2-9


 衰えなんてまだまだ無縁なものだと思っていたけれど、十代の少女が少しも立ち止まらず淡々と歩き続けるのに付き合うのには情けなくも少し息が切れた。陸上をやっていた頃はいくらでも走れる気がしていたのに。大学に入ってろくに運動もせず、酒を飲んだりタバコを吸う生活を続けていたらこのざまだ。大通りですれ違う残業帰りのサラリーマンが、自分の未来を提示しているような気がして空恐ろしくなる。


 スーパーのあたりはとうに過ぎ、ましろは南へ南へと足を進める。まだ駅に近いうちは大学通りを挟むように並んでいる桜の下でブルーシートをしいて宴会をしているグループがいくつかあったが、駅から離れていくたびに人も車もどんどん少なくなっていった。


「こっちこっち」


 大学通りをしばらく南下すると、今度は桜通りという車線数が半分の通りとの交差点に出た。その名の通りここも両脇に桜が並んでいて、狭い歩道は立派に育った桜の根でぼこぼことしている。ましろは交差点で桜通り沿いに向きを変えて歩き出す。年季の入った団地に向かう方向で、さらに人気は少なくなっていった。交差点の信号が見えるか見えないくらい遠くまで来た頃、ましろが急に立ち止まって車道の方に歩き出した。


「ちょ、おい! 待てって、危ないだろ!」


 いくら夜更けの静かな街とはいえ、いつ車がやってくるかはわからない。しかしましろはためらいもせず中央分離帯の上に立ち、こちらに向かって手招きをする。


「ばか、早く戻ってこいって」


「旭くんこそこっちにおいでよ。もうこの街で桜見るのも最後なんでしょう」


 ましろは歩道の中で立ち尽くす俺に向かって腕をまっすぐ伸ばす。色白な肌は桜のように春の夜に映えた。最後、という言葉はずるい。小学校、中学校、高校……卒業という言葉がちらつくたびに、この言葉の魔力に何度夢を見て突き動かされてきたか。たいして華のある学生生活でなかったとしても最後は平等に訪れる。俺は決意して歩道から踏み出した。ごちゃごちゃとした東京の町並みから飛び出した解放感と、本来人間が歩いてはならない場所に無防備でいるむずがゆさが同時に襲う。ましろは満足そうに微笑むと、歩道から這い出した俺の腕を掴んで、もう片方の腕で上を指した。


「うわ……なんだこれ……!」


 花のアーチが覆いかぶさってくる。道路の両脇に植えられた桜は道路の真ん中で重なり合って、夜空を埋め尽くしていた。背の低い街灯に照らされて、桜の花が朧月のようにぼんやりと薄桃色に光る。辺りに人影はまるでなく、道路はただまっすぐに開けていて、ましろと俺だけしか生き物の気配がない。どこか異世界にでも飛ばされてきたのか。風が吹いて花びらがひらひらと舞い、ましろの髪の上に乗った。ましろがぷっと噴き出したので花びらも頭から落ちた。


「旭くんの感想面白いね……! 異世界って!」


 はっとして左腕を見るとましろがぎゅっと掴んだままだった。ぐっと顔に熱が集中していくのがわかり、ましろの手を振り払う。


「ましろは本当に悪趣味だよ。俺の心なんか読んで面白がってるのもそうだし、こんな危なっかしいこと平気でしてさ」


 道路の真ん中で桜に感動したことが急に恥ずかしくなって歩道に戻ろうとすると、ましろが俺の裾を引っ張って引き止める。


「それでもいいんだよ。探し物のためには、それでもいい」


「探し物?」


 少女は空を見上げる。カーキ色の瞳にいくつもの白い光が浮かんだ。またあの表情だ。いたずらばかりして子供っぽいかと思えば、急に大人びた顔でどこか遠くを見つめている。


「うん。私はママを探さなきゃいけない。パパがくれたこの力で、ママを見つけるんだ」


 ましろはコートのポケットから携帯電話を取り出す。ストラップについた小さなルービックキューブを慣れた手で数回回すと色が揃って、白い面に文字が現れた。そこには筆記体で『for Y & M』と書かれていた。


「そのYって誰のこと?」


 Mはおそらくましろのことだろう。


「たぶんパパのことだよ。秋山洋二ようじって名前だから。元々はパパが年頃になった娘に口をきいてもらえなくなるのが嫌で研究を始めたんだ、ってお父さんが言ってた」


「あれ、ちょっと待て、もしかして『パパ』ってましろの本当のお父さんのことか」


「そうだよ」


「それに、この心を読む力を研究したのはパパだって言った? それに秋山って名前、もしかして……」


「うん、お父さんと一緒にマインド・タッピングについて研究をしていたのが私のパパ」


「ってことは、ましろのお父さんは今」


「……うん、死んじゃった。私が八歳の時にね、電車に飛び込んで自殺したって聞いた。どういう気持ちだったんだろうね。せっかく心を読む力があるのに、パパの気持ちは一番遠くて、分からない」


 その時、交差点から車のライトがこっちに向かって照らされた。はっとなってましろの手を引き歩道に慌てて戻る。さすがにましろも歩き疲れたのか、すぐに帰るような気分ではなかったらしい。近くにあったバス停のベンチに腰をかけた。


「こう見えてさ、けっこうショックだったんだ。パパはすごい学者で私は尊敬してた。逆にママはちょっと怖い人だったの。何考えてるかよくわからなくて、すぐに怒るし……だからパパの方が好きだった。でもね、パパが死んじゃって、これからママとも仲良くしなきゃって思ったら……今度はママもいなくなっちゃったんだ」


 周りがあまりにも静かすぎて、唾を飲む音さえ聞こえてしまいそうだ。ましろの話に俺は相槌も入れられない。


「パパが死んじゃって、ママはそれまで以上に私に冷たくなったの。あなたなんて知らないって言われて拒絶されることも多くって……辛かったなあ。ある日ママは急に出かけたまま帰ってこなくなって、ご飯も家の中にはなくて、何度も何度もママに電話をしたけど出てくれなかった。お腹が空いて、泣くのも疲れてた。親戚には会ったことがなかったから誰に頼ったらいいかわかんなくて。うちの電話の着信履歴見て、片っ端から電話してみた。そしたらお父さんが助けに来てくれたの。パパとは共同研究をしてた仲だから、って。それからお父さんと一緒に暮らすようになって、ママには一度も会ってない」


 ましろはふっと息を吐いて肩の力を抜いた。だからあのスーパーにいた親子に必死になっていたのか。ましろがあの女性に手を伸ばした時の気持ちを思うと、自分の浅はかさを責められるようで胸が痛くなった。


「それなのに、何でお母さんを探すんだよ。ひどい目にも遭わされているんだし、あまり好きじゃなかったんだろ?」


 ましろはふふふと笑った。この顔は父親に似ているんだろうか、それとも母親似なのだろうか。ましろはポケットから一枚の写真を取り出して俺に見せた。一人の女性が笑顔で写っている。……ああ、なるほど。やっぱり母親似なのかもしれない。


「最近この写真を見つけたんだ。私が生まれる前のママ。私の記憶の中ではママは怖くて嫌な人だったはずなのに、こんな笑顔の写真があったら困っちゃうよ。自分が今まで信じてきたものがまるで嘘みたい。もしかしたらママは本当は怖い人じゃなくて私の記憶違いかもしれないし、私が生まれたせいで怖い人になったのかもしれないし、わからなくなっちゃったんだ。だから、ママの本当の気持ちが知りたくなって。私のことどう思ってたんだろう、って。その結果傷ついたっていいんだ。でも私のママは一人しかいないから、探すのを諦めたら一生わからないままでしょう? ……だから探すんだ。ママの本当の気持ちを。どこにいるかまったく手がかりはないから、とにかく色んな人からヒントをもらって探すんだ」


 そのためにあんなに無差別に人の心を読んで回っていたなんて。不器用さに呆れると同時に……感心してしまう。


「それなら先生に聞くのが一番早いんじゃないのか。少なくともましろのお父さんとは共同研究者だったんだろ?」


「うん、そうかもね。でも、お父さんには聞けないや」


「何でだよ」


「お父さんのこと、今はパパと同じくらい好きなんだ。心配かけたくないの。ママがいなくなって私しばらく落ち込んでた時期があったから、なるべく会わせたがらないと思う。それに、もしママが見つかったら、お父さんは遠慮しちゃうかもしれないでしょう? 私はママを見つけたとしても、お父さんと一緒に暮らしてたいんだ。だから、お父さんには秘密にしてる。旭くんも言っちゃダメだよ」


 ましろはシーッと人差し指を口の前に立てる。


「わかった、言わないよ。言ったらましろにバレるし」


「うん、旭くんの心は読みやすいからすぐにわかるよ」


 そう言ってにっといたずらに笑う。その時ましろの携帯が鳴った。着信画面には「お父さん」と表示されている。


「お父さん帰ってきちゃった。鍵持ってないから家入れない、って」


「それは悪いことをしたな。そろそろ戻るか」


 なんて言い訳しようかなー、とさっきまでの暗い表情とは裏腹に楽しそうにスキップを踏んでいる。少女は確かな意思を持って、自分の母親を探すために不器用ながらも前に進もうとしていた。こう言ったら不謹慎だろうか。……正直、羨ましい。それだけ必死になれるものを持っていることに。


 俺自身は何をやりたくて今ここにいるんだろう。小学校も中学校も高校も何不自由なく卒業して、上を目指すために浪人して受験勉強に明け暮れて、いつの間にか就職活動を迎えて。いつも最善の選択をとっているつもりが、うまく進もうとすればするほど何かがぼやけて見えなくなっている気がする。


「俺も協力するよ!」


 気づけば先を行くましろの背中に向かって叫んでいた。心の中では、これは現実逃避なんかじゃない、と何度も繰り返し自分に言い聞かせながら。


 俺の腕に触れていないましろは、振り返って無邪気に目を輝かせた。


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