。

 それを春季が知ったのは、まるで真っ白い棺のようなベッドの上で目覚めてからのことだ。


 最初は手足が無いのかと思った。しかし、手足に力を込めようとした途端、まるで全身に五寸釘を打ち込まれたかのような衝撃が走る。それを痛みだと認識した頃には、痙攣じみた動きの後に肺から空気が押し出され切っていた。呼吸困難になるほどの痛みが、春季の心臓を握り潰しているかのようだった。

 全身からどっと噴き出した汗が、冷たくシーツを濡らす。扉が開いた。


「あら、気付いたわね」


 すたすたと歩み寄って来た凱藤は、春季の全身を隈なく見分していく。よし、という声が聞こえると、凱藤はタブレット端末に次々データを打ち込んでいった。


「コネクタ癒着OK、異常出血無し、脳のインプラントも大丈夫そうね。流し込んだ補強樹脂も全身の血管壁に定着しているみたいだし、あとは人工血液循環コネクタのくっ付き具合ね」


 おもむろに伸びて来た凱藤の手が、春季を覆っていた緑布をめくる。辛うじて首を動かした春季は、自らの脇腹から突き出す金属円柱に肌を粟立たせる。分かっていたはずなのに、実際に異物が自分の内臓に繋がっているのだと思うと、ゾッとした。

 しかし、腹部大動脈から伸ばされたそれは、人工血液循環用のコネクタだ。無理に外そうとすれば、その瞬間に失血死が確定する。

 コネクタの縫合具合を見て取った凱藤は、その仕上がりに満足しているようだった。


「とりあえずこれから一週間、再生処置と起動試験を受けてもらうわ。再生賦活剤と万能細胞入りの人工血液を循環させるんだから、普通なら死ぬところよね。だけど、アナタはそう簡単にしなせやしないから安心して良いわよ」


 その時の凱藤の宣言を、翌日の春季は感謝しつつも呪うことなる。

 脳内の記憶領域へのアクセス、並びに人工血液の強制循環。何度となく嘔吐を繰り返し、傷跡からの出血で倒れ、それでも強制的に治癒へと向かっていく身体は立ち止まることを許さなかった。

 さながらエルンダーグを構成する1パーツとしての調整が、延々と春季に施されていく。脳髄すら弄り回された身体に鞭打っての試験、異様な速度で回復していく傷跡。薬漬けの恩恵で、身体の機能が一通り回復し切った頃には、既に一週間が過ぎていた。



 * * *



 一週間。あまりに長い刻苦の時を終えたのは、とある朝のこと。

 ようやくケーブルの外れた身体で立ち上がる春季は、思わず平衡感覚を失いそうになる。ベッドでも無く、車椅子でも無く、ましてやコックピットシートにも座っていない状況というのは、実に一週間振りのことだ。やや硬さが残る足取りで歩き出した彼は、部屋の片隅の姿見へと辿り着いていた。

 全身を映し出す鏡にのぞくのは、春季自身の姿。

 全身に異物を埋め込まれ、内臓を置換され、元の身体の多くを失った人間の姿だ。

 手付かずで残っている部位の方が少ないくらいなのに、外見は思ったほど変わっていない。でも、これじゃまるで改造人間みたいじゃないか。自嘲気味に自身を評する彼は、いつの間にかすっかり伸びていた髪に手を伸ばす。


「髪、伸びたんだな」


 少し柔らかめの茶髪は、強制的な再生・代謝促進の影響により、すっかり元以上の長さに伸びていた。たかだか一週間で丸刈りから長髪へと変貌した髪型を、春季はどこか冷めた思いで見つめる。変わってしまったんだ、という自覚が今さらながらに湧き上がって来た。

 鏡の中の自分は、それを否定も肯定もしようとしない。

 ただ、驚くほどに鮮やかな紫の瞳・・・で、春季を見つめ返して来るだけだ。


「……」


 春季は黙って頭に手を伸ばすと、少し跳ねていた髪を撫でつけようとする。

 こうやって姿見を前にして、髪を撫でつけようとしている自分。そこだけを切り取れば、あの何もかもが変わってしまった日の朝と、大して違わない光景が流れているはずだった。

 でも、あの朝とは違って、今朝は少しだけ時間に余裕がある。

 冬菜以外に寝ぐせを咎めて来る人なんていないけど、髪を整えたくなる。

 そういう朝だった。


「よし」


 ぱしん、と軽く自分の頬を叩いた春季は、さながらそれ自体が実験設備のような部屋を後にした。誰ともすれ違わない廊下を、一人歩き出す。


 この一週間、気が狂わんばかりの焦燥感に焼かれながらも、春季はただ冬菜のことだけを考えていた。考えていたから、耐えられた。

 そして、今日は冬菜に会える。やっと会えるのだ。

 春季の胸の奥に燻るのは、気が狂うような不安と期待。そんな思いと背中合わせだった一週間は、ある意味では手術以上に辛い時間だった。そこで溜まった滓を吐き出すように、少年のぎこちない歩調は自然と早まっていく。

 ごく普通を装っていた歩調は、早歩きへ。早歩きから、駆け足へ。


 ――――会いたい。


 再生処置が終わったばかりの身体で、春季は走る。がむしゃらに走る。

 一体何を言えば良いのかは分からない。でも、という思いが彼の足を駆動させていた。なりふり構わずに走り出した春季は、凱藤から指定されていた部屋へと向かう。


「フユ……!」


 地球で過ごす最後の朝。最後に、冬菜に会いたかったから。


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