2-5
大学の裏門を抜けたあたりで、ポケットの中に入れていたスマートフォンが振動した。画面を見ると「非通知」とある。この三文字に心躍らない就活生はいないだろう。慌てて周囲を見回し、電話の相手に雑音が伝わらないか確認した。大学の裏門あたりは市内に住んでいる学生ぐらいしか通らないため、あたりは閑散としていて鳥の鳴き声すら聞こえてきそうだ。通話ボタンを押し電話を耳に当てた。
「はい。H大学三年の黒柳です」
今日面接を受けたばかりのメーカーだろうか。いや、あんな会社連絡がかかってきてもこちらから願い下げだ。そういえば先日グループディスカッションを受けた会社はまだ結果待ちの状態だったはず……
『早川だ』
あぁ、電話をしながらこんなに顔をしかめたのは人生で初めてかもしれない。
「先生の電話番号はもう登録したはずなんですけど、なんで非通知なんですか? 嫌がらせですか?」
低調子で問うと、電話の向こうの早川はスピーカーの音が割れるくらい爆笑した。
『いや、悪かったよ。ちょっと携帯の電池が切れそうだったから、大学構内の公衆電話を使ったんだ。そうか、このタイプの公衆電話だと相手には非通知になってしまうんだな』
「で、ご用件はなんです」
『君はいつも素っ気ないな。そんな風だと面接はなかなか通らないだろう』
「俺がこうなのはあなたに対してだけです」
『それは結構。だがそれは責任転嫁というものだ。大学生ほど自由意思に基づく選択に満ち溢れた時間はないぞ』
「すみませんね、落ちこぼれのゼミ生で。ただの嫌がらせならもう切っていいですか」
『まぁまぁ、そんなに焦るな。今日は一つ頼みがあるんだよ』
「頼み?」
『ボディーガードみたいなことを頼んでもいいかい』
ボディーガード。その言葉を聞いて、おおげさな刑事ドラマで見たことがあるような、黒服にサングラスをかけた屈強な男達が頭に浮かんだ。自分のような一般家庭に育った人間には現実味のない言葉である。黒服を着て彼らの横に並んだ自分の姿も想像はしたが、しばらく運動もトレーニングもしておらず、栄養価の少ない一人暮らしの食事で痩せた身体はあまりにも不釣り合いだった。
「俺がですか? で、一体誰を」
『ましろに決まっている』
「いやいや、娘想いにしちゃ度が過ぎるでしょう」
犯罪発生率都内最下位クラスの平和ボケした街に、量産型の洋服を着た垢抜けない少女を守る細身の学生ボディーガードなど、いったいどこに需要があるというのか。
『私が過保護だと言いたいのかい。まぁそれは否定しないが、君はましろの能力を軽視しすぎだ』
「心が読める力のことを言ってるんですか? そりゃ欲しがる人はごまんといるでしょうけど、黙ってれば済む……」
『本人の口が固ければ苦労はしないよ』
早川はため息を漏らす。どうもましろのことになるといつもの余裕がなくなってしまうようだった。
『いや……口が固ければというより、手が早くなければ、だな』
「どういうことです」
『君も一度心当たりがあるだろう。あの子は私が留守の夜に勝手に出かけて、誰彼構わず心を読んで回っているんだよ。昔はそんなことしてなかったはずなんだが、最近急にね』
どうりであの日の翌日、早川から連絡があったわけだ。詳しく聞いてみると、早川がましろの徘徊に気づいたのはちょうど俺がましろに初めて会った日の夜だったらしい。その日早川は出張で帰りが遅くなったが、想定より早く帰宅するとましろが着ている服に必死で消臭スプレーをかけていたらしい。近づいてみると家ではしないはずの臭い――つまりタバコの臭いがしたのでましろを問いただしたのだという。
『私には妻はいたことないが、あの時相手の浮気現場を目撃した時の気持ちがわかったらような気がしたよ』
「で、先生は今日もお仕事で帰りが遅くなるから、ボディーガードと称してあの子が無茶しないよう監視してほしい、ってことですね」
『さすが我がH大の学生だ、察しがいい。もちろんタダでとは言わない。ちゃんと相応の給料は出そう』
もともとゼミの単位を報酬として始めたはずのましろの家庭教師兼ボディーガードだが、早川は律儀にも大学に然るべき書類を通していて、大学からバイト代として時給千円が支給されていた。
「わかりました。じゃあ六時くらいには先生の家に行くようにします」
『よろしく頼むよ』
電話が切れ、端末を買った当初から変えていない待ち受け画面が現れる。やはり緑の電話アイコンには赤い通知マークはついていなかった。
「えっ、旭くん本当に来たのかぁ」
インターホンを鳴らした後に玄関を開けたましろは、俺を見るなりあからさまに嫌そうな顔をした。
「俺も単位がかかってるんでね」
「お父さんには黙っておくから、帰っていいよ。ね!」
「俺がいたらまずい理由でもあんの?」
ましろは何か言おうとしたが、別に、とむすっとして口をつぐんだ。
「それより夕飯! 夕飯は旭くんのおごりだからね!」
来客を出迎えるでもなく、少女は靴を履いて部屋から出てきた。白いワンピースに裾が長めのダッフルコートを着ていて、出かける準備は万端のようだ。
「おごってやんのはいいけどさ……いつも先生が夜遅い時は外食なわけ?」
「あっ、私のこと料理できないと思ってるでしょ」
「なんか作れるのか」
「ラーメンとか、パスタとか、カレーライスとか!」
そのラインナップは早川家のキッチンで見覚えがある。すべてレトルトパックに入っているものだ。
「それ料理って言わないだろ……」
「じゃあ旭くんは何か作れるの?」
「お得意の力であててみな」
ましろはすかさず手を伸ばしてきたが、触れる直前でさっと手を引いた。こう何度もくらっているとさすがにタイミングがわかる。バランスが崩れたましろが少しよろけて、むっとほおを膨らます。色の薄いましろの顔がうっすら赤く染まった。
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