3-7
駅前にK市に住んでいる者なら知らない者はいない老舗のカフェがある。俺は佐々木が紹介してくれた病院関係者とここの二階で待ち合わせしていた。
『働きもので患者さんにもよく慕われてた看護師の清水さん。今は育児休暇中で時間もあるから話聞いてもいいってさ。電話番号は×××』
病院で佐々木と会ったあの日、夜になってから佐々木からメールがきていた。電話してみたところ、親切そうな女性が出て「私で力になれるなら」と快諾してもらえた。
しかしひとつ誤算があった。清水さんと会うことをましろに読まれてしまったのである。よって、待ち合わせは彼女と一緒だ。
「ほんと、水臭いよねぇ。病院のこと調べてるなら私にも言ってくれればよかったのに。別に、ママが病気とか、もう死んじゃってる可能性だって考えたことないわけじゃないし」
ましろはむすっと頬を膨らませながら、カフェの自家製プリンをすくう。黙っていた罰として奢らされたのだ。
「悪かったよ。けど俺は心配だったんだ。ましろ、お母さんがいなくなった当時はすごくショック受けてたんだろ?」
すると彼女はますます表情を曇らせ、サンダルを脱ぐと膝を曲げて椅子の上で体操座りのような格好になった。
「昔は昔。もう私そんな子どもじゃないもん。ママがどうなっていようと受け入れるって覚悟くらいできてるんだから」
だからそういう態度が子どもっぽいんだよとは思ったが口には出さないでおいた。都合の悪い時、ましろは心を読もうとはしてこない。
いらっしゃいませ、という声が下の階で響き、階段を上る足音が聞こえる。その来訪者が姿を現したのと、ましろが声を上げたのはほぼ同時だった。
「あなたは、前の……!」
相手も驚いて口を覆っていた。
「もしかして、君が
「はい。まさかあなたが清水さんだったとは……」
現れたのは、以前スーパーでましろがつっかかった、子どもを連れていた女性だった。今日は息子を連れておらず、服装もシンプルな白いシャツとベージュのカーディガンに、ジーンズという格好だった。疑うかのような視線を投げかけるましろの視線に気づき、清水さんは口調を尖らせた。
「また何か私に言いたいことでもあるのかしら?」
ハンドバッグを抱えたまま席につこうとせず、目を細めてましろの方を見る。今にも言い争いが始まりそうな緊張感。俺は強引に清水さんからかばんを預かり、席の横に置いた。
「すみません、そんなつもりはないんです。病院で人探しをしてて、病院関係者である清水さんにお話を聞きたかったんです」
「まぁ、病院関係者と言っても私は休職中で、復帰するめども立ってないけどね」
清水さんは頬杖をついてため息を吐く。ゆるくカールがかかった茶色のロングヘアからは、ナース帽とまとめ髪を想像することができない。
「で、誰を捜してるの? もし犯罪に関わるようなことだったら協力しないわよ」
「僕らの母親です」
以前彼女にはましろのことを妹だと偽っていたのだった。ましろは不満げに俺を睨んできたので、清水さんに見えない机の陰でましろの手に触れた。静電気が走ると、ましろは納得したかのように向き直った。
「母親探し?」
「はい、五年前から行方不明になっていて。病気だったということが最近分かったので、病院をあたっているんです」
「病気ならなおさら、なんで行方不明になったのよ。あなたたちのお父さんは一体何をしてるわけ?」
「父はすでに亡くなっています。母はそのあと僕らに冷たく当たるようになって、突然家に帰らなくなりました」
そこまで伝えると、攻撃姿勢だった清水さんの眉は徐々に下がっていき、同情を示すかのようなため息を吐いた。
「……それって育児放棄、ってことよね。それでこの間はあんなにむきになっていたのね」
ましろは決まりが悪そうにそっぽを向く。
「まぁいいわ。あの時は私も苛立っていて冷静じゃなかったもの、お互い水に流しましょ。でも普通そんな母親だったら恨んだり嫌ったりするものでしょう。よく探す気になるわね」
「確かに私はママのことが怖い」
ましろはようやく口を開き、例の写真を机の上に取り出した。
「でも今になって、その気持ちが本当のものなのか、わからなくなってきたんだ。昔のママを知れば知るほど、本当はそんなことする人じゃないんじゃないか、って。何か理由があったのかもしれない、って。だからママに会って聞くの。本当はどう思っていたの、わたしのこと嫌いだったの、それとも大切に思ってくれていたの、って」
清水さんは写真をゆっくり眺めるようなことはしなかった。パッと目を通しただけですぐにましろに返してきた。
「そんなことを聞いても答えてくれないかもしれないわよ。大人ってのはあなたが思っているほど強くないの。私だって子育てをしてて投げ出したくなることなんて何度もある。もし本当にあなたを嫌っての失踪だったとしたらどうするつもり?」
「それでもいい。私はママの本当の気持ちがわかればそれでいい」
清水さんはしばらく口を閉じてましろの表情を見ていた。ましろの視線は揺らがない。澄んだカーキの瞳でまっすぐと相手の心を射止める。清水さんはやがて肩を落として呟くように言った。
「……あなたみたいな子がいると、私たち大人の面子は丸つぶれね」
清水さんの視線は俺の方に向けられる。一瞬意味がわからなかったが、俺も清水さんと同じく大人の立場に立つべき人間、というふうに括られたということなのだろう。
「あなたの気持ちはよくわかった。私にできることは協力しましょう」
「ほんと!」
「ええ。でも、働いていたのは一つの病院だけだから、他の病院のことはわからないわよ。もしうちの病院じゃないんなら、他の病院に勤めてる人間をあたってみることね」
悠香さんの名前、外見、年齢を伝えたが、清水さんはピンとこないようだった。少なくとも、彼女の同僚ではなさそうだ。他の病院で探すとしても、何か病状や入院時期などヒントが足りないと途方もない捜索になるとのことだった。正直少し期待をしてしまっていた分、俺もましろも落胆した。しかし考えればそうだろう、東京に絞っても入院可能な病院などいくつもあるし、ましてや東京にいるかどうかすらもわからないのだ。
「あー、あー、もう。そんなにがっかりしないでよ! 私も出来る限り知り合いに聞いてみるからさ」
清水さんはなだめるように俺たちの肩を叩いてくる。これじゃまるで彼女が俺たちの母親みたいだ。清水さんはふと腕時計に目をやると、ハッとしたように慌てて席を立ち荷物をまとめ始めた。
「そろそろ息子の幼稚園に迎えに行かなきゃ。そのあと予定もあるから着替えないと……」
「それ!」
ましろが急に声を上げる。大きな声だったので、店内の人々が一瞬こちらを振り向いた。
「……何?」
「前から気になってたの。その予定って幼稚園のお母さんたち同士の集まりなんじゃない? 清水さんは本当は行きたくないんでしょう。なのになぜ行くの? それがストレスになってあの子に当たってたくせに」
「……どうしてわかるの」
さっきまで相談に乗ってくれていた時とは違い、清水さんの声は張り詰めていた。会うのが二回目なだけに、さすがに不審に思われている。弁解しようと口を開きかけるが、ましろが先手を取ってしまった。
「私は手で触れた人の心が読めるの。だから清水さんが考えてることがわかる。あなた自身が自覚していない、本音も」
「何を言ってるの? そんなことあるわけないでしょう」
「あるよ。私にはわかるの」
「ああ、そう、わかったわ。じゃあこれもわかるでしょ? たとえ行きたくなくたって、親同士の集まりには顔を出しておかないと、困るのは息子なの。親が仲良くなくてはぶられたりする子だっているんだから。それなのにあの子はわがままばかり言って私を引きとめようとするから、ついカッとなっちゃうのよ」
清水さんは長い息を吐く。ましろは彼女の手に触れたまま言った。
「たとえば、あなたの予定が入っている日に限って一緒に遊んで欲しいとか言うってこと?」
「そうね。今日もそんなこと言ってたわ」
「それはたぶん清水さんのこと邪魔しようと言っているわけじゃないと思う」
「は?」
「なんなら私があの子の心を読んでみてもいい。きっとあの子、あなたが悩んでるのを知ってて、そんな場所に行かなくていいよ、って伝えようとしてるんだと思う」
「それは都合が良すぎるんじゃないの。うちの子はそんなこと考えられるほどできた子じゃないわ」
「こどもは案外、親の感情に敏感なんだよ。理由はわかんなくても、不安や疲れ、怒りは伝わってくる。私のママも、そうだったから」
清水さんは眉間にしわを寄せて押し黙る。やっぱり自分はもう清水さんと同じ「大人」の側に行ってしまったのだと思う瞬間だった。親の感情に敏感なのが子どもだとしたら、いつの間にか親の気持ちなど知ろうともしなくなってしまった俺は、一体いつから大人になったと言えるのだろう。
「ねぇ清水さん、本当は気を使ってばかりの親同士の集まりなんかに出るよりも、看護師として仕事に復帰したいんじゃないの?」
「そりゃそうよ。でもね、そんなに簡単な問題じゃない。看護師の仕事は夜勤も普通にあるから、旦那が早く帰ってこれない日はあの子一人で過ごすことになるのよ? それこそ育児放棄のようなものだわ。旦那も許すわけない」
「そうやってだめって決めつけないでさ、相談してみたら? できるって思わないと、できるはずのこともできないままになっちゃうよ」
清水さんは黙っていた。店内の時計から、空気に似合わない陽気な音楽が流れる。十五時ちょうどのアラームのようだ。
「……本当にあなたって、嫌な子ね」
そう言って清水さんはカバンを持って立ち上がる。ましろの言ったことがまた彼女を怒らせたのではないかと思ったが、意外と穏やかな表情をしていた。
「あなたのお母さんのこと、何かわかったら連絡するわ」
「ましろってやっぱすごいよ」
「え、なにいきなり。気持ち悪」
ましろは顔をしかめて俺を見る。家庭教師のはずなのに、どうしてこうも下に見られるのか。
「言っとくけど、これは半分褒めてるんじゃなくて呆れてるんだからな。俺がもしましろと同じこと思ってたとしても、ああまではっきり伝えられないよ。たぶん言わなかった」
「それはその人のためにならないんじゃないの? ほら、私とママみたいにさ、分かり合えないままお互い離れ離れになっちゃうかもしれないじゃん」
「そうかもな。でも思うままに言うことで、相手を傷つけてそれこそ喧嘩別れになることだってあると思うんだ」
「ふうん。たとえば、どういう時?」
ましろにそう聞かれ、俺は何も言い返せなかった。そして調子に乗ってこんな話をするんじゃなかったと後悔した。俺には言い争いになって誰かと喧嘩別れした経験など、今までに一度もないからだ。
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