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「えっと、まずこの文は……『私のインスピレーションは、子どもの頃の経験と、ケニアの田舎での観察から来ています』」
「おお、いいじゃん。大体合ってるよ」
「ほんと! じゃあ続けるね」
「文法が分からなくなったら線を引くようにしろよ」
ましろは楽しそうに俺がプリントしてきた英文に向き直って、英和辞典と交互に見ながら和訳を進めていく。これはワンガリー・マータイのノーベル賞受賞時のスピーチだ。将来理系の科学者を目指すのであれば、英語は間違いなく必須である。ましろのあまりの文系科目の弱さに考えた対策が、有名な科学者やノーベル賞受賞者の言葉を英文で読ませるというものだった。彼女の興味があるものを英文の教材とする事でモチベーションを上げさせる狙いだった。この様子を見ると、思いのほかうまくいっている。
「この人、日本でもけっこう有名な人なんだぞ」
「そうなの? なんで?」
「マータイさんが日本に来た時に、日本人の『もったいない』って言葉に感銘を受けたんだってさ。自然に対する尊敬の意味がこもっていて、彼女の環境活動と通じるところがある、ってわけ。それで『MOTTAINAI』を世界共通語として広めようとしたんだ」
「そうなんだ。日本語が世界の共通語に……マータイさんには世界を変える力があったってことだよね。私もいつかこんな風になりたいなぁ」
ましろの瞳は、遠くを見ているようには感じなかった。むしろ目標はすぐそこにあるような自信に満ちている。もしこの気持ちが途中で折れなかったら、本当に名の通った科学者になってノーベル賞を取ってしまうかもしれない。そう思わせる強さがある。本当にとんでもない少女だ。ましろを見ていると、自分が二年かけて掴み取った学歴など薄っぺらいもののように思えてしまう。
時計の針が十八時を回ろうとした時、玄関の戸が開く音がした。
「ただいま」
ましろはハッとして、俺の方を見る。俺はうなずいてましろに玄関の方へ家主を迎えに行くよう促した。そう、今日は例の作戦の決行日である。
「お父さん、お帰りなさい」
「ああ。横田さんだっけ? あの子がまたポストにプリント入れといてくれたみたいだぞ」
ましろは早川から校章の印刷された茶封筒を受け取ったが、中身は見ずに床に置いた。
「ね、それよりさ、今日は何の日かわかる?」
「忘れるわけないさ、ましろのパパの命日だからね。だから早く帰ってきたんだよ」
早川はネクタイを外しながら穏やかな表情でましろの頭をなでる。今だ、作戦決行。緊張しているのか、ましろは少し声を上ずらせながら言った。
「提案なんだけどさ、たまにはパーっとお外に食べに行かない? 毎年おうちでしんみり過ごすのもパパが寂しがるかなーと思ってさ」
「外食か……確かに最近行っていなかったな」
早川はまんざらでもない様子だ。俺は事前に打ち合わせていた通り、ましろの後ろについて早川を出迎える。
「外食ですか? それなら良い店があるんですよ」
「黒柳くん、まだ帰ってなかったのか」
「へー、旭くんオススメのお店? それは行ってみたいなぁ!」
台詞は打ち合わせ通りだが、ましろはいささか演技が下手だった。イントネーションが不自然すぎる。おまけに早川の裾を引っ張る動作もわざとらしい。ヒヤヒヤしながら横目で早川の表情をうかがう。普段の彼ならすぐに怪しいと感づいてしまいそうだが、血は繋がっていなくても娘可愛さで細かいことは気にならないのか、早川は「わかった、一旦着替えてくるから少し待ってなさい。黒柳くんも一緒にどうだい」なんて言いながら自室へ入って行った。ましろと目が合う。ここまでは作戦通りだ。
「いらっしゃいませ! あっ、早川先生! 俺、クロと浪人時代からの知り合いで法学部の吉野です。いつもクロがお世話になってますー」
『呑み屋あかぎ』に着くと、吉野が相変わらず元気よく出迎えた。その勢いに早川は若干面食らいながらも、からかうように笑って言った。
「君にもちゃんと友達がいたのか。安心したよ」
「……余計なお世話ですよ。ここ、俺のバイト先なんで。先生はもしかしてお酒飲めなかったりします?」
わざと挑発するようなトーンで聞いてみる。すると早川はフンと鼻を鳴らした。
「君は知らないだろうが、ゼミの飲み会では私が一番飲むんだよ。最近は体育会の学生でもあまり飲まないようになってきているらしくてね。なかなか最後まで付き合ってくれる奴がいないのに辟易していたくらいだ」
「そうですか。それは頼もしい限りです」
俺はそう言ってポケットから分厚いチケットの束を取り出した。厨房で店長がヒィッと声にならない悲鳴をあげていたが気にしない。バイト始めてから給料と一緒にもらっているドリンククーポン。今まで使う機会がなかったので大量に溜まっている。
「ほう……気が利くじゃないか」
言葉では余裕の表情を崩さなかったが、早川は気合いを入れるかのようにシャツの袖をゆっくりとまくる。俺は目でましろに合図を送る。ましろは見慣れない居酒屋メニューを興味津々に眺めていたが、合図に気づいて慌てて吉野を呼んだ。すぐさまよく冷えたジョッキになみなみと注がれたビールが二つとオレンジジュースが一つ、俺たちのテーブルの上に並ぶ。
「勝負しませんか。俺けっこう強いですよ」
「はっはっは。私にそういうことを言ってくる学生は久しぶりだよ。……いいだろう、乗った!」
そう言って早川がジョッキの取っ手を持って掲げる。ましろは期待に満ちた表情で俺と早川の両方の顔を見ると、自らのオレンジジュースのグラスを掲げ、「乾杯!」と叫んだ。それが合図となり、俺も早川も一気にビールをあおる。早川のビールが減っていく速度に合わせて飲む。空になったら手元の瓶で注ぎ直し、間髪入れずに二口目。早川のペースは確かに早い。だが少しずつ顔が赤らんでいくのを見る限り、全く酔わない体質というわけではないのだろう。俺だっていくらでも飲めるわけではないが、別に潰れたって構わない。本来の目的は早川を酔わせてましろの両親の情報を聞き出すこと。ましろはシラフのままなのだから、俺はとにかく早川を煽ることに徹すればいい。
正直早川がここまでノリの良い男だとは思わなかった。だんだんジョッキに注ぐのが面倒になってきたのか、ついに瓶から直接飲み始める。自分で飲むだけでなく、俺のジョッキが空けばすかさず注いできた。そもそもこの作戦は早川が挑発に乗ってこなければ成り立たなかったのが、その心配は無用だったようだ。
最初は楽しそうに眺めていたましろの表情がだんだんと不安げに翳ってきた。気持ちは分かる。どうも早川がいつもの彼らしくないのだ。普段通りの余裕ぶった振る舞いをしているかのようで、会話が途切れると小さくため息をついたり、無意味に店の外を眺めたりする。飲み方だって、途中から俺のペースを無視して勝手にどんどん飲むようになっていった。それはまるで、やけ酒をしているかのように。
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