ep2/25「捧ぐはたった一つの嘘」

 ――――冬菜ふゆなは、いつだって僕の傍にいてくれる。

 それが、少年にとっての当たり前だった。


「ねぇ、ハルってばぁ!」


 昔からの幼馴染、腐れ縁。物心ついた時からの家族のような存在で、すっかり距離の置き方を忘れてしまった娘。彼女との関係性を表す表現は幾らでも思いつくが、姉と妹を兼任したら、きっと冬菜のようになるのだろうと思える。そんな同い年の女の子だった。

 つまるところ、妙に世話好きで、ちょっとだけ口うるさい。


「おーい、藍田春季あいだはるきくーん! 学校遅れちゃうよ?」


 いや、今に限って言えば、かなりうるさい。

 開けっぱなしにしていた窓。風一つ吹き込んで来ない窓から聞こえてくるのは、彼女が寄越して来るモーニングコールだ。

 朝一番、甲斐甲斐しくも続けられる最後通告に、少年は精一杯叫び返すしかない。そうでもしなければ、冬菜は意気揚々とこの部屋にまでやって来て、春季を包むタオルケットを剝ぎに来ることだろう。

 高一なら朝くらい自分で起きるさ。その決意を胸に、彼は重い瞼を開ける。


「だーかーらー、他の家にも聞こえるから止めろって! 今行くから!」

「ご近所さんとか、田んぼの向こうにあるだけじゃん!」

「そ、それは……そうだけどさ!」


 全くもって正しい言葉に反論を詰まらせつつ、彼は時計を見やる。AM07:30。

 慌てて制服に着替え始める春季は、鏡に映る自分の姿にため息を吐いた。柔らかい茶髪はぼさぼさ、後ろには頑固そうな寝ぐせまでついていて、撫で付けようとするだけ無駄だと分かる。どうせ冬菜以外に咎めて来る人などいないのだし、今はひとまず部屋を出るべき時だ。

 この際、ネクタイが曲がっていることにも目を瞑るしかない。


 なんとかポロシャツの制服に着替え終えた彼は、弾かれるように玄関へ。カバンを引っ掴んで離れの小屋から出た途端、制服姿の冬菜が視界に飛び込んで来る。

 黒髪をハーフアップに纏め上げた姿は、八月の陽射しと陽炎かげろうの中に揺れていた。


「遅いって! 暑くてしょうがないんだからね、もう」


 とっくに母屋から出ていた冬菜は、片手を腰に当てながら春季をにらむ。むーっと目を細める姿にしても、幼馴染としての気安さに満ちた温かなものだった。

 寝る時こそ、母屋と離れに分かれている二人だが、普段は一つ屋根の下。かつて頼るべき家族を亡くした春季と冬菜にとって、この家は共に帰るべき場所だ。毎日、毎朝、家の前でこんなやり取りを繰り返すのが、平穏な日常の始まりを告げる一幕になっていた。


「ごめんってば」

「いっつもそれなんだから」


 そして春季がしぶしぶ謝る時、なにがおかしいのか、冬菜は決まってふふっと笑う。そんな彼女の表情の移り変わりを見るのが、彼は決して嫌いではなかった。

 それでも、すっかり暑さにやられている冬菜の表情は、どこか夏バテ気味だ。暑さに弱いはずの彼女は、しかし夏でも長袖を欠かすことはない。うっすらと汗ばんだ顔をぱたぱたと手で仰ぎつつ、彼女は伏し目がちに歩み寄ってくる。


「ほ、ほら、ネクタイも曲がってるしさ……やってあげるよ」


 ぐい、と最後の一歩を詰めて来た冬菜は、すっかり慣れた手付きでネクタイを解いていく。ネクタイを手早く結び直している最中にも、ふいに黙り込んでしまった彼女の存在はすぐそこに感じられる。

 衣擦れと息遣いだけが支配する沈黙、視界を埋める彼女の黒髪。鼻元をくすぐる甘い香りが、徐々に心臓の鼓動を速めて行く。

 無防備に近付けられた顔に、思わず少年は頬が火照るのを感じる。もう充分過ぎるくらい暑いというのに、さらに体温が上がってしまいそうだった。


 手を伸ばせば触れられる冬菜の頬、冬菜の髪。

 それでも、春季にしてみればあと数十cmの距離が遠い。


 少年にとって、彼女はあまりにも近過ぎて、だからこそ他人以上に遠くて。

 不意の接近に胸を高鳴らせる少年は、未だ伝わらない想いに歯痒さを感じて止まない。そんな彼は、彼女の頬もまた、僅かに赤く染まっていることには気付いていなかった。気付けるほど、器用では無かった。


「ほら、いくよっ」


 少年の胸をぽんと叩いた彼女は、自転車へと向かっていく。軒先に止めてあるのは、使い古した一台だけだ。


「って、二人乗りするつもり?」

「寝坊したハルが悪いんだからね」


 気が早い冬菜は、すっかりその気で自転車の荷台に腰を下ろしている。片方は昨日パンクしたばかりだというのに、肝心の彼女は素知らぬ顔だ。

 もうこうなったら、二人して自転車に乗っていくしかない。

 春季はあきらめた様子でサドルに腰掛けると、冬菜が腰に手を回して来るに任せた。どうせ誰と出会うでもないド田舎、二人乗りが咎められる事もそうそうない。


「ハル君、ゴーゴー!」

「ったく、フユは楽が出来ると思って……!」


 線の細い春季は、半ば呻きながらもペダルを漕ぎ出す。

 いかに女の子とはいえ、荷台に乗せているのは数十kgの重量物。重いのは当然で、だからこそ口が裂けても「重い」とは言えない春季は、額に汗を浮かべながらもただ漕ぎ続ける。

 見渡す限りの田んぼ、ご近所と呼べる家も無いような田舎。ド田舎。

 古びたアスファルトに覆われた細道を走りながら、自転車は微かな金属音を奏でる。

 近くて遠い、すっかり距離の取り方を忘れてしまった二人を乗せて。


「ありがと」

「いいって」


 遥か遠くに見えるのは、天を衝くかのような白い尖塔。

 青空に飛行機雲を描いていくのは、航宙戦闘機五個小隊の編隊。

 掃討用ドローンを詰め込んだ飛行船は、八月の陽射しで爛々と煌めいていた。


 辺境管理区域にひかれた通学路は、國立第伍拾参高等學校へと続いていく。

 西暦2158年、夏。いつもと変わらぬ登校風景の中に、春季と冬菜の姿はあった。



 * * *



『次は、生徒指導担当からです。そこー、よく聞くように!』

『――――ええ、今さらと思うかもしれませんが、よく聞いて下さい。この八十年以上、私たち人類が火星より遠くに行けなくなった理由を、皆さんは知っていますね?』


 うだるような熱気に満たされた密閉空間。割れたマイクの音が響く。

 朝一番の全校集会は、ほとんどサウナにも等しい体育館の中で行われていた。縦横に数百名の生徒が詰め込まれているともなれば、窓から吹き込んで来る風も中には届かない。四方を同級生に囲まれた春季の肌にも、汗が噴き出して来て止まらない。

 暑い。とにかく暑い。

 そんな状態で今さら・・・外訪者アウターの話をされても、頭に入って来る訳がなかった。

 本当に今さらだよな、と思う。ただそれだけだ。


「火星より先に行けないのって、外訪者アウターがいるからだろ?」

「バカ、それ以外に何がいんだよ」


 あまりの退屈さに耐えかねたのか、男子列の後ろからはそんなやり取りも聞こえて来る。

 外訪者アウターがいるから、人間は火星より先に行けなくなった。

 外訪者アウターがいるから、宇宙空間で戦争が起こるようになった。

 今から80年以上も前に現れた化け物の事なんて、知らない者はいない。そんなこと、今さら歴史で習わなくたって知っている常識だ。ずらっと並ぶ生徒たちの中には、欠伸をしている者も目立つ。


『皆さんも他人事だと思ってはいけません。この第伍拾参管理区の隣、第伍拾弐管理区でも人形スワンプマン被害があったということです。人形スワンプマン外訪者アウターが人間に擬態しているものですから、見掛けたらすぐに通報しなければなりませんよ。皆さんもそれを徹底するように』


 外訪者アウターが人間に擬態している姿。人形スワンプマン

 ニュースや新聞を見ていれば、毎日見掛ける名前だった。今日はどこの管理区で暴れていただの、殺傷事件を起こしただの。交通事故と同じくらい頻繁に取り上げられる話題だったから、そういうものがいるらしい・・・・・という事は知っている。

 実際は、目の前で見た事なんて無い。


『何より気の緩みこそが被害を生むことに繋がるのです。人形スワンプマンを見掛けても近寄らない、刺激しない、その二点を――――』


 だから、そんな決まり文句もどこか遠いものでしか無かった。


「うおっと!」


 暑さでボーっとしていた春季は、急に身体が傾ぐような感覚を覚える。思わずぎょっとした彼は、斜め後ろから冬菜の手が伸びていることに気が付いた。ポロシャツの裾をくいくいと引っ張る冬菜は、ちょっぴり不安そうに眉を寄せている。何気ない仕草、不意に触れる感情に心臓が高鳴る。


「どうしたの?」

「最近はここら辺にも出るって。怖いね……」

「こんな所に出ないって、人形スワンプマンなんて。多分」


 春季とて、そんな曖昧な言葉で納得してもらえるとは思っていない。

 微かにうつむく冬菜にしても、やはり納得し切ってはいない様子だった。

 そして、こんな真夏に長袖を着込んでいるのは、周りを見ても彼女ただ一人。頬に張り付く黒髪の一筋が、奇妙な引力をもって春季の視線を縫いとめる。許されるなら、いつまでも見つめていたいくらいだった。

 だが、急に顔を上げた冬菜を前に、彼は慌てて視線を逸らす。


「って、あれどうしたんだろ」


 二人の背後が、いつもとは違う雰囲気でざわつき始めていた。

 ひょこひょこと背伸びをして後ろを見やる生徒に混じり、春季もまたざわつきの中心に目を向ける。そこではちょうど、ギーッと鉄が砂粒を噛む音と共に、体育館後ろの金属扉が開け放たれようとしているところだった。

 扉から入って来たのは、ちぐはぐな作業衣を纏う中年の男。だが、それがさも当然であるかのように通路を進み始めるので、いっそ不審とは言えない空気を漂わせている。自然と道を開ける生徒たちを横目に、男はぐいぐいとこちらに向かって来ていた。


「誰だよ、あのおっさん」

「用務員の人とかに……いなかったっけ?」

「今は全校集会だって。時間間違えてんじゃない」


 生徒たちから思い思いの推測が聞こえてくる中、騒ぎを無視し切れなくなった教師たちが男の下へと近づいていく。そこにはまるで、日常が侵されているような、どこかガラスを隔ててショーが繰り広げられているような感覚もあった。

 不審者と呼ぶにはあまりに堂々としている男、止めに入ろうとする教師たち。あまりに唐突な事態を見守る生徒たちは、集団心理の檻に囚われている。今、本当は何が起こっているのかを理解している者など、殆どいなかった。

 既に凍り付いていた判断基準では、誰もがそれを異常・・だと見なせなかった。


「ちょっとあなた、そこで止まらないと警察に――――」


 警戒しつつも近付いていく教師が、男に向けて指をさす。

 発光。次の瞬間には、教師の肘から先が消えていた。

 バチンという間抜けな音が体育館中を駆け抜けると、ようやく極彩色に切り取られた空間が見えるようになる。割れ砕けたガラス片が一斉に反射し、粉雪の如く煌めいては生徒たちに降り刺さっていった。

 生じたばかりの真空に引き込まれた空気は、風切り音と共に肌を撫でていく。

 春季の頬にも、痛みも無しに伝っていく温かさがあった。動けなかった。


 瞬間、沈黙が時間を止める。


 真空の刃に巻き込まれた肌から滴り落ちる血滴、苦悶を訴える教師の絶叫。

 もはや、何がきっかけだったのかは分からない。一気に地獄絵図と化した体育館内は、我先に逃げ出そうとする生徒たちの混沌に満たされ始めていた。

 その場で凍り付いたかのように突っ立っている女子生徒、泣き喚いて同級生を押し退けようとする男子生徒、濁流と化した生徒に踏み潰される生徒、多数。

 誰もが恐怖に神経を焼かれる中、春季は濁流に流されかけている幼馴染の名を叫ぶ。


「フユッ!」

「ハル、ハル! こっちに……いるから!」


 互いに精一杯手を伸ばし、すれ違って、ようやくがっちりと掴み合う。

 安堵の表情を浮かべたのも束の間、バランスを崩した二人は、濁流から弾き出されるようにして転んでしまった。咄嗟に冬菜を抱き締めた春季は、自ら床に打ち付けられるようにして彼女を庇う。転倒。鋭い痛みと共に肺の中の空気が抜け切って、春季は思わずむせ返る。

 それでも腕の中に留めた冬菜の感触は、どこまでも細くて頼りない。


「た、立てる?」

「うん」


 今にも泣きそうな冬菜の表情を見て取った春季は、しかしその背後の光景に凍り付いた。

 例の男が、人形スワンプマンがこちらに歩いて来ている。

 眼球が収まっているべき場所は深く落ち込み、どこを見ているかも分からない。そんな男の姿はようやく、春季にも聞き覚えがある人形スワンプマンのそれになっていた。


 ――――僕たちは今、人形スワンプマンに襲われているんだ。


 あまりに遅すぎる実感が膝を震わせ、冬菜に見せた精一杯の虚勢さえ打ち砕こうとして来る。とにかく怖かった、恐ろしかった。未だ苦悶の絶叫を上げている教師の姿を見れば、なおさら恐怖が掻き立てられていく。


「えっ……やだ」


 視界の端では、顔を青ざめさせた冬菜がなんとか立ち上がろうとしている。だが、すっかり腰が抜けていては、その場から動くことすらままならないだろう。

 逃げられない。

 その現実が、春季の意識を真っ暗に遠のかせる。吐き気にも似た恐怖、焦燥で震える身体は、もはや自分のものとは思えないくらいに自由が利かない。

 人形スワンプマンと冬菜。それしか見えぬほどに、彼の視野は狭まっていた。


「やって、やる……!」


 恐怖で締まり切った喉から、本当にそんな言葉が出たかどうかも分からない。

 そんな春季が無意識に頬を拭うと、右手にはべっとりと生温い感触が張り付いて来る。そこに目を向ければ、飛び込んで来るのは肉の色、血の赤だ。それまで頬を濡らしていたものを目にした途端、まるで嘘のように震えが止まった。


 擦り切れた判断能力では、もうこの現実を受け止め切れていないのかも知れなかった。

 心臓は暴れ狂い、全身から冷汗が噴き出す。脳内麻薬に奮い立たされた春季は、もはや人形スワンプマンの虚ろな眼窩しか見ていない。

 次の瞬間、春季は血に濡れる体育館の床を蹴り出していた。

 声にならない絶叫を喉から迸らせつつ、自分が走れていると信じて足を動かす。


「――――ッ!」


 瞬きをした途端、自分の腕が消えているかもしれない。

 足を踏み出そうとしたら、付け根から抉り取られているかも知れない。

 どうにかなってしまいそうな恐怖の中で過ぎ去ったのは、たったの一瞬。人形スワンプマンの下へと突進していった春季は、急にふわりと投げ出されるような感覚に戸惑う。


「え」


 視界がぐるりと横倒しになっていく中、人形スワンプマンの背が見えた。

 直後、脇腹辺りの熱さが、まるでハンマーに殴り付けられたような鈍痛へと変わる。自分がスワンプマンに殴り飛ばされたのだ、と彼が気付いた頃にはもう遅かった。

 衝撃。交通事故さながらに吹き飛ばされた春季は、血とガラスに飾られた床へと叩き付けられる。床に散らばるガラス片が、ところ構わず全身に切り傷を刻んでいった。

 春季はそれでも、這いつくばるようにして立ち上がる。


「ハルッ、ハル――――ッ!」


 冬菜の鋭い悲鳴が、何度も春季の名を叫ぶ。

 よろよろと顔を上げた彼は、冬菜の手前5mにまで迫った人形スワンプマンの背姿に今度こそ凍り付く。

 壁際に張り付くようにして震えている冬菜は、これ以上逃げようがなかった。人形スワンプマンはそれを理解しているかのように、ゆっくりと彼女へと手を伸ばしていく。

 まるで生気を感じさせない手が、目を見開く冬菜に触れんと迫って――――


「やめ……ッ」

「いやアアァッ!!」


 春季が駆け寄るまでもなく、特有の発光現象が視界を焼いた。

 バチンっという音が響き渡った頃には、発光に呑まれた上半身が丸ごと抉り取られている。後に残ったのは、腰から下に連なる両脚とその残骸。腰の切断面から冗談のように噴き出す血液は、悪趣味な噴水となって体育館の床に真っ赤な池を作り出していった。


「うそだろ……なぁ、フユ!」


 上半身を抉られた死体を前に、無傷の冬菜・・・・・はへなへなと座り込む。

 血しぶきに頬を濡らし、誰よりも驚いている様子の彼女を前に、春季はかすれた声で呼びかけていた。しかし、ただ呆然と春季を見つめるだけの冬菜に、応える気力は残っていないようだった。

 その時、春季の後ろの方で、恐怖に上ずる一つの悲鳴が上がった。


「あいつも――――あいつも人形スワンプマンと同じことを! なあ!」


 悲鳴を切っ掛けに、未だ体育館内に残っていた無数の視線が二人に突き刺さる。

 それでようやく、狭窄きょうさくしていた春季の視界が開けた。周りに100人以上の人間がいたことに、今さら気付かされたのだった。


 そして、彼らから向けられた視線に混じるのは、未知なるものへの恐怖。

 つまるところ、人形スワンプマンと全く同じことをやってのけた少女に対し、誰もが恐怖していた。あいつも人間じゃない――――言外にそう告げる彼らは、二度目のパニックに呑まれては出口に殺到していく。

 他ならぬ、冬菜から逃げるために・・・・・・・・・・


「違う……」


 一体、何が違うというのか。

 春季は思わず、血が滲むほどに強く拳を握り締める。我先に体育館を後にする生徒たちを、呆然と見送るしかなかった。


「ね、ハル」


 驚くほど静かに、背中から投げ付けられた声に、春季は恐怖する。

 そこに続くはずの問いかけに、どう答えればいいのか分からずに恐怖する。


「あれ、私がやったんじゃないよね。そうじゃないって言って……ハルがそう言ってくれれば、わたしは、わたしは……」


 嗚咽に変わっていく言葉は、最後まで聞き取る事が出来なかった。

 彼女の懇願は、春季の心をも締め付ける鎖だ。

 即答できないのが悔しくて、どうすればいいのか分からなくて、それでも冬菜を放っておく事は出来るはずもなくて。思わず、身体を引きずってまで走り寄る春季は、彼女の震える身体をきつく抱き締めた。冬菜もまた、そうしなければ春季まで居なくなってしまうとでもいうかのように、きつく、きつく彼に縋りつく。


 そして、一つの想いに心を固めた春季は、冬菜に語り掛ける。


「フユがやったなんて……そんなことがある訳ないだろ?」

「本当に?」


 ――――嘘だ。


「僕が嘘をついたことがあった? 違う、あれは違うんだよ……!」

「そうだよね、違うんだよね」

「うん」


 ――――何も違わない。現実は変わりはしないのに。


 もはや誰もいなくなった体育館、抱き締め合う二人はきらきらと輝くガラスの海に溺れようとしていた。互いの言葉だけが、この受け入れがたい現実を否定してくれる救いだった。だから、どんなに虚しい嘘だと分かっていても、二人はそれに縋りつく。


 捧ぐはたった一つの嘘。

 君は人間だと告げる、優しくて残酷な嘘。


「ごめん」


 今だけは冬菜に聞かせたくなかったのに、その一言が春季の口からこぼれ出てしまう。繕う術を知らない彼は、無言の裡に冬菜が応えてくれるのを待ち続けた。

 普段なら、ふふっと笑ってくれるのに。

 普段なら、「いつもそれなんだから」と言ってくれるのに。

 腕の中でただ震える彼女が、もう笑うことはなかった。


 その日の夜、体育館から7km離れた防砂林にて、二人は確保された。


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