4-2


「あの子、こないだもいた……旭が家庭教師をしてる子だよね」


「そう。ましろって言うんだ」


 頼むから手を離して欲しかった。しかし莉子の指はしっかりと俺の手を絡めて逃がさない。


「旭くん、元カノとなにしてるの? 手なんか繋いじゃってさ」


 ましろはにやけるのをやめずにこちらに近づいてくる。なにを考えているかよくわかる。あれは、教え子に莉子といるところを目撃されて心臓が思いもよらぬ働きをし冷や汗をかいている、俺の心を読みたいという悪戯心と好奇心の塊だ。何も知らない莉子はご機嫌にニコニコとしている。いいから、とにかくこの手を離してくれ。


 ましろがこちらにすっと手を伸ばしてきた瞬間、少女の体はバランスを崩し、莉子の方にぶつかった。雨で道路が濡れていたせいか滑ったらしい。莉子はとっさにましろの体を支える。その時、パチッという音が弾け、それと同時にましろの表情から笑顔が消えた。


「大丈夫?」


 莉子は心配そうに転びかけた少女の顔を覗き込む。しかしましろは無表情のまま彼女を見つめ返すだけだった。ああ、悪い予感しかしない。俺は取り繕うようにましろに声をかけた。


「ましろ、お父さんにおつかいでも頼まれたんだろ? 早く帰らないと心配かけるぞ。あの人なんだかんだ言って親バカなんだから」


「……お姉さんて、そういう人だったんだね」


「え、なに?」


「おい、ましろ!」


 俺はましろの口を塞ぎにかかるが、彼女はするりと避けて莉子を睨んで言った。


「あなたは旭くんとヨリを戻したいと思ってる。でも、それは旭くんのためじゃなくて、お姉さん自身のため。あなたは旭くんと一緒にいて優越感を感じたいだけなんだ。旭くんなら、自分より先に内定を取ってしまうこともないだろうから。旭くんのダメなところに安心したいんでしょう。私はまだ大丈夫だって」


「ちょっと、なに言ってるの……そんなわけないでしょう」


 莉子はまだ余裕のある表情をしていたが、丸い瞳が小さく揺れている。ましろは自分の指摘を肯定しない莉子の態度が気に食わなかったらしい。莉子に向かってビシッと指を差すと、語気を強めて言った。


「言っとくけど、旭くんはそんなダメな人なんかじゃないから! 確かになんか頼りない感じだし、自分の意思もなさそうだけどさ、それでも私の家庭教師の先生なの。私のために特別な英語の勉強方法考えてくれたし、私のお母さんを捜すのも手伝ってくれてる。ダメな人なんかじゃないんだよ!」


「旭がそんなことを? ……なんか、信じられない」


 莉子は俺の方を見て笑う。ましろが心を読んだ後だからか、何も変わっていないはずのその笑みには軽蔑の意味もこめられているような気がした。


「私はちょっとがっかりしたよ。お姉さんはもっと素敵な人だと思ってた。旭くんのことこんな風に思っていたなんて」


「がっかりさせてごめんね。私そんなに立派な人間じゃないから……。でも旭のことを悪く思っているわけじゃないよ。それだけは本当」


 相変わらず莉子は柔らかい表情を絶やさなかった。その美しく形の良い顔は、恐ろしく固い鉄壁であったらしい。やがてましろは眉をしかめたままそっぽを向いた。莉子はそんなましろに構わず「怪我してない?」と少女の手を取ろうとした。しかしましろはそれを強く振り払う。その時、俺の腹の中で何かがもぞもぞと動くような感じがした。一言で言えば、不快感。


「……嫌われちゃったかな。旭、今日は私帰るね。また話そ」


「ああ、悪いな」


「ううん」


 莉子は手を振って駅の方へ歩いていく。その背中はやや地面に向かって傾いていて、いつも凛とした彼女らしくないような気がした。






「なーに怒ってるの」


 帰ろうとした俺の後をましろがついてくる。そうか、俺は怒っているのか。少し歩幅を大きくして足を早める。


「ねーえ、旭くんってば」


 なんでついてくるんだ。いいからましろも帰れよ、俺が大人でいるうちに。


「なんで無視すんのっ」


 ショルダーバックを思い切り引っ張られ、後ろに倒れそうになった。ああ、もう限界だ。


「……なんであんなこと言うんだよ」


 普段よりも低い声が出て自分でも驚く。この時俺はどんな顔をしていたんだろう。振り向くとましろは一瞬怯えたような表情になった。そういや母親に冷たくされたのがトラウマになっていたんだっけ。もしかしたら俺の態度に、そのことを思い出したのかもしれない。しかし彼女はすぐに自分は悪くないと言わんばかりに顔を引き締めた。


「な、なんでって。だって読めちゃったんだもん、あのお姉さんの心。てっきり旭くんとまたカップルに戻るのかと思ったらさ、すごくくらーい気持ちで旭くんのこと見ててさ。なんか旭くん一人で舞い上がっちゃっててかわいそうだなー、と思ったから教えてあげたんじゃん」


「余計なお世話だよ。いつ俺がそんなこと頼んだ?」


「別にっ。頼まれてなんかいないよ。でも、旭くんだって知らずにヨリ戻す前でよかったじゃん」


 ましろは俺に触れようとはしてこない。俺のことをよく知っているつもりなのだろう。だが彼女は俺が苛ついていることを察知できたことは今までに一度もない。都合のいい部分しか知らないのだ。そう思うと、ふつふつと今まで溜めてきたものが湧き上がってくる音がした。


「……知ってた。知ってたよ。莉子が本気で俺のこと好きで近寄ってきたわけじゃねぇのは知ってたよ」


「はぁ? じゃあわざと騙されたふりしてたってわけ? かっこわる!」


「あいつが就活で自信なくして弱ってたのはホントのことだろ。だから、俺のことをどう思っているかなんてどうでもよかった。今日の一瞬を、お互いに楽しく過ごすって意味で言葉にしなくても合意してたんだ。本音なんか、必要なかったんだよ」


「……なにそれ。意味わかんないよ。せっかく旭くんのためにあの人の心を読んだのに!」


「ましろ。お前がやったことは莉子を傷つけただけだ。誰もがお前みたいに言いたいこと言って過ごせるほど綺麗な人間ってわけじゃないんだよ」


 一瞬沈黙が流れ、俺の熱は幾分か覚めた。さすがに中学生相手に言いすぎただろうかと思い、何か声をかけようとしたタイミングで「もういい」とましろがぴしゃりと言った。小さい身体で俺のことを見上げ、きっと睨みつけてくる。丸い瞳はきらきらと光をこぼしながら揺れる。


「……もう、家庭教師も、ママを探すのも手伝わなくていいよ。私一人でなんとかなる。お父さんにはちゃんと単位あげるように頼んどくから」


「おい、なに言ってるんだよ」


「だって! その方が旭くんだって就活にも恋にも集中できるんでしょ? ……ごめんね邪魔しちゃって。じゃあね」


 呼び止める隙もなく、ましろはくるんと背を向け、家の方角へ走って行った。雨がポツポツと降り出し、ましろはまた足を滑らせてこけた。しかし痛がる様子もなく、すぐに立ち上がってまた走って行ってしまった。やっぱりましろは子供だ。なんてわかりやすい拗ね方なんだろう。そして、また明日何事もなかったかのように普通に家庭教師に行けばいいだろうと思っている俺は、いつの間にかずる賢い大人になってしまった。


 そういえば傘は莉子が持ったままだ。六月の生温かい雨が染み込み、服が鉛のように重く張り付いてきた。


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