五章 約束破ります

5-1


「はぁ、はぁ……悠香さん、こんなところにいたんですね」


 しばらくして、息を切らした早川が悠香さんの部屋に入ってきた。


 あの後俺から電話したのだ。勝手にこんなことをして叱られるかと思ったが、早川の第一声は「どこにいる?」だった。彼が悠香さんの行方を掴めていなかったのは本当のことだったのだ。空港から慌てて戻ってきて、さらにここO市まで急いでやってきた早川の表情には見るからに疲れが浮かんでいて、いつもはしっかりまとめられた髪がバラバラと散っている。


 早川の顔を見ると悠香さんは決まりが悪そうに俯いて、「早川くん……ごめん」と小さな声で言った。


 ようやく息が落ち着いてきた早川は、ましろと俺、そして悠香さんの顔を交互に見る。


「まさか自力で辿り着いてしまうとはな」


「自力じゃないよ。旭くんに手伝ってもらったの」


「黒柳くん、やっぱり君は……」


 早川は途中で言葉を飲み込んだ。そして小さくため息をつくと、ふっと笑みを浮かべて言った。


「君はまだまだ子どもだな。だが……だからこそ、悠香さんを見つけられた」


 ましろはうんと縦に頷く。褒められては……いないと思う。だけど早川にそう言われて不思議と嫌な気はしなかった。早川はましろの細い髪をぐしゃぐしゃと撫でると、悠香さんのベッドの隣の丸椅子に座った。そして……その後の彼の行動に俺は目を見張った。早川が、悠香さんに向かって頭を下げたのだ。


「約束を守れなくて、本当に申し訳ない……!」


 あの早川が、人に頭を下げるなんて。普段の彼からは想像もできない。おまけに、四角いフレームの眼鏡は少しだけ湯気で曇っている。


 悠香さんはふるふると首を横に振って早川の顔を上げさせた。


「私こそごめんなさい。全部、あなたに押し付けてしまって」


「いや……自ら引き受けたことです。私自身の罪滅ぼしのためでもあった」


 早川はズズッと勢いよく鼻をすすると、ましろと俺が立っている方へ向き直った。そして、黒のリストバンドを外した。以前どれだけ酔っても外す気配はなかった、あのましろとの壁が今、取り払われたのだった。


「もう隠す必要はなくなってしまったな。少し昔話をしたいんだが、付き合ってくれるかい」


 俺もましろも黙って頷いた。





***





「早川、聞いてくれ」


「あ?」


 私はその日、最高に機嫌が悪かった。明日大事な学会発表があるというのに、夜遅くに秋山に行きつけのバーに呼び出されたからだ。行きつけと言っても、秋山が結婚してからは足が遠のいていたからずいぶん久しぶりだった。心なしかこのバーも寂れたなと思う。そういえば悠香さんが働いていた時には毎日のようによく来ていた江戸っ子風の男も、常連客用のカウンター席に姿がない。


「今度、子どもが生まれるんだ。しかも、女の子」


「そうか」


「なんだよ、感動が薄いな」


 正直私はがっかりしているのだ。互いに研究一筋の独身男でずっと張り合っていくものだと思っていたのに、秋山が悠香さんと電撃婚をしてからというもの、彼からは覇気が感じられない。唯一ライバルだと認めた男が自分の娘を見て顔をふやかしている姿など、この世で最も見たくない。


「それで、相談があるんだ。二人で共同研究をやらないか」


「おい、今の文脈でどうしてそういう話になるんだ」


「ほら、女の子だと思春期から父親と口をきかなくなるっていうだろ? 将来娘と意思疎通ができなくなるなんて、想像しただけで怖いんだよ。だから、人の心が読めるようになるための研究をしたいんだ」


 私は思わず自分の耳を疑って、秋山の方を見た。しかし秋山の目は今までになく純粋で、まるで子どものようだった。


「そんな馬鹿げた研究に誘おうっていうのか。お前とは散々言い争いもしてきたけど、今回ばかりは呆れてものが言えないよ」


 マリッジブルーか、マタニティーブルーか、そんなものにやられて秋山は頭がおかしくなってしまったのかもしれない。私は帰ろうと席を立ったが、秋山が先回りして退路を防ぎ、頭を下げた。


「こんなこと、君にしか頼めない。優秀な学者である以前に、僕の唯一無二の親友だからだ。頼む、引き受けてくれないか」


 秋山がこんなことを言ったり、こんな風に頭を下げてくるなんて、今まで一度もなかったからなんだか拍子抜けだった。秋山の頭頂部は、高校の時に比べると少し薄くなった気がする。その頭が、いい加減大人になれよと諭してくるような気がして苛立つ。


「……わかったよ、いいから頭を上げてくれ。そこまで言うなら協力しよう。だが、やるからにはとことんやってやる。もしお前が途中で投げ出したりするようなら、お前の愛娘をマインドコントロールして私の言いなりにしてやる。心理学者を舐めるなよ」


「ははは、君ならそう言ってくれると思ってた。それでこそ早川だよ……」


 この日の秋山にはとことん調子が狂った。いつもみたいに、あえて秋山の癇に触ることを言ってあいつが顔を真っ赤にしてムキになるところを見て楽しもうと思ったのに。なぜかあいつは私の返事を聞いて、ぽろぽろと泣き始めた。その理由を聞いても何も答えない。やっぱりマリッジブルーかマタニティーブルーってやつなんだろうか。いや、確か男性がかかる場合はパタニティーブルーと言われていると聞いたことがある。貴重なサンプルにさせてもらうか。


 それにしても、秋山の泣き顔など、結婚式で見た悠香さんの泣き顔に比べればまさに月とすっぽんだ。誰も得しないから早く泣き止んでくれと、私は心の中で切に願った。


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