3-5


「すんません、もうビールなくなっちゃいまして……」


 店長が申し訳なさそうに来た頃には、テーブルの上にすでに十本以上の瓶が並んでいた。個人経営の居酒屋で、予約の入っていない平日の在庫にはすでに限界がきている。早川は顔を赤くしているだけでまだまだ平気そうな表情をしていたが、息が少し荒くなっていた。俺もまだ飲めるとはいえ、そろそろ眠気の方が限界まできている。


「じゃあ、次、焼酎の……うーんと、ロックで」


「先生、さすがに飲みすぎなんじゃ……」


「君はもう諦めるのか! これだから近頃の学生は……!」


「はいはい、わかりましたよ……じゃあ俺も焼酎ロックで」


 焼酎ロックが届いた頃には、早川はついに眠るかのように机に突っ伏していた。ましろが心配そうに「お父さん大丈夫?」と覗き込もうとすると、くぐもった声で「大丈夫大丈夫」と空返事をしながら早川は肘をついて手をひらひらと振った。その手首には黒の絶縁体のリストバンドがしっかりつけられている。酒で体温が上がってシャツのボタンは緩めていたが、こればっかりはまるで外す気配はない。


「俺が仕掛けといてあれなんですけど……先生、やっぱり今日の飲み方は無茶でしょう。何かあったんですか」


 早川はしばらく黙っていた。一瞬眠ってしまったのかと思ったが、ましろがトイレで席を立つと、彼は徐ろに口を開いた。


「ましろの父親の命日で寂しいのはあの子だけじゃないんだ……とてもあの子の前では言えないけどね」


 聞き間違いだろうか。俺も相当酔っている。だから早川の口から「寂しい」なんて言葉が飛び出すなど朦朧とした頭では処理しきれなくて、ただ「どういうことですか」と反射的に返す。


「あいつとは……秋山とは、高校の時からの知り合いで、友人であり、ライバルだったんだ。ずっと張りあえる相手だと思っていた。対等だと思っていた……だけど、あいつはいつも知らないうちに私より先に行ってしまう。いつか追いついてやろうと思っていたのに先にあの世に逝ってしまうなんてな……全く、やってくれる」


 早川は深めにため息を吐き、焼酎の入ったグラスを回した。カラン、と氷が音を立てる。店内のBGMで流している九十年代に流行ったポップスがやけに大きく聞こえる。ましろが戻ってきたが、俺は無言で隣のテーブルで待つよう合図を出した。今彼女が戻ってきたことに気づいたら早川が話すのをやめてしまうかもしれない。そう思ったのだ。


「ましろのお父さんは確か人身事故で亡くなったんですよね。何か思いつめているような雰囲気はあったんですか?」


「いいや……遺書も残っていなかった。もちろん一言の相談も無かった。ただ秋山は私と違って不器用で人見知りな男でね。マインド・タッピングの研究の時……あれだけ多くの人に批判されて、あいつなら精神的に追い込まれても不思議じゃない、世間はそう疑わなかった。あいつの心の弱さを馬鹿にするかのように、自殺だって報道されたんだ」


 早川はいきなり持っているグラスをドンとテーブルに置いた。アルコールが跳ねて、数滴テーブルの上に溢れる。


「だが私は絶対にあいつが自殺するなんて思えないんだ……あの人も信じていた」


「あの人って」


「秋山の奥さん……つまり、ましろの母親だ」


 その言葉に一気に酔いが醒めるような気がした。早川は相変わらず突っ伏していてましろが戻ってきていることに気づかず、ぼそぼそと話を続けた。


「彼女は秋山の死を悼みながらも、自殺じゃない、事故だと言っていた。端から見たら彼女は夫に見捨てられた哀れな未亡人でしかなかっただろう。でも……秋山の死で喪失感が大きかった私には救いだったよ」


 ましろの母親のことを聞き出すのには絶好の機会だ。問題は俺の頭が上手く働いてくれるかだが……。ましろが何か言いたげにこちらを見ている。任せろ。ちゃんと聞き出してやるから。俺はゆっくりと深呼吸して言葉を紡いだ。


「ましろのお母さんって、一体どんな人だったんですか? その……ましろはすごくお母さんに苦手意識があるみたいで、直接は聞きづらくて」


 早川がふっと笑ったような気がした。


「不思議な人だよ。私は女性が何をどう考えるかなんてあまり勘が働く方じゃないんだが、秋山の奥さんは更に掴みにくい人だった。あれは、私たちがようやく博士課程を卒業した頃だったかな。それまで秋山に女の影なんてなかったんだよ。研究が何より大事な男だったから。そんなやつがさ、彼女の誕生日にメッセージの刻印ボトルを贈ったんだよ。キザだろ? 秋山と付き合いが長い私でさえその行動にはいささか引いたね。だけど彼女は馬鹿にするでもなく、一昔前のような愛情表現に引くこともなく、無邪気な笑顔で言ったんだ。『このボトルは結婚式の日に開けて乾杯しましょう』って。それから半年後の結婚式でも本当にそのボトルが登場したんだ」


 おそらくバーテンダーとして働いていた頃の話だろう。「ヨウジより」と書かれたボトルを嬉しそうに抱えているましろの母親の写真が脳裏に浮かぶ。


「そういえば秋山に結婚式のスピーチを任されたときも、奥さんの反応はなんというか変な感じがしたよ。私は仕事柄講義やプレゼンには慣れている方だが、ああいう場の感情に訴えるような話し方というのはどうも苦手で。いっそのこと秋山の恥ずかしいエピソードを持って行って笑いを取ろうとしたんだ。狙い通り会場は爆笑で、秋山は顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいたよ。だけど奥さんだけはなぜか号泣していて。後から原稿を読み直しても泣けるところなんて作っていなかったんだが……」


 さすがに酔いが回っているのだろう。早川の話はらしくもなく冗長で、俺の眠気を促進させた。ダメだ、これ以上は聞いていられない。俺は本題に踏み込むことにした。


「先生はましろのお母さんの居場所を知ってたりしないんですか?」




「知らないよ。近くの病院は全部あたったんだがね」




 そう自分で言った後、早川は一瞬動きを止め、バッと顔を上げた。そしてましろが隣のテーブルに座って話を聞いていたことに気づき、眉間にしわを寄せる。病院、という言葉について聞こうとした時、早川は「そろそろ帰ろうか」と言うと、俺たちが返事をする前にすっと立ち上がり伝票を持ってレジの方へ行ってしまった。その足取りはふらふらとしており、スーツを着ていない今の姿は普通の中年の男でしかない。


 会計を済ませて戻ってくると、早川は吉野が持ってきた水を飲んで、ましろに外に出るよう促した後でようやく口を開いた。


「黒柳くん、もしかして君はあの子の母親を探すつもりかい」


 その口調は先ほどまでとうって変わってはっきりとしていて、焦点はしっかりと俺を捉えて逃がさない。答える隙もなく早川は言葉を続ける。


「もしましろに頼まれたんだとしてもやめておきなさい。それは子供の怖いもの見たさの好奇心に過ぎない。ああ見えてね、母親が失踪した直後、あの子はかなりショックを受けていて、一言も喋らなかったし食事もまともに取れなかったんだよ」


 いつも快活なましろからは想像ができない。だが幼いうちに父親が亡くなった直後に母親までいなくなってしまったと考えれば、それはごく当然の状態だ。むしろ今のましろが元気すぎるのである。


「時間をかけてようやくあそこまで立ち直ってきた。多感なこの時期にあまりトラウマに関する刺激を与えたくないんだ。頼むから悠香ゆうかさんの話はもうしないでくれ」


「……悠香さん?」


 また聞き間違いだろうか。俺もいい加減早く家に帰った方がいいのかもしれない。


「ちょっと待ってください。しおりさんとか、そういう名前ではなくて?」


「君こそ何を言ってる。ましろの母親の名前は悠香さんだよ。旧姓が塩田だったから、独身時代はしおちゃんって呼ばれていたけどね」


 その時頭の中で何かが引っかかるような気がしたが、何に引っかかるのかは酔っているせいで自分でもよくわからなかった。それよりも病院というキーワードと、ましろのお母さんの本名を覚えておくのに必死だったのだ。






 店の外に出ると、先に外で待っていたましろが「パパもお父さんも、ひとりぼっちじゃなかったんだね」と呟いた。


「どうした。珍しくセンチメンタルだな」


「だって学者ってもっと孤独なものだと思ってた。でもお父さんの話聞いてたら、二人は本当に仲良かったんだなって思って。それに比べて私は友達がいないからひとりぼっちだよ」


 ましろは口を尖らせてうつむいている。友達なんていらないと強気に言っていたのは一体どの口だっただろうか。


「友達なんてこれからいくらでもできるよ。俺の今の友達は浪人してた時に知り合った奴らだし、先生とましろのお父さんだって知り合ったのは高校生の時だろ。ましろはまだ中学生なんだから大丈夫だって」


 ましろはしばらく黙っていたが、やがて納得したかのようにうんと頷いた。


「……そうだよね。まぁそれに、今は旭くんっていう助手がいるから一人じゃないか!」


「おい、俺は助手扱いかよ」


「だってなんか先生って感じはしないんだもん」


「悪かったな」


 ましろはにっと笑う。いつも通りの笑顔の形だが、月明かりに照らされてその表情には影が差しているようにも見えた。


 本当は二人とも分かっている。俺はあと一年したらこの街を出ることになるだろう。卒業すれば当然家庭教師も辞めることになる。この関係はあくまで期限付きの契約でしかないのだ。そうなったら、ましろはどうするのだろう。また一人で家にこもって学術書を読み込み、夜は街に出て他人の心を読みながら、一人で母親を捜し続けるのだろうか。それともまた早川が新しい助手を見つけて、単位と引き換えにましろの面倒を見させるのだろうか。


 急に焦りが芽生えてきて、胸の奥がざわざわした。俺も、ましろも、今は楽しい。だが……「今」と言える時間は、俺たちが思っているほど多く残されてはいないのだ。


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