第7話 過去、遠い日々

「トキオはトキオが生きたいように生きればいいんだよ」

 それが父の口癖だった。

 父は陰陽師だった。といっても、分家の末っ子だったから家督を継ぐこともない気楽な身分。だから、陰陽師として最低限の力だけは持っていても、力を高めることも、技を磨くことにも積極的ではなかった。

「お父さんも、家が陰陽道を掌る家系だったから陰陽師をやってただけだし……今は、ただの会社員だしね」

 父親は優しく笑って言った。

「だから、トキオは無理に陰陽師になんてならなくてもいいから」

「……お父さん」

 だけど、僕は気付いていたんだ。父がそんな風に言う本当の理由。

 それは――


「どうして、お兄ちゃんは幽霊が見えないの?」

 それは僕が小学生のときのことだった。

 まだ幼い弟のトキヤは僕に向かってこんな風に問いかけたのだ。

「ボクは幽霊が見えるのに……。陰陽師って妖怪とか幽霊をやっつけるのが仕事なんでしょ? 幽霊が見えなかったら陰陽師にはなれないんじゃないの?」

 幼さ故の残酷なまでの素直さが、父が絶対に言おうとしなかった言葉をこうもあっさりと口にさせてしまう。

「………………」

 僕はいとけない弟の言葉に何も応えることはできなかったのだった。


 僕は幽霊が見えなかった。

 それはトキヤが言うように陰陽師としては致命的な障害だった。陰陽師の仕事は霊を祓うことだけではないが、霊を相手取ることは陰陽師にとって当たり前のことだ。それが見えないのでは話にならない。

 父はそれに気がついていた。

 だから、僕にずっと「生きたいように生きればいい」と言って、陰陽師として生きる必要はないと説いていたのだった。僕が傷つかないように、ショックを受けないように、僕に自由に生きさせようとしていたのだ。

 ……でもね、父さん。

 僕は本当は父さんみたいな陰陽師になりたかったんだ……。

 父さんは「生きたいように生きればいい」と僕に言った。

 本当は陰陽師として生きたかった僕はどんな風に生きればよかったんだろう……。


 それでも当時の僕は諦めなかった。今よりももう少し諦めが悪かったのだ。

 確かに僕は幽霊が見えない。それは致命的でどうにもならない事態だったけど、霊が見えないことと陰陽道の呪術を行使できないことはイコールではない。僕の中には確かに父から受け継いだ霊力が眠っていた。ただ、その力が眼には発現しなかっただけなのだ。

 僕は修行を積んだ。滝に打たれ自身の体内のオドと自然に満ちるマナを結び付けるコントロールを身につけ、山籠りをして何日も飲まず食わずで死との境界線を感じ取る術を体得した。

 当時の僕は自分が強くなっていく。そんな満足感を得るためだけに自分を痛めつけたのだった。

 そして、あの日がやってきた。


「大丈夫?! 兄さん!」

 頭が痛い。吐き気がする。まるでメリーゴーランドにでも乗せられたように視界がぐるぐると回転する。

 なんだこれ……?

 いったい何があったんだっけ……?

 僕は痛む頭で自分がこんな風になった原因を思い返す。


 きっかけは単なる学校の怪談話だった。

 僕が通う小学校の音楽室に幽霊が出現した。どうもその霊は悪霊らしく、小学校に通う児童に危害を加えるらしい。

 悪霊であろうと霊である以上、原則的には生きた人間に物理的な影響を与えることはできない。しかし、間接的な影響なら与える可能性がある。たとえば、人間の魂に傷をつけることで、肉体にそのダメージをフィードバックさせるようなパターンだ。要は規格外に強力な催眠術だと思えばいい。実際に催眠術で単なる箸を焼け火箸だと信じ込ませると、熱くもないのに火傷するという。理屈はそれと同じだ。だから、霊によって「切られた」と本気で信じこめば、肉体も同様に切断される。つまり、放っておけば危険であることは間違いないのだ。

 僕は音楽室の悪霊を退治しようと思った。

 それは僕が陰陽師だったからだ。

 僕が陰陽師になりたかったのは、誰かを救えるような人間になりたかったからだ。

 だからこそ、今が僕が立ちあがるときなんだ。

 勝手にそんな使命感に燃えた。


 その結果がこのざまだった。

 音楽室の悪霊に返り討ちにされ、全身をズタボロにされた。仮にも修行を積んだ身だったから死にはしなかったが、たとえ死んでもおかしくない。それくらいの傷だった。

 見えない相手に対して戦うなんてやはり無理だったのだ。

「兄さん、なんで一人で戦うなんて無茶したんだ」

 まだ小学生になったばかりの弟のトキヤに助けられなければ、本当に死んでいただろう。

 トキヤは困ったような顔をして言った。

「兄さんは幽霊が見えないんだから、一人で戦うなんて真似しちゃ駄目だよ」

「………………」

 情けなかった。

 情けな過ぎて、逆に涙すら出なかった。

 この瞬間に僕の中にあった情熱とか気力とかいうものが根こそぎ消えてしまった。

 僕はこんな幼い弟にすら勝つことはできない。

 こうして、僕は陰陽師になることを諦め、そして、生きることも諦めた。

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