2-6


 早川宅から最寄りのスーパーは駅を挟んで反対側の改札を出て横断歩道を渡った、大学通りの入り口あたりにある。K市の中では一番大きいチェーンの三階建のスーパーである。ましろには家で待っていてもいいと伝えても、ついて行くと言って聞かない。あんまり知らない人の心を読んだりするなよ、と釘をさすと、大丈夫大丈夫と空返事が返ってくるだけだった。


 不安は的中。マンションから出るなりましろは街ゆく人々をきょろきょろと観察しだし、獲物が見つかれば今にも飛びついていきそうな様子で目が離せなかった。老人の荷物を持ってあげるなんて言って俺を油断させた隙に、その人の行きたいバス停を勝手に読み取って案内をしたり、そのついでに運転手の心を読み取って「居眠り運転はダメだよ」と念押ししたり。ましろに心を読まれた人々がぎょっとした顔で彼女を見るたび、俺が適当な言い訳をしながら割って入る。


 早川宅からスーパーまではわずか徒歩五分ほどの距離だったにもかかわらず、ましろを見張りながら歩くのは思ったよりも精神をすり減らし、おまけに大学生と中学生の男女の組み合わせにすれ違う人々からは疑いの視線を容赦なく投げかけられ、目的地に着いた頃には彼女を連れてきたことをかなり後悔していた。


「むしろ手つないで歩けば良かったのかな……」


 思わず漏れた言葉にましろは目を細めて嫌悪感丸出しに睨んできた。


「何言ってんの」


「すみませんでした」


 買い物なんてましろは面倒がると思っていたが、スーパーにつくなり率先して買い物カゴをカートに乗せて持ってきて、「何を買うの?」と嬉々として聞いてくる。生鮮コーナーでは変わった食材を見かけると手にとって不思議そうに見ていた。その姿に地元の小さなスーパーの映像が浮かんでくる。小学生の時はよく母親とスーパーに出かけて、ご褒美として買ってもらえる、戦隊もののフィギュアが付いた食玩目当てに買い物を手伝ったりした。母はご褒美目当てであることはわかっていながら、毎回買い物終わりに「ありがとう」と言って幼い俺の頭を撫でた。その時の母の笑顔は褒められた嬉しさと同時に、自分の下心を責められているような気がしてどうしても目を合わせられなかった。中学に上がる頃には母親と一緒にいるのが急に気恥ずかしくなって、それ以来行かなくなってしまったが。


「ね、何買うのか言ってくれたら私それ持ってくるよ」


「うーん、そうだな」


 にら、キャベツ、シイタケ、生姜、ひき肉……。ましろは持っているスマートフォンのメモ帳に俺が読み上げた食材の名前を並べていく。途中指を止め、ましろは俺の腕に触れた。今回は避けなかったので、ピリッと静電気が走る。


「餃子ね! うちで食べるの久しぶりだなぁ」


 ましろはにこにこと無邪気な笑みを振りまいて、スマートフォンのメモ帳と見比べながら野菜コーナーを物色し始めた。こんなに無邪気な少女らしい姿はむしろ新鮮だった。普段はどこか理屈っぽく、小馬鹿にしたような態度をとるくせに。






 ましろに野菜を任せて、俺は早川家に足りないであろう調味料を探しに行こうとした時、野菜コーナーの方で「痛っ」と女性の悲鳴が聞こえた。嫌な予感がして声がした方を見ると、小学生にもならない息子を連れた母子のそばにましろが立っていた。


「あ、ごめんなさいね。静電気が」


 女性はそう言いつつも、不自然なタイミングで手を伸ばしてきたましろのことを訝しんでいる。夕飯の買い物に来ている割に、その女性は妙にめかしこんでいた。母の後ろに隠れるようにして立つ少年は目に涙をためており、今にも泣き出しそうな顔をしている。スーパーらしからぬ風景に同じフロアにいる人々は三人の方をちらりと振り返るが、厄介ごとには巻き込まれまいとそそくさと離れていった。


「お母さん、あなたすっごく今イライラしているでしょう」


「え、何よいきなり……」


 ましろは何の遠慮もなく赤の他人に向かって失礼なことを言ってのける。その目はまっすぐで、女性は疎ましく思いつつも受け流すことはできないようだった。まずいな。俺は人ごみをかき分けて慌ててましろの方へ向かう。


「私が今手を出さなかったら、あなたはこの子を殴るところだった。この子すっごく怯えてる。殴られるのも初めてじゃないんでしょう」


 女性は図星だったのか、言葉を返さず唾を飲んだ。そして確認するように自分の息子の方を見やると、少年はぴくりと肩を震わせた。深いため息が女性の口から漏れる。


「それはどうも、止めてくれてありがとうね、お嬢さん。だけどあなたには関係のないことでしょう?」


 女性の声が少し低くなり、ましろをきっと見つめ返す。しかしましろはひるまなかった。


「あなたはこれから出かけなきゃいけない。時間がなくて焦っている時に、この子があなたを困らせるわがままを言った。だからカッとなって手をあげる。でもそれって本当にこの子のせいなの?」


 ましろは少年の方を見たが、少年は目をそらしてうつむいただけだった。


「ねえ、だからなんなの? 勝手にわかったような口をきいて」


「本当はこの子に対してイライラしてるんじゃなくて、出かけなきゃいけないことに対してなんでしょう」


「は? 何を言ってるの」


「あなたは、行きたくもない飲み会を断れないストレスを……っ」


 ましろが言い切る前に後ろから口を押さえる。女性はましろによって火に油を注がれたのか、ものすごい剣幕でこちらを睨んできた。慌てて笑顔を作って「すみません、うちの妹が失礼なことをして」と謝る。咄嗟についた嘘だったが、女性は信じたらしく、怒りは呆れに変わったようだった。まさか面接用に練習してきた作り笑顔がここで効力を発揮するとは思わなかった。


「全く……急いでるので、失礼しますね」


「ええ、ご迷惑をおかけしました」


 ほら、行くよ、と少年は母親に手を引かれて歩いていく。少し歩いたところで少年はちらりとこちらを伺い、何かを訴えるような顔をしていたがすぐに母親の方に向き直った。ましろがんぐぐとうなって俺の手を口から離そうと力を込めた。もう女性も別のコーナーまで行ってしまったから大丈夫か。手を離すとましろはくるんと振り返った。


「ちょっと! なんで止めるの! せっかくあの人がイライラする原因を教えてあげられるところだったのに」


「お前な……そんなこと教えてどうすんだよ」


「説得するんだよ」


 その目には一点の曇りもない。ましろは自分が正義と信じて疑わないようだった。俺は周りに聞こえないよう、少し声を潜める。


「いいか、心が読めるのは結構だけど空気も読めるようになれ。あの人めちゃめちゃ怒ってたぞ。もしあのまま続けてたら今度はましろが殴られてた。それに、ここには人目が多いだろ。お前の力がみんなにばれたらどうする気だった?」


「そんなことまで考えてらんないよ。あの子がお母さんに殴られるところだった、止めなきゃって思って先に体が動いちゃったんだよ。子どもに暴力を振るうお母さんは、嫌いだから」


 まっすぐこちらを見ていても、その視線の先はどこか遠くにあるような気がした。ましろが少し顔を伏せる。その表情は憂いを帯びていて、今までになくもの寂しげであった。


 こういう時、なんて声をかけるべきなんだろうか。お世辞にも俺は気を遣える方ではない。考え始めると急にましろの家庭教師をしていることが怖くなった。こんなに不安定な時期の少女を、自分の進路さえ決まっていない学生が教師面して一体何を教えられるというんだ。これはエゴだ。だから言葉が浮かばない。単位のために引き受けただけで、この数ヶ月間、たったの一度も彼女の力になろうなんてまともに考えたことはなかったのだ。


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