ep3/25「無力という名の罪」

「だから、冬菜だってなにも知らないんですって……!」


 頬に走る衝撃。もう何度目かも分からない殴打を浴びせられた春季は、縛られた両腕で受け身も取れないままに冷たいコンクリートの床へ倒れ込む。

 尋問とは名ばかりの責め苦で苛まれた身体は、腫れていない箇所が無いというほどに痛めつけられている。昨晩からずっと、このコンクリート造りの密室で一晩を明かす事となった春季は、黒服の男達から質問を受け続けていた。

 お前は芹井冬菜せりい ふゆな変異・・について何を知っているのか、と。


 何が聞きたいのか分からないと言ったら、殴られた。

 冬菜は人間だと叫んでやっても、同じように殴られた。

 上半身に着ていた服を剝がれた春季は、今、こうして冷たい床に這いつくばることになっている。ちょうど胸から腹にかけて伸びていく古傷も、はっきりと見えるようになっていた。これだけ大きな傷は他人に見せて気持ちが良いものではない。しかし、今はどうでも良かった。

 春季は男達に両腕を抱えられると、ふらつく足で強引に立たされる。

 そのまま椅子に崩れ落ちた春季は、忸怩たる思いで唇を噛んだ。


「冬菜は、人間だよ……」


 あの体育館から逃げ出した後、結局、春季は冬菜を守り通す事が出来なかった。

 お互い汗で滑る手を握り締めながら、二人は必死に走ったのだ。必死に、行く当てもなく。

 でも、二人の頭上を絶え間なく埋めていたのは、飛行船から放たれた掃討用ドローン。まるで猟犬の目のように空を埋める赤い光点は、春季と冬菜の逃亡を許そうとしなかった。

 だから、二人が隠れていた場所にもすぐに対人形スワンプマン部隊がやって来て、二人そろって鎮圧用電撃銃テイザーガンを撃ち込まれて――――。

 激痛と痙攣の中で意識を失ってしまえば、記憶がそれ以上続くはずも無かった。

 あの後冬菜がどうなったのかを、春季は未だに知らない。当たり前のことだ。黒服の男たちは、彼の質問には頑なに答えようとしないのだから。


「くそッ」


 精一杯の悪態を吐いた春季は、間髪入れずに飛んで来るであろう鉄拳に身構える。

 しかし、黒服たちの背後にある扉が開いていくと、既に振り上げられた拳は止まっていた。お気楽な声を上げて部屋に入って来たのは、白衣を身に纏う一人の男だ。


「ノーノー! そんなに痛めつけたって、もう意味無いわよ」


 オールバックに白衣姿。下には喪服の黒スーツを着込んだ男が、黒服たちの敬礼を受けて堂々と歩いて来る。黒服たちにとっては、白衣姿に敬礼を向けることが、春季を殴ることよりもよほど重要らしい。

 春季がどこか冷めた視点でやり取りを見つめていると、その男と目が合った。


「んー、まあまあ元気そうね。アタシは凱藤がいとう、博士でもいいわ」


 凱藤博士がいとうはかせ、と呼ぶべき目の前の男は、拍子抜けするほどに気安く呼びかけて来る。一体何を考えているのかが分からない男。それが春季の抱いた第一印象だった。

 敢えて挨拶を無視した春季は、凱藤と名乗った男を真っ向から睨みつける。


「フユは……冬菜はどうなったんですか」

「フユナ? フユナねぇ……あっ!」


 オールバックの下に、いかにもすっきりとした表情が浮かんでいた。「思い出したわ」と続ける凱藤は、芝居がかった仕草でパンと手を打つ。


「ああ、あのE検体のことかしらね。安心しなさい、あんな状態の良いサンプルを処分させる訳ないじゃないの」

「え、E検体って」


 頭をぶん殴られたかのような衝撃に、春季は思わず絶句する。

 ――――こいつらは冬菜を捕らえた挙句、その名前さえも剥ぎ取ろうというのか。

 事情を飲み込めた途端、脳内が白熱していくのが分かった。春季は、悔しかった。彼女が生きているという安堵感と共に、憤りとも屈辱ともつかない激情が湧き上がって来る。怒りに震え、噛み締めた奥歯がギリと軋む。


「ふざけるな……冬菜にはきちんと名前だって!」

「いいや、あれはE検体。人間とペット以外に余計な名前は必要ない。そうでしょう?」

「あなたは……ッ!」


 愚弄に次ぐ愚弄。憤りを抑え切れない春季は、凱藤博士に飛び掛かろうとする。しかし、黒服たちに取り押さえられる形で、彼は再び床に抑え付けられた。黒服たちの体重で潰された肺からは、無意識の裡に情けない悲鳴がこぼれ出る。

 それでも、春季は凱藤博士を睨む。それで相手を射殺せるとでもいうかのように。

 一方で凱藤は、不可解にも粘着質な笑みを深めていた。


「気に入ったわぁ」

「ふ、冬菜になにを……したんですか……!」

「わざわざ言わなくたって、見たいんなら見せてあげるわよ」


 春季の前に屈んだ凱藤は、懐から取り出したタブレット端末を向けて来る。真っ暗な画面に、春季の腫れた顔が映り込んだ。


「はい、いくわよ。ちなみにこれ記録映像だから、いくら叫んでもいいわ」


 動画再生開始。真っ白に光る画面の眩しさに思わず目を細めた春季は、視界が慣れて来るにつれて、そこがどこかの手術室であることを悟った。

 ドラマでもよく見掛けるような無影灯、タイル、そして解剖台。解剖台の上では、布に包まれた何かがもぞもぞと動いている。動く度に何本ものケーブル、カテーテルが揺れる。

 それが拘束衣を着せられた人間であるということには、すぐに気付けた。

 しかし、それが冬菜であるということは、すぐには受け入れられなかった。


「フ……フユ?」


 両腕を上げるような体勢で拘束された彼女を取り囲むのは、手術着を纏った人間たち。無影灯の光で煌めくのは、無数のメス、注射器、見たことも無いような医療器具。ゾッとするような予感に駆られた春季は、口の中が乾いて上手く喋れない。


 必死に抵抗を試みる冬菜の様子は、どうにも変だった。

 荒い呼吸で肩を上下させる彼女は、瞳孔が開き気味で、額や首元にもうっすらと汗を滲ませている。その首筋には幾つもの赤い斑点。薬物投与・・・・という文字が春季の脳裏をかすめるのに、そう時間はかからなかった。


「そうそう、アポトーシス阻害剤を入れてあるのよ。溶けても困るでしょ? でも、麻酔とは一緒に使えないから困ったものよね」


 凱藤は頼んでもいないのに解説を入れて来るが、春季の耳には届かない。

 そのまま何も起こらないでくれと願うも、画面の中でてきぱきと動く術者たちの動きは止まらない。画面に見入る彼の前では、手際よく検査準備が進められていく。


 ――――やめてくれ。


 数人の手によって、冬菜が仰向けから横向きの体勢に起こされる。拘束衣に設けられたファスナーに手が掛けられると、ちょうど背骨の辺りが左右に開かれて行った。服を剝がれ、尊厳を剝がれ、今まで他人には許してこなかったはずの柔肌が、無影灯の下に晒されていた。

 露わになった白い背中に、茶色い消毒剤の塗布。銀トレイの上から取り出されたのは、普通より二回りほども太い針を煌めかせる注射器の一本だった。


 ――――やめてくれ。お願いだから。


 だが、手術着を纏う一人は躊躇する様子もなく、針の後端部に手を掛けた。

 直後、狙い澄ましたように突き刺された針、ベルトで拘束されてなお跳ねる冬菜の背中。一拍遅れて絞り出された悲鳴は、麻酔も無しに脊髄を抉られる苦痛の表れだった。


『ぁぁああああッ!!』


 痛い、痛いと連呼する声が春季の心を切り裂く。悪意すら感じるほどに長い時間が過ぎた後、ようやく脊髄から針が引き抜かれて行った。

 嗚咽混じりの悲鳴が何度も響いて、手術室に反響する。それでも検査の手を止めようとする者は、誰一人としていない。次なる処置に向けて取り出された穿刺針を見た途端、冬菜からはヒッと息をのむ悲鳴が上がる。


『やめて……それ、痛いの……』


 歯の根も合わないほどに怯える冬菜は、途切れ途切れに懇願する。

 しかし、抵抗するまでもなく体勢が変えられると、今度は腹部側の拘束衣が開けられていった。ファスナーの隙間からのぞく腹部、脇下。

 そこに大きく刻まれた古傷が晒されると、必死の抵抗でベルトを軋ませる音は激しくなっていった。だが、うっすらと肋骨が浮き上がる脇腹には、無情にもマーキングが描かれる。手際よく消毒剤が塗りつけられると、一層強く、焦燥感を滲ませる悲鳴が上がる。


『お願い、お願いだから――――!』


 容赦なく突き立てられた針が、白い柔肌に深く食い込んでいく。

 数cm、十数cm、信じられないほどに深く突き刺さっていく穿刺針は、骨の間を抜けて内臓にまで達する勢いだった。針に突き刺された周辺の肌が、みるみる内に内出血で紫に変色していく。

 全身から噴き出す脂汗、無影灯に照らされた肌がびりびりと痙攣する。もはや声にならない、かすれた悲鳴を上げる冬菜の顔を涙が伝っていった。


「く、そ……ッ!」


 胸が苦しくて、まるで内臓が沸騰するかのような心地だった。冬菜が苦痛に苛まれるのを見ているくらいだったら、自分が痛めつけられている方が、遥かにマシだった。春季が思わず噛み切ってしまった唇からは、血涙の如き一筋の血が流れ落ちていく。


「フユ……僕が、僕が助けるから……絶対に、必ず……だからっ!」

「はい、終わりよー! 昨日分の映像はここまでね」


 凱藤の手がタブレットに伸びて来ると、唐突に映像再生が打ち切られた。暗転した画面に反射するのは、溢れ出る激情で歪み切った自らの顔。つい昨日、学校へ行く前に鏡で見た姿とは似ても似つかない、修羅の如き形相だった。

 悔しさと無力感で零れ出す涙が、春季に自らの非力さを刻み付ける。

 凱藤は、そんな春季を意に介する素振りも無しに、タブレットのデータを読み上げていく。


「思考能力、代謝能力、生殖能力、ストレステストや生検で色々調べてみたわ。どれも人間のそれに近似できる値だという事が分かったけど、もうちょっと弄って見ないと分からない事も多くって……困っちゃうわね」

「……お前はアアァッ!」


 床に抑え付けられているのも構わず、春季は喉が張り裂けんばかりに吠えた。怒りのままに足掻く全身を伝うのは、ミシミシと筋繊維が軋むような音だったのかも知れない。

 それでも、立ち上がることさえ出来なかった。

 黒服たちに数人がかりで潰された身体は、びくともしなかった。

 これだけ憤っているのに、これだけ力を振り絞っているのに。頭上で涼しい表情を浮かべる凱藤にさえ、春季の怒りが届く事は無いのだ。


「あ、別に検査以外のつまらないことはしてないわ。変なことをする輩が居たら、アタシがサンプルにしちゃうもの。安心していいわよ」


 ぷつん、と、頭の中で何かが切れるような音が聞こえた。

 今まで意識した事も無い感情に任せ、春季は半ば唸るように声を絞り出す。


「殺して……やる」

「別にいいわよ、アタシを殺したところで終わるものじゃないもの。好きでやっている連中なんてほとんどいないわ。狂気の産物よ、ここも。アタシもね」


 唐突に声音を変えた凱藤に、春季はしばし言葉を失う。これではまるで、人形スワンプマンか何かと話しているようなものだ。あまりに噛み合わない凱藤とのやり取りに、いっそ脱力感さえ襲いかかって来る始末だった。

 春季の胸中で、一瞬だけ燃え上がったどす黒い炎。

 それが徐々に温度を下げていくにつれ、彼は自らの無力さと再び向かい合わねばならなくなった。結局、力がなければ何も出来ない。冬菜を助けることも、絶対に出来ないのだと。

 だがその時、凱藤が唐突に言い放った言葉に、春季は耳を疑う。


「いいわ、春季クンを離してあげなさい」


 ですが、と口々に意義を唱え始める黒服たちを無視し、凱藤は背を向ける。


「そう固いことを言わないの。アタシが良いって言ったら良いのよん」

「しかし、施設内を移動するにも許可が」

「アンタも、あのE検体の隣に並べられたいの?」


 凱藤から放たれた氷のような一言。なんでもない事実を語るような声音が効いたのか、黒服たちはぶつぶつと呟きながらも引き下がる。同時に、春季の背中からも、息苦しいほどの重さが抜けて行った。咳き込みながらも立ち上がる春季は、ようやく凱藤と同じ目線に立った。


「ああ、ついでにそれも返してあげなさい」


 凱藤博士の指示が飛ぶと、ぼろぼろのシャツが春季に返された。ガラス片が突き刺さった箇所は小さく破れ、ところどころこびりついているのは乾いた血痕。胸から腹にかけて伸びる古傷を覆うように、春季は薄汚れた服に袖を通す。


「キミ、付いて来るといいわ。E検体を救う方法を教えてあげる」


 驚愕で声も出せない春季を前に、凱藤はどこまでも甘い声音で語り掛ける。その裏に代償の存在を滲ませつつも、春季にとってそれはあまりに蠱惑的な響きを含んでいた。

 だが、それはまさしく、悪魔との契約に他ならない。

 白衣と喪服に身を包む悪魔は、誰に聞かせるでも無い呟きを宙に浮かべる。


「やっぱり素直なこの子には、狂気の魔神エルンダーグがお似合いだわぁ」


 その顔には、どこまでも深い歓喜の色があった。


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