墜奏のエルンダーグ【KRF大賞】

ep6/25「終りへの飛翔」

「フユ、久しぶり」

　静かに語り掛けた春季の声は、分厚い鉛ガラスに弾かれる。

　彼がどこか硬直した目線を向けるのは、ガラス越しに向かい合う冬菜の姿だ。

　質素で大きすぎるワンピースのような服を着せられ、十字架に縛り付けられている冬菜。腕に連なる無数の赤い斑点は、今も痛々しいほどに伸びているケーブルの証だった。服の内側に消えて行くその一本一本が、冬菜の肌に張り付き、突き立てられ、あるいは――――考えるだけで、春季の背に悪寒が走った。

　艶を失った髪、生気の抜けた肌。元から色白だった肌は、どこか血を感じさせない白さに染まっている。

　パサついた髪の奥に隠れた目は、影に覆われてよく見えない。

　虚ろな冬菜の表情。その奥に広がる闇を悟った途端、春季の胸に、まるで鈍い斧を振り下ろされたような痛みが走る。内臓が煮えるほどの悔しさが湧き上がって、視界を曇らせる。それでも、春季は穏やかに笑いかけていた。

　怒りも、悲しみも、全てを押し殺して。

　笑顔とは不釣り合いなほどに固く握り締める拳からは、静かに血が滴り落ちていった。

「ねぇ、フユ」

　僅かに、ほんの僅かに声が震える。

　出来る限り普通通りに、いつも通りに話しかけよう。そう思っていたはずなのに、冬菜にどうやって話し掛ければ良いのかが分からない。今までどうやって話し掛けていたのかを、思い出せない。そんな自分に気付くと、春季はただ愕然とした。

　彼はそれでも、強張った顔に笑顔を貼り付けようとする。

「ねえフユ、僕の目を見てみてよ。ちょっと目の色が変わっちゃったけどさ……悪くないと思うんだ。ほら、紫なんて滅多にいないし！　綺麗な目って、実は前からちょっと憧れてたんだよ」

　――――違う。こんな事を話したいんじゃないのに。

「実はこれから、行かなきゃいけないところがあるんだ。これはその為の準備っていうか、どうしてもやっておかないといけないらしくって。大げさだよね。ちょっと行ってくるだけなのに、こんなさ」

　――――冬菜に会えるのは、これが最後かも知れないのに。

「でも、そこでフユを助ける方法があるんだって……その方法が見つかったんだよ！　ちょっとだけ時間が掛かるかも知れないけど、きっと僕なら出来るって、そう言われたんだ。だから、だからさ……」

　もう一度、二人であの家に帰ろう。

　視界が霞んで、喉が詰まって。そのたった一つの嘘が言えなかった。

　相変わらず微動だにしない冬菜の姿が、春季の心を締め付ける。

　そして、虚ろな顔を覗き込もうとした途端、彼は気付いてしまった。

　前髪に隠されていた冬菜の目が、ひたすら宙を見つめていたことに。その濁った瞳に、もはや光は無い。闇に閉ざされた彼女の視界に、春季の姿が映る事も無い。

　冬菜はたった一人、誰もいない暗闇の中へと取り残されていた。

「そんなのって……ねぇ」

　春季の顔面は、無理に笑おうとして強張る。思わず詰まってしまった言葉は、それ以上続かない。不意に顔が歪む。虚勢で張り詰めていた心に、塞ぎようのないヒビが入る。

　たった一人を救うために、これから外訪者（アウター）の全てを敵に回すのだ。

　八十年という歳月に亘って宇宙を覆って来た化け物を、その本体たる核を、たった一人で殲滅しなければならないのだ。言葉に出した途端、その重圧が春季という少年を凄まじい圧力で押し潰そうとしていた。背負い込んだ使命は、あまりに重過ぎた。

　――――自分に出来るのかどうかなんて、分かる訳がない。

　春季は救いを求めるように、ガラスの前でがっくりと膝をついていた。

　助けて。

　心の底で上がる悲鳴が脳内に反響して、春季の心を砕き潰そうと圧し掛かって来る。好きなように身体を弄られて、今まで人類が辿り着いた事も無いような宙域へと送り出されて。ここを後にしてしまえば、もう絶対に退き返すことは叶わない、もう二度と元には戻れない（・・・・・・・・・・）。

　その現実がとにかく息苦しくて、このまま窒息してしまいそうだった。

　でも、冬菜にだけは言えない。春季は、喉の奥から誓いの言葉を絞り出す。

「だから……必ず、助けるから」

　それだけが、守れなかった少女に捧げる贖罪の言葉だった。

　どこまでも無力な自分に激昂する春季の頬を、次々に水滴が伝っていく。心配させないように、気を遣わせないようにしたかったのに、精一杯の虚勢を張ることさえ出来ない。春季が冬菜の痛々しい姿に向かい合うのは、もはや限界だった。

　こんな情けない姿でさえ、冬菜の優しげな瞳はもう受け止めてくれない。

　春季は顔を伏せて立ち上がると、ガラスに背を向ける。

　これが永遠の別れになるかも知れない。その予感を抱えながらも、彼は一瞬の躊躇の後に歩き出していた。一切の反応を見せない冬菜は、やはり何も応えようとはしない。春季は壮絶な後悔に心を引き裂かれながらも、歩を進める。

　だが、たった一言。唐突に聞こえて来た声に、彼の心臓は止まった。

「嘘つき」

　ガラス越しに聞こえた声が、春季の背に深々と突き刺さる。

　唐突に投げつけられた一言の鋭さは、心臓をも貫くようだった。それを聞いただけで、いかに彼女が変わったのかを理解してしまったから、春季はもう何も言えない。もうとっくに遅かったのかも知れないと、心のどこかで認めてしまうのが恐ろしかった。

　今、冬菜を見れば、全てが崩れ去ってしまう。

　そんな予感に駆られた春季は、とうとう後ろを振り返ることはできなかった。それでも、彼は顔を拭って歩き出す。ここから先は涙など要らない。そう誓う。

「それでも、フユの為なら……僕は行けるよ」

　きっと助けてみせるから。心中にそう続けた春季は、振り返らないまま部屋を後にする。

　直後、自動で締まり切った金属扉は、誰よりも遠くなってしまった冬菜を隔てていた。だから、今さら冬菜を見ようとしても、謝ろうとしても、もう遅い。

　それでも堪え切れずに振り返ってしまった春季は、眼前の扉を前に拳を握り締める。そして刺すような後悔を嚙み潰すと、今度こそ無言のままに歩き出す。

「あら、もう良いのかしらん」

　廊下の先、腕を組んで壁にもたれかかる凱藤は、酷薄な薄ら笑いを浮かべていた。白衣の下に着込む喪服は、さながら葬列を見送る参列者のよう。応えようとしない春季に向けて、凱藤が更なる問いを重ねて来る。

「この後すぐ、E検体は変異を抑えるためのコールドスリープ処置に入るわよ。数十年単位の氷漬けにね。限界まで変異プロセスを観察するつもりだけど、いずれは処分しちゃう。アナタは間に合うかしらね？」

「……絶対に、フユを殺させやしない」

　春季は精一杯の決意を言い放つと、壁にもたれかかる凱藤の前を通り過ぎた。どこか彼を試すかのような口ぶりだった凱藤は、更に口元を歪ませる。

「一度ゲートを潜れば、主観的には20年近く時間が飛ぶと計算されているわ……もう覚悟の上っていう訳ね」

「助けられるなら、そうするだけです」

「うふん、良ぃ目しているじゃないの……エルンダーグはやわなマシンじゃないわ。つまらない仕掛け（・・・・・・・・）はもう解除してあるの。きっとまた解剖台に帰って来なさい、アタシはいつまでも待っているわよ」

　凱藤の言葉を背に受け、春季は冷気漂う区画へ足を踏み入れる。彼が進む先には、魔窟へ繋がる鉄扉が大口を開けていた。その奥に控えるは一柱の魔神。ジェネレータの鼓動を轟かせるエルンダーグが、核たる春季の搭乗を待っているのだ。

　春季は進む。たった一つの希望、破滅が待ち受ける戦いだけを見据えて。

　＊　＊　＊

　無数のケーブルに繋がれたエルンダーグが、白煙と闇の中に沈んでいた。

　幾重もの胸部装甲は、まるであばら骨を抉じ開けたかのように展開されている。

　そこに生じた空洞から、機体に比べれば米粒ほどの大きさでしかない、一人の人間が機体へ乗り込もうとしていた。無数のプラグに覆われた細身の宇宙服姿が、魔神の体内へ。まるで取り込まれるようにして、コックピットハッチの中へと消えていく。

　すると、胸部装甲がまるで精緻な組み木のように噛み合わさって、寸分の隙間も無くぴたりと合わさった。まるで吐息のように、機体各部のスリットから白い煙が噴き出す。

　血を吸った鏡の如き装甲面が、微光で滑らかに輝いた。

『全ハッチ、閉鎖開始』

　コックピットの中に身を収めた春季は、無機質な音声がスピーカーから流れ出すに任せる。ハッチ閉鎖。その宣言と共に閉鎖されていく鉄扉は、シュッという圧搾空気の音と共に閉鎖空間から光を追い出した。

　計器類だけが照らす薄暗い空間、春季の身体が浮かび上がる。

『全推進システム、安全装置解除。起動確認――――状態良好（グリーン）』

『対消滅発電機関（ARG）、規定値で稼働開始――――状態良好（グリーン）』

『軌道投入要素、最終照合完了――――状態良好（グリーン）』

　身を収めるシートが、微振動に震える。

　コックピット内を埋め尽くす配管、ケーブルの数々。春季はその中から銀に煌めくケーブルを手に取ると、脇腹のコネクタへと接続した。人工血液循環開始、定常圧で送り込まれ始めた血液が春季の体内へと流れ込んで来る。

「ぐ……ッ」

　同時に、脊髄から延髄にかけて突き出したコネクタへと、針状の接触端子が挿入される。まるで内臓表面を虫が這いるような苦痛を堪える春季は、微かに呻いた。

　そして、彼の真正面に控えていたコンソールパネルに、文字列が走り出す。

　――――AMU-99〈Ern-Drg（エルンダーグ）〉、起動完了（アクティベート）――――

　無音の宣言と共に、円筒空間の天井が割れていく。

　エルンダーグの直上、数十mでこじ開けられていく天蓋。金属レールが砂を噛むような軋み音を立てながら、無数の埃が機体装甲に舞い降りて来た。神々しく降り注いでくる光が、エルンダーグを闇の中から浮かび上がらせていく。ぬらりと煌めく深紅の装甲が、曇天の下に晒されていった。

　拘束解除。次々にジョイントを爆破分離されたケーブルが、のたうち回る蛇のように地面へ落ちていく。

『進路クリアー。出撃、どうぞ』

　全システムオンライン、既に魔神は枷から解き放たれている。

　全ての準備は整っていた。

「エルンダーグ、出撃します……！」

　魔神の六つ眼に、翡翠色の光が燃え立つ。

　春季はスロットルレバーを目一杯押し込むと、機体腰部のメインスラスターに点火した。

　縦に細長い円筒空間、瞬く間に膨れた轟音が強化コンクリート壁を駆け上がる。地を震わすような振動が、エルンダーグの周囲を激しく揺さぶっていく。

　対消滅エンジンが生み出す破滅的なエネルギーは、地形をも変えようとしていた。

　ミサイルサイロ近くの排煙孔から、高さ数百mにも達する炎の柱が噴き出す。数万トンという重量物を打ち上げるために第一段化学ブースター点火、第二段対消滅ブースター点火。更に勢いを増して噴き上がる炎柱は、さながら環状列石（ストーンサークル）のように発射口を取り囲む。

　摂氏数万℃を下らないジェット流は、大気を貫く光柱と化していく。

　さながら噴火のように赤々と照らされた空では、彼方に浮かぶ雲が掻き消されつつあった。水爆に焼き払われたが如き熱量で、発射口にあった広大な荒野が溶融、白熱するガラスの海が、不気味に晴れ上がった空の下に晒されていた。

　底知れぬ熱量を吐き出す魔神は、なおも狂気的な出力を解放し続ける。

　瞬く間に周辺十数kmを飲み込んでいく、水蒸気の暴流。莫大な上昇気流に呑まれた大気が猛烈な対流を引き起こし、幾千の雷光入り混じるキノコ雲が立ち上っていた。

　雷鳴轟く中、キノコ雲を貫く光の柱に押されて、全高150mの鉄塊が空に上がっていく。加速、加速、馬鹿馬鹿しいほどの慣性を引き連れた鉄塊は、ついに音速の壁すら突破する。

　50階建てビルにも匹敵するエルンダーグが易々と音速を超える様は、いっそ滑稽ですらあった。見上げる程のキノコ雲から生まれた魔神は、超音速へ。そして第二宇宙速度へ。いずれ地球全土を駆け巡るべき衝撃波が、魔神の咆哮となって重々しく地を震わせていった。

　大気圏を脱し行くエルンダーグは、その手を宇宙に伸ばそうとしていた。

　大気圏離脱。

　十二分に脱出速度を得たエルンダーグは、地球の周回軌道上、更にその上の軌道へと遷移する。莫大な出力で形成された炎が機体を押し上げ、魔神は地球の重力井戸から這い出そうとしていた。辺りは既に闇、そして音の伝わらぬ真空。機体内部を伝わる振動がコックピットを揺らし、くぐもった音が春季を押し包んでいた。

　そして彼の耳を、つんざくような電子音が突き刺し始める。

　春季は半ば怯えるようにして、両手の操縦桿を握り締めた。戦うと決めた以上、やはりこうなる事は避けられない。そう思えばこそ、額にはうっすらと汗が滲んでいく。

　エルンダーグの索敵システムは、紛れもない敵襲の襲来を告げていた。

「でも、このまま行くしか……！」

　広域レーダーに戦闘機型外訪者（アウター）の反応5、12時の方角、距離2000km。

　側面モニターに目を向けた春季は、真っ暗な背景にうっすらと青い円弧を描く地球を見やる。既に宇宙へ脱出しつつある機体は、なおも加速を続けていた。ここで撃ち落とされれば、機体ごと大気圏に再突入して全てが終わる。この後の遥かな行程を考えてもなお、推進剤の消費を気にしている場合ではいられなくなっていた。

　彼は重力制御システムを起動し、怯える脚に力を込めてフットペダルを限界まで蹴り込む。警告表示、消去（デリート）。春季を胎内に収めるエルンダーグは、光の尾を曳きながら猛烈な加速を始める。

「……ッ！！」

　声すら出せない程に押しひしがれる身体。万力で潰されるような圧が春季の全身を軋ませ、締め上げていく。

　補強樹脂で血管壁を補強していなければ、今頃は全身の毛細血管が千切れていたに違いない。眼球が潰れていたに違いない。

　脇腹のコネクタから送り込まれる人工血液の酸素濃度が自動で引き上げられると、各所に埋め込まれた導電性炭素繊維の心臓は一斉に脈打ち始める。

　春季は木霊のように重なった心音を聞きつつ、信じられない程の数値を叩き出す速度計に見入る。大気圏内なら既にマッハ50相当、詰まっていく敵との距離はもはや戦闘域に達しようとしていた。

　しかし、今は、僅かな反動でさえ軌道を狂わせるかも知れない。

　任務失敗への恐れが、春季にトリガーボタンを押すことを躊躇わせる。あと数mmの位置で固まっていた指は、葛藤の末に操縦桿を押し出していた。

　猛烈な加速を続ける中、おもむろにエルンダーグの右腕が動く。

　まるで悪魔のような爪を生やした手が、背中にマウントしていた箱型弾倉の一つを握り潰す。すると、中に収められていた徹甲弾が、エルンダーグの後方へと静かに流れて行った。ばらばらと撒かれた塊が、太陽光を反射しながら黒い背景に紛れ込んでいく。

「これで……」

　強大なGに息を詰まらせる春季は、真正面のモニターを見据える。あと千kmの至近にまで迫った外訪者（アウター）が、儚げな5つの光点として視認できるようになっていた。

　太陽光を反射する光点に向け、エルンダーグは突き進む。なおも速度を緩めることはせず、光の尾を曳きながら加速し続ける。

　敵との相対距離、残り200km。

　互いに猛烈な速度ですれ違うことになるから、接触はほんの一瞬。生身の人間には視認する事さえ難しい時間の中で、命運が決まるのだ。今さら進路は変えられない。

　当たれば最後のチキンレースが、刻一刻と春季の精神を削りとっていく。

「来るッ……！」

　エルンダーグの前方にきらりと太陽光を弾く光点が5つ、まるで弾丸のように突っ込んでくる光点は線と化してエルンダーグに伸びて来る。思わず春季は怯んだ。機体を貫く無音の衝撃が、時を止める。

　だが、永遠にも思える一瞬が過ぎると、エルンダーグを掠めていった外訪者（アウター）は全て遥か後方へと流れ去っていた。瞬く間に開いていく相対距離は、既に数十kmを超えている。

　そして唐突に、5つの外訪者（アウター）が蜂の巣と化した（・・・・・・・）。

　エルンダーグが機雷よろしく放った徹甲弾は、莫大な運動エネルギーを込められた質量弾となっていたのだ。

　直撃を受けた外訪者（アウター）は、レールガンの直撃をも超える熱量を受けて融解。白熱する被弾痕から白光を爆ぜさせると、行き場を失ったエネルギーによって爆裂する。音無き爆発、千々に切り裂かれた破片が真空にばら撒かれる。

　きらきらと幻想的に散り行く肉片は、春季の視界にも捉えられていた。

「やったん、だな」

　春季はようやく、無意識に堪えていた息を吐く。

　今さらになって震え出す手先を抑え、春季は自らが手にした力の強大さを実感していた。それでも彼がたどり着くべき地は遠い、あまりに遠過ぎて見えるものではない。

　それでも、と意を決した春季は、モニターに描かれた果て無き深淵を睨み付ける。そこに殲滅すべき敵がいると信じて。唯一、冬菜を助けられる道が残されていると願って。

「フユ。きっと、僕はやり遂げてみせるから」

　更に増速。エルンダーグのメインスラスターが無音の唸りを上げる。

　斥候に過ぎない敵群を撃破してしまえば、もはやエルンダーグの行く手を塞ぐ者はいない。一筋の光明に縋るように、紅き魔神は遥かなる闇を漕ぎ始めた。

　孤独を満たした宇宙に、微かな希望を求めて。

　その後、およそ一月半の日数を掛けて、エルンダーグはラグランジュ4に達しようとしていた。

　――前編『ボクは、キミが人間だと嘘をつく』完――