4-3
――昨日苛立っていたのはましろに対してだけじゃない、俺自身もいろんな悩みが重なって不安定だった。あんな風にきつく言ってごめんな。でも俺が言ったことも分かってほしい。世の中には言いたいことをうまく言えず、それをしまったまま生きていく人の方が多いんだ……
シミュレーションは完璧だった。むしろ昨日の言い争いも含め、家庭教師として彼女にいい指導ができているのではないかとさえ思えてきていた。
早川家のインターホンを鳴らす。誰も出ない。気づいていないだけか。もう一度鳴らす。ピンポンという音が虚しく響く。
平日の昼間なので早川は大学の研究室か出張に出ていて、この家にはいない。いつもならましろがインターホンには出ず、直接玄関の扉を開けにくる。しかし扉の向こうでは物音一つしない。もう一度鳴らす。やはり何の反応もない。カバンの中の手帳を見直してみたが、今日はいつも通り家庭教師の予定が入っている。ましろは昨日自分で宣言したことを忠実に守り、居留守を使おうとしているのだろうか。ドアノブにも手をかけてみたが、しっかり鍵がかかっていた。これ以上やると不審者として通報されそうだ。
一旦引き返して早川の研究室に行ってみるか。マンションから出ようとした時、一人の少女が俺に気づいて気まずそうに下を向いた。弥生ちゃんだ。彼女はいつも家庭教師の時間に学校のプリントを持ってやってきてはましろにすぐ追い返されるので、何度か見かけたことがあるだけでほとんど話したことはない。
「ま、ま、……ましろ、ちゃんは」
「あぁ、なんかインターホン鳴らしたけど出なくて。俺、家庭教師クビにされたかもしんない」
「じゃ、じゃなく、く、て」
「ん?」
俺とは初めて話すからか、いつも以上にどもってしまうようだった。なるべく彼女の緊張をほぐすよう、笑顔を作ってみる。
「まし、ま、ましろちゃんは、さっき、え、ええ、駅に行くの、見たの」
「駅?」
「ご、ごごごめんなさい、道路の、は、反対だったから、声、か、かけれなくて」
「大丈夫だよ、気にしないで。それよりあいつ、どこ行くつもりなんだろう」
「な、なな、なんか、へ、変だった。ふ、ふふ、ふらふら歩いてて、いろ、いろんな人と、ぶ、ぶつかって、何か、話してて」
嫌な予感がする。一体どこまで強情なんだ。俺は携帯を取り出し、早川の電話番号を押した。弥生ちゃんは不安そうに俺の顔を見ている。きっとましろの様子が変だったので、家の人に伝えようとしてわざわざここまで来たのだろう。
『黒柳くんか。なんだい、今は家庭教師の時間だろう』
「ましろが家にいないんです。今朝、あいつ何か言ってませんでしたか? どこかに出かけるとか」
『いや、別に特に変わった様子はなかったよ。強いて言うなら少し元気がないくらいだった。散歩でもしているんじゃないか』
俺は弥生ちゃんに聞こえないよう、声をひそめる。
「……弥生ちゃんが見たらしいんですけど、駅の方に行ったみたいなんです。しかも、むやみやたらに人の心を読んで回ってるみたいで」
『なんだって!』
スピーカーの音が割れる。早川が張り上げた声音には焦りと驚きが混じっていた。電話の向こうで深いため息が響く。
『それは色々と困ったことになったな。まず、あの子が一人で駅に行くなんて滅多なことじゃないんだ。……父親が人身事故に遭っているからね、電車そのものを怖がっているんだよ』
確かにましろが電車に乗って遠出するなどという話は今までに一度も聞いたことがない。
『……それに、君は考えたことがあるか? ましろのあの力を過剰に使ったらどうなるか』
「いい予感は、しませんね」
『他人の心に立ち入りすぎると、どの感情が自分のもので、自分のものでないかが判別がつかなくなる。つまりは自我の崩壊だ。あの子には常日頃から、人の心を読むときには時間をおいて、一人ずつ読むようにと教えてきたはずだった。だが、話を聞く限りではまともな状態じゃないんだろう?』
だんだん血の気が引いていく。俺があんなことを言ったせいなんだろうか。このままでは、ましろは……
「先生、あの子が行きそうな場所に心当たりはありませんか? 俺がすぐに行って探してきます」
『悪い、面倒をかけるね……私はこれから出張で、今羽田にいるんだ。予定はキャンセルしてすぐに戻るつもりだが、早くても一時間半はかかる。それまでにS区のある場所まで行ってあの子を探してくれないか? 地図はメールで送っておくよ』
まさか早川に謝られるなんて思ってもいなかった。俺のせいなのに。息が詰まりそうだ。
「他に手がかりはないんですか?」
『市外であの子が行きそうなところはそこくらいだよ。一度だけ一緒に行ったこともあるから場所も知っているだろうしね』
電話が切れた後すぐに早川から住所だけが書かれたメールが届いた。地図アプリでその住所を打ち込むと、そこが示すのは道路と線路が交差する場所……つまり、踏切のようだった。
「ごめん弥生ちゃん、俺は今からましろを探しに行くから」
「あ、あ、ああああの! わ、私も……」
「もしかして、一緒に探してくれるの?」
少女はこくりとうなずいた。いつもおどおどしているように見えていたが、なんだかとても頼もしい気がした。
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