4-5


「……ましろ」


 踏切の脇に少女が座り込んでいる。早川が示した場所に着く頃には陽が傾き始めていて、彼女の明るい髪は夕日を浴びてきらきらと黄金色に光っていた。


 少女が座る場所の隣に、小さな瓶と一輪の花。ここがどんな場所かは、聞かなくても分かる。


「ましろ、帰ろう。先生も弥生ちゃんも心配してる」


 ましろは顔を伏せたまま身動きをしない。駆け寄って肩を揺するが反応はない。俺はしゃがんで彼女の表情を覗こんだ。その瞬間、ぞっと背筋が凍る思いがした。カーキの瞳は遠くを見つめて虚ろに揺れ、赤らんだ頬の上をとめどなく涙が流れ続けている。小さな口からは「私、ぼく、俺、あなた……」と意味のわからない言葉の羅列が吐き出される。早川の言ったことが脳裏をよぎった。人の心を過剰に読めば、それに飲み込まれてしまう。そして最悪の場合――


「ましろ、しっかりしろ!」


 大声に対する反射的な反応か、ましろの肩がぴくりと上下した。しかし彼女の瞳は目の前の俺を映さない。


 こんなに脆かったのだ。俺が単位を手に入れるために家庭教師をすることになった少女は、いつもはつらつとしていて、強気で、まっすぐで……だけどとても孤独だった。彼女の強さは、その孤独を紛らわせるためのものだった。ましろに必要だったものは英語の知識とか、教師らしい方便とか、彼女の境遇に対する同情なんかじゃない。俺が、本当にすべきだったことは――


「ましろ、俺が今考えてること、分かる?」


 俺はましろの手を握った。長い時間こうしていたのだろう、指先がひんやりと冷たい。バチッと静電気が走った。しかしましろは相変わらずぼーっとどこか遠くを見ている。


「昨日苛立っていたのはましろに対してだけじゃない、俺自身も就活のこととか、莉子のこととか、いろんな悩みが重なって不安定だったんだ。あんな風にきつく言ってごめん……大人げないよな。これじゃただの八つ当たりだ」


 ましろに届いているかどうか自信がなくて、声が震えて消えそうになる。くそ、情けない。俺は大きく息を吸った。魂が抜け落ちたみたいなましろの顔を無理やりこちらに向かせて、目線を揃えて。




「……でも、それだけじゃない。俺は……俺は、本当は……ましろのことが、羨ましくてたまらないんだよ!」




 ましろの大きな瞳に夕日の光が入り込んだ気がした。彼女が瞬きをしたことで、その瞳に溜まっていた涙が押し出されて静かに頬を伝わっていく。


「うらやましい……?」


 するとましろは急に立ち上がって笑い始めた。


「あははははは! なんで? なんで旭くんが私のこと羨ましいって思うの? パパもママもいない! 友達もいない! 性格はひねくれてるし、空気読もうと思っても読めないし!」


「おーおー、自覚あんのかよ。そういうところだよ。腹立つくらい正直で、眩しいくらい素直だからさ。俺はいつのまにかそういうのを失くしてたんだって、気付かされたから」


「……なにそれ」


 ましろはハッと鼻で笑うとすとんと座り込んでそっぽを向く。彼女の手を取るとまた静電気が走った。しかしましろは俺の方を見ようとしない。


「そうかい、心を読む気がないんなら勝手に喋るからよく聞けよ。俺は最近まで自分のことを勝ち組だと思っていたんだよ。良い大学に入って、美人な彼女がいて、人気のゼミで勉強して、誰もが名前を知ってる会社に入ってさ。誰もが羨むような経歴だろ? それで幸せになれるはずだったんだ。……でも、なれるわけなかった。俺はただ、本当の気持ちを自分でも見つけられないところに隠して、敷かれたレールの上を走るのが上手くなってただけなんだ。就活で散々『君はうちの会社で何がしたいの?』って聞かれたよ。俺がそのとき頭に浮かぶのは面接官への印象が良い模範解答でしかなくて、俺自身がどう思うかじゃないんだ。そのことに漠然とした不安を感じつつ、自分を騙しながら前に進もうとしてた。結局前に進んだのは、時間と、周りに勝ち組だと思われるための理想像でしかなくて、本当の俺はいつからか……それこそ、ましろと同じ年齢くらいの時から、どこかに置き去りにされてる」


 ましろは何も言わなかった。ただ黙って、頬に残る涙の跡を拭う。


「ましろを見てると、置き去りにされた方の俺が疼くんだよ。このままでいいのか、って。正直、最初はあんまり深く関わりたくなかったんだ。どうせ単位のための一年以内の契約で、就活の方が大事だと思ってたから。だけどましろの家庭教師を始めて、一緒にお母さんを捜して……不謹慎なのかもしれないけど、すごい充実してるっていうか、本当の自分でいるっていう気がするんだ。就活なんかより自分と誰かのためになることをしてるっていう実感があるから」


 ましろがしばらく黙ったままなので、だんだんと気恥ずかしくなってきた。やっぱり俺があれこれ言うよりも、あとは早川に任せた方がいいのかもしれない。とにかく連れて帰ろう。そう思って彼女の手を引っ張ると、ましろはぼそりと呟いた。


「……私はちょっと怖かった。嫌われてても構わないから、ママの本当の気持ちを知ろうって思っていたのに……昔は明るい人だったって分かってくるうちに、知りたくない気持ちが大きくなってきたんだ。ママは怖い人だと思っていたから諦めていたのに……優しい人に好かれなかった私はなんだったんだろうって、怖くなったの。きっと私はどこかいい気になってたんだ。人の心が読めるから、人の心を変えることまでできるような気がしてた。でもそんなわけない。自分の親の気持ちすら上手くいかないのに、他の人の気持ちなんて変えられるわけがない」


「変えることもできるんじゃないか。現に俺はましろの影響を受けてる」


 ましろは首を横に振った。


「嘘だよ。そんなの嘘。私にはできっこないよ。期待しないでよね! 私の力は何の役にも――」


「そうじゃないって! ましろは心を読める力がなかったとしても、十分人の気持ちを変えられるだけの良いところがあるってことだよ。自信を持てよ! そうじゃなかったら弥生ちゃんはましろが駅に向かったことを伝えに来てくれなかっただろうし、先生は出張をキャンセルしたりしなかったし、俺はわざわざこんなところまで来なかった!」


 ましろの肩を掴む。カーキ色の瞳が大きく揺れる。


「お父さんに、弥生ちゃんまで?」


 呆然とする少女の身体を思わず抱きしめた。放っておくと、風に吹かれて飛んで行ってしまいそうな気がして。


「……だから、勝手に一人でどっかにいったりするな。それをされるのが悲しいことだって……一番よく分かってるのはお前だろ」






――ピリリリリ……ピリリリリ……


 俺のジーパンのポケットの中で電話が鳴り、ましろは思わずぷっと噴き出した。なんて間の悪い。眉をひそめて通話ボタンをオンにした。


「はい」


『あ、もしもし、清水です』


「清水さん、あの、今はちょっと……」


『あなたたちのお母さん、居場所がわかったかもしれないわ』


「え!」


 大きな声が出て、ましろが気になる様子でこちらを見てくる。


『あなたたちと話してて、やっぱり復職しようって気持ちになったの。それで育児しながら働いてる看護師仲間に、相談がてらあなたたちのお母さんを見たことないか聞いてみたわ。そしたら、ある施設にいるってことがわかって。ただ私も直接会ったわけじゃないしちょっと確証はないんだけど』


 緊張で胸の鼓動が早くなる。


「少しの手がかりでも良いんです。どこなんですか」


『O市の施設よ。ただ、そこは……』






 清水さんのその後の言葉をすぐには飲み込むことができなかった。今更だが、早川の言った通りやはり深入りしない方がよかったのかもしれないとさえ思えてきた。


「清水さんからの電話だったの? なんて言ってた?」


「ましろのお母さんがいるかもしれない場所がわかったんだ」


「本当! どこにいるの?」


「O市だから、今日中に行けなくもない場所だな」


「じゃあ行こう! 今すぐ行こうよ!」


 さっきまで泣いていたとは思えないほど、ましろは元気を取り戻していた。


「ましろ……本当に行くのか?」


「なんで今更そんなこと言うの? 旭くんだって一緒に探してくれてたじゃん。早く行こうよ」


「ましろのお母さん、ましろのこと覚えてないかもしれないんだぞ」


「え? ああ、まぁ五年も離れてればね。私もだいぶ身長伸びたし」


 ましろはきょとんとして自分の全身を眺める。


「そうじゃない。そこ、病院じゃなくて介護施設らしいんだ」


「……介護施設?」


「ああ。ましろのお母さんがどんな病気だったかわからないけど、もしかしたら……」


 その先は言葉にするのははばかられた。だが、俺のその思いを察してか否か――いや、彼女は他人に言われてどうこうする性分ではないのだ――、すくっと立ち上がるとはっきりとした声で言った。




「それでも行く。私は行くよ」




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