4-6
清水さんに教えてもらった施設に着く頃にはすっかり日が暮れていた。周りは本当に都内か疑いたくなるほど静かで、夏に向けて青々と緑が茂っている。
「すみません、もう面会可能時間は終わっていて……」
受付の女性は申し訳なさそうにしつつも、訝しむような視線を投げかけてきた。それはそうだろう、そもそも年齢的に二人の組み合わせがおかしいし、ずっと面会に来なかった悠香さんの家族を名乗る人間が突然現れたら、疑いたくなるのは当然だ。
「ねぇ、そんなこと言わずにお願い。ママに久しぶりに会いたいんだ。秋山悠香はどこの部屋にいるの?」
ましろは猫なで声でそう言って受付の女性に手を伸ばし、ぱちっという音が弾けた。女性はすみません、と言って手を引っ込めたが、少女の方はにっといたずらにほほ笑む。
「あっすみません、急にトイレに行きたくなっちゃった! お手洗い借りてもいいですか?」
「ど、どうぞ……。そこの通路の突き当たりです」
「ありがとう、お姉さん!」
女性が事務作業に戻って俺たちを気にしなくなったのを見計らい、ましろが小声でこっち、と言ってトイレとは別方向の居住エリアへ歩き出した。女性の心を読んで母親の入居している部屋の場所を把握したのだろう。
施設の通路は車椅子がすれ違えるほどに広く、いたる所に手すりが備え付けてある。張り紙の文字は大きく、いかにも高齢者のための施設という感じがした。時折開きっぱなしの居室のドアから、じっと動かずにベッドの上に座り込んでいる人の姿が見えると、俺はましろの母親にはやはり会わない方がいいのではないかという気がしてきた。こんな場所にましろの母親がいるなんてまだ実感が持てない。
受付から一番遠い部屋に、「秋山悠香さん」と書かれた札がかかっていた。ましろはノックもせず扉を開ける。ベッドとテレビを置くくらいしかスペースのない部屋の真ん中で、一人の女性がベッドに上半身を起こして座り、窓の外を眺めている。扉が開く音に気付いたのか、女性がゆっくりとこちらを振り向いた。
「あれ、今日はもう、お薬飲みましたけど……」
その姿は写真よりも少しやつれていて、あまり外に出ないからかより一層色白さが増していた。しかしカーキ色の瞳と穏やかな表情に面影がしっかり残っている。
「……ママ。ましろだよ」
悠香さんはしばらくぼおっとこちらを眺めていた。ピントを合わせるかのように黒目が大きくなり……やがてその目から一筋の涙が流れた。彼女はやせ細った震える手で目をこする。
「やだ……私、ついに幻覚まで見るようになっちゃったの……? あの子がここに来るはず無いのに……」
何度も何度もこする。色の薄い肌はすぐにうっすら赤らんだ。それでも彼女はこすり続ける。
「幻覚じゃないよ。ママに会いたくて、来ちゃった」
ましろは部屋の中に入って悠香さんに近づこうとしたが、彼女は目をこすっていない方の左手で幻覚をかき消すかのように手を払った。ましろの顔の緊張が一瞬ほぐれ、不安げな泣き顔が垣間見えたが、彼女はぎゅっと口を一文字に結び直し、その場で立ち止まった。
「……どうしてここが分かったの? 早川くんには教えてなかったのに……」
「この人に協力してもらったの」
そう言ってましろは俺を指差す。俺は悠香さんに軽く会釈した。
「……もしかして、彼氏?」
「彼氏じゃありません。H大四年の黒柳って言います。早川先生からましろさんの家庭教師を頼まれてます」
「あら、ごめんなさいね。ちょっとそこの眼鏡取ってもらえる?」
枕元の眼鏡は彼女が手を伸ばせば普通に届く距離にあった。しかし悠香さんは腕を伸ばそうともしない。ましろが眼鏡を取って渡すと、悠香さんはゆっくりとした動作でそれをかけようとしたが、手が小刻みに震え、眼鏡は床に落ちてしまった。カシャンという金属音に、ましろは一瞬身をすくめる。
「ママ、大丈夫?」
悠香さんはふっと口元に笑みを浮かべ、首を横に振った。
「いつものことよ……最近は、思うように身体が動かない時間が長いの。面倒だな、って思ったでしょう? こんなに近くの眼鏡を取るのにも苦労するし、自分の力でお手洗いにも行くこともできないの。……ましろ、あなたが幻覚でも本物でもどちらでもいいわ。今日私に会ったことは忘れなさい。こんなに情けない母親のことなんて忘れて、早川くんと二人で暮らすの」
悠香さんはそう言うと、ゆったりとした動きでベッドの布団を引き寄せ、顔を覆ってしまった。ましろの手が小刻みに震えている。口をぱくぱくと開くが、声にはならない。手を伸ばせば届く距離なのに、心も読める距離なのに、ましろの右手は動かない。あと一言が怖いのだ。この距離を縮めてしまった時に、母親から吐き出される言葉を恐れているのだ。
その時、俺の視界に部屋の中のあるものが目に入った。悠香さんのベッドの枕元に置かれた、ましろの持っているものと同じルービックキューブのキーホルダー。お揃いだったのか? そういえば、あのルービックキューブの白の面に書かれていたイニシャルは……その時、俺の頭の中でカチャリと音がして、ずっと揃わなかったパズルが綺麗にはまったような気がした。
大丈夫、大丈夫だよ、ましろ。言葉に出す必要はなかった。俺はましろの震える手を握る。ピリと静電気が走った。俺の手の中で、一回り小さな手の震えが少しずつ少しずつおさまっていく。ましろはすっと胸いっぱいに息を吸った。
「私は嫌だよ! ママがどう思っていたって……はなればなれはもう嫌だよ!」
静まっていた施設の中でましろの声がこだまし、あたりが少しだけざわつくような気配がした。布団をかぶった悠香さんの肩がわずかに上下する。布団の向こうから、くぐもった声が聞こえてきた。
「なんで来ちゃったのよ……! 死ぬまで会わないつもりだったのに! あなたが来たら……家族がいたら、きっと頼りたくなってしまう……親として何もできていないのに、子どもにだけそんな迷惑をかけるなんて……惨めな思いをしたくなかったし、させたくなかったから……だから、あなたを引き離したのに……!」
ましろは勢いよく悠香さんの布団を剥ぎ取った。悠香さんはハッとして顔を覆う。瞳の周りはすっかり赤く腫れぼったくなっていた。
「迷惑なんかじゃないよ。私を頼ってよ。たった二人の家族なんだよ。お母さんが寂しくここに一人でいるのは……私だってつらい」
ましろは母の手を小さな両手で包み込む。電気の弾ける小さな音がしたが、二人ともしっかりと手を握ったまま離さない。静かな部屋の中で、二人の鼻をすする音だけが響く。悠香さんは何度も何度も「ごめんね」と繰り返し、ましろはその度に首を振った。わざわざ言わなくたって分かる。悠香さんはましろのことを嫌っていたわけではなかったのだ。あのキーホルダーのイニシャルの意味はきっと、母と娘のためのものだったのだ。
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