四章 ハリネズミのジレンマ
4-1
――ピリリリリ……ピリリリリ……
大通り沿いに薄い青色をした紫陽花が咲いている。確か地面のph値によって紫陽花の色って変わるんだっけ。そんなことをぼんやり考えていた時、携帯電話が鳴った。ここ最近は面接に行った覚えはなかったが、説明会か何かの連絡だろうか。それとも、清水さんがましろの母親の手掛かりをつかんだのだろうか。あれから一ヶ月以上、色々と調べて回ってみたものの何も進展はなかった。
「はい、H大学四年の黒柳です」
『あ、莉子です。新しい電話番号教えてなかったっけ?』
しらじらしい。別れてすぐに携帯の電話番号を変えたのはそっちのくせに。俺から連絡できないよう、もともと新しい番号を教える気なんてなかっただろう。そういう女だ。
「莉子か。なに?」
『あ、うん……実は最近就活が不調でさ。同じ就活仲間として話聞いてほしいなー、なんて思って。でも旭も忙しいよね……』
聞き取れるか取れないかくらいの大きさの語尾に、俺は少し苛立つ。そうやって気を回しているふりして、本当は俺が忙しかったとしても彼女の都合に合わせることを望んでいる。見た目も基本的な性格も良いのに、こういう遠回しなところだけはどうも苦手だった。
「別に、そんなに忙しくはない。けど、そういう話は他の……もっとちゃんと就活やってるやつとすればいいだろ。ほら、例えば彼氏とかさ」
『彼は公務員志望だからあんまり就活の相談はできないんだ。それに、旭は私のことよくわかってるから、話聞いてくれるだけでもいいんだって! 今日の十六時に駅前で待ち合わせでどう?』
「……わかったよ」
『ありがとー、じゃあまた後でね』
プツン、と電話が切れる。なぜか動悸が早まっているのが自分の身体ながらとても気に食わない。
夜になると雨が降ってきた。横浜に実家がある莉子はK市まで電車で一時間以上かけてやってくる。俺たちが付き合っていた頃は、必ず駅前で待ち合わせをするのが決まりだった。駅前といっても人が多くてわかりづらいから、改札を出て少し歩いたところの、手前から三番目のベンチ。彼女はいつも五分遅れでやってくる。だから俺はいつも三分遅れで待ち合わせ場所に行く。だが今日は少し早く着いてしまって、雨の中十分以上待つことになってしまった。
「やっぱり私より先に来てくれるんだね」
いつも通り遅れてきた莉子はリクルートスーツではないが、以前よりも少し大人びた――そのままオフィスを歩いていても違和感のないような服を着ていた。化粧は落ち着いた色合いで彼女の素の美しさを引き立たせている。
「あれ、傘は?」
「忘れてきちゃった。入れさせてもらっていい?」
「いや、いいよ。莉子が使えば」
コンビニで買ったビニール傘さえも、彼女が持てばまるでファッション雑誌の小物かのような風貌になる。俺は莉子に傘を渡すと、パーカーのフードをかぶって前を歩く。なるべく彼女と目が合わないように、あえて少し早足で。莉子がましろのような力を持っていなくてよかったと思う。もし今心を覗かれたら、俺の一番格好悪くて一番どうしようもない部分が晒け出されてしまうから。
足は自然と二人で会うときによく通っていたカフェに向いていた。小さな雑居ビルの二階にあり、知り合いが来る可能性も低い。いつもほどよく空いており、BGMも静かなので、ゆっくり話をしたりするのには向いている場所だった。莉子は何も言わずについてくる。
「彼氏は知ってんの? 俺と会うってこと」
「ううん。最近はあの人も試験勉強で忙しくてあんまり話してないんだ」
「あ、そう……」
「変なの。何でそんなに彼のことばっかり気にするの?」
莉子がきょとんとして首を傾げる。そうかな、なんて誤魔化しながらついついコーヒーを飲むスピードが早まり気管に入ってむせた。莉子がけらけらと笑う。やっぱり、あの時と変わらない表情。……ああくそ、何を期待しているんだろう、俺は。
「そういえば本題は就活の話だったね。私、大手のテレビ局とか出版社は全部落ちちゃって、あと数社しか残ってないんだ。すごく焦ってるはずなんだけど、一方でこの中でどうにかなるだろう、って漠然とした自信みたいなものが邪魔して、なんか割り切れなくてさ」
「俺も似たようなもんだよ。あと数社しか残ってないし、だからと言って新しくエントリーを増やしてるわけでもないんだ」
「そっか、ちょっと安心した。うちの大学だとけっこう外資とか金融とかでもう決まってる子も多いでしょう。あれ、私このままで大丈夫なのかな、って不安になるんだよね。ちなみに旭はあとどこが残ってるの?」
「インフラ系の会社ひとつと、化学メーカーがひとつかな。どっちも大手で倍率高いから受かる自信はゼロに近いけどな」
「なのになんだか余裕あるみたいなんですけど」
莉子はにやにやと含み笑いをしながら俺の顔を覗き込んだ。
「そう? 半分どうでも良くなってきちゃったから」
「ちょっと、それは危ないでしょー。でも、旭らしいといえばらしいかな」
「らしいってなんだよ」
「そういう、達観しててちょっとおじさんみたいなとこ」
莉子は自分で言いながらぷっと吹き出し、俺もつられて笑う。こうして二人で笑いあっていると、付き合っていた頃と何一つ変わっていないような気がする。莉子は鞄からノートパソコンを取り出し、就活サイトを開いた。
「ねぇ、二人ともさすがにこのままじゃ今受けてるとこ落ちたときのリスクが高いじゃん。でもかといって自分じゃエントリー増やす気にならないし。お互いにオススメの企業を選んでもらって、そこにエントリーするってのはどうかな。それならまだやる気になる気がしない?」
「それいいかも。俺は莉子の会社選べばいいんだな。何社エントリーする?」
「うーん、できれば五社は欲しい。メディア系のところがいいけど、もし旭がいいと思うんだったら他の業種でもいいよ」
そうして俺たちはお互いに合いそうな会社を五社ずつピックアップして、エントリーすることにした。俺は莉子向けにメディア系の中小規模の会社を選び、莉子は俺向けに証券会社や総研などまだ募集の残っている大手をいくつか選んだ。はっきり言って、全く興味を持って見たことのない会社ばかりだったが、一年間付き合った莉子にオススメと言われるならば少しはやる気も起きるだろう。
気がつけばもう二時間は話し込んでいた。カフェを出ると雨はもうやんでいて、少しだけ残念に思う。
「ねぇ、覚えてる?」
「何」
「付き合いたての時だから、二年くらい前かな。テスト終わりに海を見に行く約束してたのに、その日の午後は台風が来て海どころか電車止まってこの街からも出られなくなったよね」
懐かしい。珍しく気合を入れて遠出の計画を練っていた日のことだ。行き帰りの交通手段は分単位で決まっていたし、どの店でどの食事を食べるかもネットで調べて準備は万端だった……のに、見事台風直撃。事前の天気予報である程度予想はついていたものの、莉子はかなりショックを受けていた。電車も止まってしまって実家に帰れなくなった莉子は、電車が再開するまで俺の家にいることになった。彼女がうちに来たのはそれが初めてのことだった。表向きは台風なんかこないだろと願掛けしつつ、そうなる可能性もあるだろうと思ってこっそり部屋を隅々まで掃除しておいた。あの時の記憶は今でも鮮やかに思い出せる。
「あの日、旭が初めて私にご飯作ってくれたんだよね。すっごく美味しかったから、海に行くのなくなってちょっと良かったって内心思ったんだよ」
「それは俺もだよ。莉子があんなに喜ぶとは思わなかった」
良い思い出になったのはそれだけじゃない。結局そのあと夜遅くなるまで電車が再開する気配はなかった。恐る恐る「泊まっていく?」と尋ねた時、彼女は目を伏せて小さくうなずいた。期待と不安に潤む瞳と、ほんのり紅く染まった頬。今まで生きてきた中であの瞬間ほど自分の心臓が飛び跳ねたことはなかったと思う。
「また旭のご飯が食べたいな」
「え?」
淡い回想に浸っていた頭が一瞬で真っ白になり、思考が追いつかない。追い討ちをかけるように、莉子の手が俺の手を握った。ちょっと待て。柔らかくて温かいその手は、俺の喉元を冷たい鎖のように締め付ける気がした。
「久しぶりに話してみたんだけど、やっぱり旭といると落ち着く。……ねぇ、もう少し話そうよ。ご飯食べながらゆっくりさ」
莉子は穏やかな微笑みを浮かべる。抗ってしまったら負けだと思わせるこの笑顔に、言葉が何も出てこない。ここは大学からも近い場所にある。俺はまだしも、莉子の知り合いは多く、誰に会ってもおかしくない。もしこの状況を目撃されたら、何と言い逃れする気なのか。まぁ……見られて困るのは彼女の方だけだ。俺は別に今誰とも付き合ってないし、どう見てもこの構図は俺ががっついているようには見えないだろう。だったらいいじゃないか。いっそ誰かに見られて莉子を困らせられたらいい。まだ俺は彼女に一方的に振られたことの意味に納得はしていないのだから。
とは思いつつ、俺の家までなるべく人通りの少ない道を行こうとしたとき、一番見られるべきではない人物に目撃されてしまった。
「旭くん? なにしてんのそこで」
振り返ると、スーパーのレジ袋をぶら下げたましろがにやにやと悪戯な笑みを浮かべながら立っていた。
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